第17話 シチュー
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僕の顔がタブレット端末の画面で照らされた。夜の闇も相まってそれはとても眩しかった。
『大丈夫? 朝日くん』
ぼうっとした頭に、その文字列はなかなか馴染まなかった。画面を見て数秒経ってから、僕はやっとそれらが僕に向けられたものだということを認識する。
「ん……ごめん」
最近、ずっとこんな調子だった。劣等は僕の心を真っ黒に染めている。
図書室には近寄ってない。春葉に会わないためだ。学校が終われば遠回りなルートを使って家に帰る。正広に会わないためだ。でももしかしたら後ろから僕を驚かせて一緒に帰ってくれるんじゃないか、なんて都合の良い期待をしてる自分に気付いてもっと自分が嫌いになる。
幼馴染という間柄が、あの一日だけでしがらみのようなものにしか感じられなくなった。
今の行動は逃げだと取られても仕方がない。けれど、以前のように正広や春葉と笑っていられるとも思えなかった。
僕の心は、僕の汚れを許すことが出来ていない。
今日の儀式は深夜の公園でのシチュー作りだった。もう七月も下旬で季節はすっかり夏だというのに、僕たちは額に汗を滲ませながら並んでベンチに座って、小さな鍋でコトコトとルーを煮込み続けている。深夜ということもあって、美味しそうなルーの香りがつんつんと僕の胃を刺激した。綿雪さんが持ち込んだガスコンロからは、闇の中で青く揺らめく炎がめらめらと燃え上がっている。
『朝日くん、最近元気ない』
そういえばいつの間にやら、綿雪さんは僕の事を名前で呼んでくれるようになっていた。
「元気なさそうに見える?」
僕の疑問を頷いて肯定する綿雪さん。
『最近の日記だって変だった。何かあったの?』
綿雪さんに言いたくないという気持ちが、僕の言葉を詰まらせた。綿雪さんを助けようとした僕が、綿雪さんに助けられてしまったら本末転倒だ。
ところがそんな不安定なままの僕を、綿雪さんは許してくれなかった。
「わ、綿雪さん?」
ガスコンロの火を止めた綿雪さんがずいと僕に近寄る。仰け反る僕が綿雪さんに這い寄られている形だ。
綿雪さんが淡々と僕の顔を見つめる。
『教えて』
「……嫌だ」
一瞬だけ、綿雪さんの顔が曇った。それでも、綿雪さんは強く口を結んだまま、僕にタブレットの画面を示す。
『私は朝日くんの力になりたい』
「――綿雪さんに話しても、意味ないよ」
どうして僕は、こんな態度を取ってしまうのか。凛と僕を見つめる綿雪さんの目から、僕は逃げることしか出来ない。
「話したところで僕の悩みは解決しようがない。だったら――僕が耐えるしかないじゃないか」
僕の苦痛は僕が我慢しなきゃいかない。当然だ。痛みは共有なんてできない。
ましてや、心の痛みは他人には理解できない。
でも綿雪さんは、泣きそうになりながら僕に言うんだ。
『見てられない』
少し赤く潤んだ目の綿雪さんを見て僕はハッとした。あの放課後の涙を、他ならぬ僕が繰り返そうとしてることに気付いた。
痛みに耐えると決めたら、他人に心配させちゃいけない。それができないくらい弱いなら。
「――分かった。話すよ」
僕は綿雪さんに打ち明けた。
春葉が好きだったこと。
正広も春葉を好きだったこと。
僕は弱いから、正広に告白を押し付けたこと。
僕が僕自身の気持ちから逃げたことに後悔していること。
洗いざらい何もかも、僕の劣等を全て吐き出した。
シチューを煮込みながら僕の話を聞き続けていた綿雪さんは、何故か涙を流していた。大粒の雫を目からボロボロとこぼして、僕なんかよりもよっぽど苦しそうに、辛そうに、僕の話を受け止めていた。
「――ごめん。綿雪さん」
僕はそう謝るけど、綿雪さんは横に首を振る。その意味を僕は察することができない。
肺と心臓の狭間で悶々と渦巻いていた僕の劣等は、綿雪さんへの申し訳なさに変わっていた。
綿雪さんがおぼつかない手でタイピングをして、タブレットを僕に渡してくれる。
タブレットに、涙が二滴。
『すごく辛いと思う。でも、あまり自分を苛まないで。朝日くんは朝日くんだから。きっとまた笑える日が来るから』
タブレットで語りかけて、綿雪さんは泣きながら僕の手を握ってくれる。
僕が綿雪さんの手を握った時を思い出した。
その手は温かくて、とても安らいだ。
「綿雪さんは……どうして僕のために泣いてくれるの?」
僕は綿雪さんに尋ねた。
綿雪さんは涙を服の袖で拭うばかりで、僕の質問に答えてくれなかった。
「一回訊きたかったんだけど、世界の崩壊って一体何なんだい?」
二人とも落ち着いてから、僕たちはまた話し始めた。
シチューは出来上がってから、いつか見た魔方陣の描かれたテーブルクロスの中心に置かれている。これで『捧げ』が完了しているらしい。その辺は今もよく分からないままだった。
『私も詳しくは聞いたことがない。ただ確かなのは、八月三十一日がタイムリミット』
「思ったより近いんだ」
『だから、これからは夜中だけじゃなくて昼間にも色々と準備や儀式を進める』
「ん? でもそれって無理なんじゃないの? 他の人に見つかるとまずいって……」
僕の諦めを聞いて、綿雪さんは微笑みを浮かべる。最近の綿雪さんはよく笑ってくれる。
『じゃん』
今回は校門前に来た時のような無表情ではなくて、笑顔で。
白い大きめのトートバッグから、片手で握れる程度の何かを自信満々にベンチに置いた。
竹串で脳天を串刺しにされたシュールなテルテルボーズが、紙コップの中に入っている。
『結界装置です』
「本気で言ってる?」
どう見たって病んだ人のアイテムだ。
『これを空間の四隅に置くと、その部屋は人から認識されなくなる』
「そんな便利アイテムをどうして最初から使わなかったの?」
『テルテルボーズの中身の材料が無くて』
「そんな大層なもの入ってるのかこれ……」
しかもその大層なアイテムが貫かれてるっぽい。ティッシュに包まれた頭の部分に入ってるんだろうけど、竹串が胴まで到達してる。テルテルボーズは、紙コップの中から滲んだ黒い目で僕を見つめてくる。多分油性マジックでぐりぐりされただけの目だ。こいつが僕たちを人目から守ってくれるとは到底思えない。だが綿雪さんの自信は、以前盗み出した学校のマスターキーを僕に見せた時のそれとなんら変わりなかった。
「じゃあ、人には見つからないとしても儀式の場所はどうするの? 綿雪さんの部屋あたり?」
『学校』
「でも学校は授業が……」
『明後日から夏休み』
「……ああ、そう言えばそうなのか」
通ってはすぐ帰ることに必死で、そんな事をすっかり忘れていた。
「夏休みだったら、確かに空き教室も幾らでもあるね。広いし」
『また協力よろしくお願いします』
「こちらこそ」
綿雪さんと僕はお互いにぺこりとお辞儀をした。
「そろそろ帰るけど、そういえばシチューはどうするの?」
『もう捧げた。鍋を軽く洗ってから帰る』
綿雪さんは自身の右側に置いていた鍋を持ち上げて僕に見せる。
「――嘘だろ」
完成後は僕たちが手も触れなかった、煮えたシチューが入ってるはずの鍋は、綺麗さっぱり中身が無くなっていた。
神様が食べたのだろうか。
*
七月二十日(金)
話を聞いて色々励ましてくれたおかげで、少し肺の詰まりみたいなものが楽になりました。本当に、ありがとう。
……見破られてしまった。(笑)
朝日
*
七月二十一日(土)
どういたしまして。朝日くんって割と分かりやすいよ。(笑)
人を好きになることは苦しいときもあるけど、とっても大切な感情だと思います。だから、好きになってもらえなかった自分をあまり責めないでください。いつか、朝日くんのことを全部わかってくれる人がいるはずです。きっと。
華
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