第13話 実れ。
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期末テストが終わった。普段努力をしない僕が学年トップクラスの壁にどれだけ抗えたのかは分からないけれど、やれるだけのことはやった。後は結果を待つだけだ。
その後に迎えた七月四日。空には水色と白のコントラストが爽やかに広がっていて、遠くの方には入道雲が見える。平日だというのに、球場の観客席には保護者や関係者と見られる大人が少なくない。風も少なく気温も季節相応の高さで、スポーツをまともにしたことのない僕が言うのもなんだけど、スポーツ日和と言える気候だった。
球場の周囲では試合を控えた選手たちが、威勢の良い掛け声などと共に入念にウォーミングアップを行っている。キャッチボール、バットの素振り、ランニングなど、それぞれが自分の役割を十分に発揮しようとしている。その集団の中に、枕木中学校軟式野球部員たちの姿もあった。各自でアップをこなしているらしい。
少し辺りを見回して、僕はバットを振るう正広の姿を見つける。
「正広!」
「――おお、朝日か。ちゃんと来てくれたな」
白い歯を見せる正広。そのユニフォーム姿は、いつになくたくましく見えた。
「試合は何時ぐらいからになりそうなんだ?」
「んー、二回戦だから一応十二時半くらいの予定だな。延長とかその辺の関係もあるから、球場のアナウンスか掲示でちょくちょく確認しといてくれ。早まる可能性もあるけどよ」
「分かった。――とは言っても大分後なのは間違いないな。まだ二時間以上ある」
「そうだな。まあミーティングとかもあるから、俺たちもあんまりのんびり喋ってもいられないんだが……」
「さすがに大会の当日となると忙しいな」
「普段だって暇じゃねえけどな」
「うん、よく知ってるよ」
帰りに横から漂ってくる汗のにおいも、その日焼けした顔も、すっかり固くなった手のマメも、傷だらけの足も、僕は知っている。
正広は頑張った。僕が証人の一人だ。その努力は、きっと今日を戦うための大きな力になる。
「チームの仕上がりは?」
「ばっちり――とまではいかないけど、大分良い。全力は尽くせると思う。つーか春葉は?」
「まだ落ち合ってないんだ。というか……前ちょっと喧嘩しちゃってな。もしかすると今日は会えないかもしれない」
「マジかよ」
「多分球場のどこかに来てるとは思うんだけどなあ。まあ、時間もあるし適当に探してみるよ」
「おう、ちゃんと応援飛ばしてくれよ」
「六甲おろし覚えてない僕でもいける?」
「枕木中の校歌でいいぜ」
お互いのくだらない冗談で笑いあう。
正広が突然、拳を突き出してきた。マメとか傷とかがいっぱいの、強い人間の手だった。察した僕もそれに拳を返す。僕の腕は白くて細いなと思った。
「頑張れ。ずっと見てるからな」
僕は少し照れくさくて、弱ったように笑う。
「ああ、任せろ。三年間の集大成をお前らに見せてやる」
正広は力強く笑う。その目には、僕にも見て取れる強い決意が宿っていた。
大会本部に行って今日の予定表を貰った後、僕は春葉を探して球場をうろつき始めた。観戦席はただ芝が生えた地面で、見に来た保護者なんかはもれなくレジャーシートを持ち込んでいる。お昼も近づいているので、お弁当を片手に応援する人もちらほら見えた。そんな中、バッターボックス近くの観戦席をうろついてた僕は、芝生の上に一人で体育座りをしている春葉の姿を見つけた。びっくりしたのは、すっかり短くなったボブカットの髪だった。一瞬判別に困ってしまうほどだ。
「春葉?」
僕の呼びかけにその女子が振り向いたのを見て、僕はその子が春葉であるとようやく分かった。僕は春葉の隣に歩み寄ってゆっくり腰を下ろした。お尻に刺さる芝がちくりと痛かった。
好きな子の隣に座る照れよりも、話をする気の重さの方が遥かに強く感じた。
「携帯があれば簡単に落ち合えたんだけど……ごめんよ。遅くなって」
「――大丈夫。私も、そんなに暇してたわけじゃないから」
そういう春葉の口調は、まだ少し重い。あの日出来てしまった僕たちの溝は、完全に埋まったわけじゃないんだと実感させられた。
「髪、切ったんだね」
「……うん。似合うかな?」
「良いと思う。元気な春葉らしくて」
「――そっか」
「どうしたの?」
「別に」
素っ気のない春葉。出そうとする言葉にいつもより詰まりを感じる僕。会話が弾まない。
「正広の試合、十二時かららしいよ」
「あ、そうなの? 私日程表持ってなくて……」
「これが日程表」
僕は本部から二枚貰っておいた日程表の一枚を春葉に手渡す。
「ありがと」
僕たちは二人揃って予定表に視線を落とした。トーナメント表一回戦の学校名の中から、枕木中とその対戦相手を探す。
「あったよ。これじゃない?」
春葉が持っていたトーナメント表の一部を、人差し指で示した。僕の視線はその先に向かう。
「〔
春葉の方を見ると、日程表を見つめるその顔は深刻だった。
「……まずいと思う」
日程表を裏返した春葉は別の所を人差し指で示す。示されるままに僕はそこに目をやる。
見せられた前年度優勝の欄に、〔柳野中〕の文字があった。
ふと時計を見ると、試合開始までもう二十分もなかった。
爽やかな陽光を振りまいていたはずの空は、いつの間にか鈍い灰色に包まれてきている。少し風も出てきて、掲揚柱の国旗が荒ぶっていた。
野球に関して戦術やらチームワークやらを知識としてまるで持たない僕が見ても、その差は歴然としていた。同じ中学生ではあるはずなのだ。しかし、実力差というものはどうしてもそこに存在した。正広たちは努力してきた。だが、向こうはそれだけでは得られないレベルの何かを以ってして、正広たちを叩き潰そうとしている。
鉄壁のような守備。砲撃のような投球。バットを金棒のように振るう姿には殺気すら感じる。
柳野中の応援団が怒号のような応援で球場を満たす。球場全てを蹂躙していく柳野中の勢いに、枕木中サイドの戦意は応援の保護者も含めてすっかり消沈してしまっていた。その合間を縫うように、ピッチャーの放った球がキャッチャーミットに叩きつけられる音が響く。二人目のバッターがあえなく三振に倒れ、肩を落としてベンチに帰っていった。これでツーアウト。
スコアは七回表の現段階で八対〇。辛うじて放った幾つかの安打にも、続ける打者がいない。
あとワンアウトで、全てが終わる。
「やばいな……」
バッターボックス後ろの観覧席からそう呟くしかない僕。
「負けちゃうのかな……」
隣の春葉は今にも泣きそうな声だった。
他の枕木中の保護者も、エグさを孕んだ柳野中の圧倒的な野球にのまれてしまっている。
いつかの帰り道で正広が、県下にいる全国クラスの三校について話していた。
なら、仕方ないんじゃないか。初戦の相手が悪かった。皆も仕方ないと笑ってくれるさ。
諦めが、徐々に体の内側を蝕んでいく。
まただ。春葉を泣かせた時にも湧いた、黒い感情。これに包まれたときの僕は、とても醜い。
次のバッターは正広だった。一瞬だけ覗けた表情は、僕がこれまで見たどの正広の表情よりも険しい。二、三度スイングして軌道を確認した後、バッターボックスに向かう正広の足取りは重かった。正広も雰囲気に呑まれてしまっている。
まずい。そう直感した直後だった。
「正広ぉっ!」
場の空気を切り裂きながら、女性の怒声が僕の真後ろから飛び込んできた。
女性とは思えない声量に驚いて、僕や春葉も含めた周囲の人間が一斉にその声の主を見る。
右手は三歳の少女と、左手は七歳の少年と、それぞれ手を繋いでいる。隣には、棒付きキャンディーをくわえて耳をふさぐ十歳の少年がいた。年齢が分かるのは、以前に正広の家で会ったことがあるからだ。兄弟全員を正広が丁寧に紹介してくれた。
エプロン姿の恰幅のいい正広の母は、つかつかとフェンスに近づき、周りを気にせず叫ぶ。
「だらしねー格好してんじゃないよ男のくせに! ヘロヘロなのなんてらしくねえんだよ、ヘラヘラして戦ってこそお前だろうが!」
その荒々しい口調に気付いた正広が、こちらを向いて目を丸くする。
「すいません、野次などのプレイの妨げはご遠慮頂いて……」
「やかましいのは向こうの応援団もでしょうが! こっちも騒いで何が悪い!」
大会関係者らしき人が注意をしに来ても、正広の母は意にも介さない。
僕の隣で座っていたはずの春葉も、気付けばフェンスに飛びついていた。
「かっ飛ばしてよ正広! さくっと一点取っちゃおう!」
それを見た応援席の男子中学生や保護者が、一人、また一人とフェンスに張り付いて必死に声援を送り始める。死にかけていた枕木中側の雰囲気が、その勢いに乗って少しずつ息を吹き返していく。球場内を圧迫していた柳野中サイドの怒号は、もう気にならなくなっていた。
柳野中サイドに引けを取らないレベルの声援に混じって、僕も精一杯の声を張り上げる。
「正広ぉっ!」
応援を受けた正広は、何かを振り払うように顔を左右に震わせた。バッターボックスに立って、バットを構える正広はピッチャーの挙動に集中する。勢いに動揺していた様子だった相手ピッチャーも、大きく息を吐きながら、バッターボックスの正広を睨みつけた。
ピッチャーは大きく振りかぶり、今まで以上の気迫と共にボールを投げた。
正広のスイングは、心地の良い金属音を球場にこだまさせる。
そして。
ぽつりと、雨が――。
試合中に降り始めた幾つかの滴りは無数の雨粒を呼び寄せて、球場は天気予報になかった大雨に包まれていた。枕木中と柳野中以降の対戦は予備日に回され、沢山人がいたはずのグラウンドには、僕たちを除いて誰一人としていなくなっている。
正広の母親は「晩飯の準備しないと」と言って、正広を僕と春葉に任せて帰ってしまった。
僕と春葉は、球場の入り口の屋根の下にいた。僕たちが見つめる先には、泥と雨ですっかり汚れてしまった正広が、呆然とそこに立ち尽くしていた。
「……正広。風邪引くぞ」
「――大丈夫だ」
力ない正広の口調に、僕も春葉もかける言葉が見つからずただ俯くだけだった。
僕は正広が打ち上げた盛大な打球はホームランになってもおかしくなかった大飛球だったのだが、柳野中の外野が壁にぶつかりながら、それをなんとか捕球した。
試合は八対〇のまま、ゲームセットを迎えた。
枕木中ナインの反応は様々だった。対戦相手との握手を終えて泣き崩れる生徒もいれば、やりきったような顔で堂々とグラウンドを後にした生徒も、やっぱり勝てなかったよ、と悔しさ半分諦め半分で笑顔を作る生徒もいた。
そんな中正広は、ずっとぼうっとしていた。僕たちにもあまり口を開かないまま、今に至る。
僕たちは、正広が口を開いてくれるのを待つしかなかった。
立っているのに疲れて、僕は球場入り口のコンクリートにへたりとしゃがみ込んだ。その様子を見て、僕の右隣に春葉も続くように腰を下ろす。無機質な雨音だけが、延々と続く。
「悪かったな、朝日。……負けちまった」
謝る正広に僕は答える。
「何も悪くないよ。――何も」
雨は止むどころか勢いを増してきていて、冷たく正広の体を打ち続ける。
「ジュースでも、また奢らせてもらうよ」
僕に言えることはこれぐらいしかない。
正広のぶち当たった壁は、相応のものを積み重ねてきた正広にしか見えない。そこにまるで関係の無い僕が言えることなんて、ほとんど無い。
隣の春葉がふと立ち上がった。無言のまま傘を開いて、正広の正面に立った。そして、正広を傘の中に入れた。正広は春葉から顔を背けるけど、構わず春葉は正広を見つめ続ける。
「――帰ろう?」
正広が春葉の方を見た。そして、何も言わないで頷く。その様子を見て、僕は正広の荷物も一緒に抱えて、立ち上がった。
正広は自分自身の感情を隠すのが得意じゃない。
春葉の一言が、ひたりと正広の琴線に触れたのを感じた。
正広が膝から崩れ落ちて、地面に溜まった雨水が少し跳ねて。
「くっそお……」
雨音をかき分けて響く正広の泣き声。僕は初めて見るその姿を直視することが出来なかった。
そして――なんとなく、本当になんとなくなんだけれど、浮かんだ考え。
正広は、春葉のことが好きなんじゃないだろうか。
*
七月四日(金)
今日、野球部の友達が部活を引退したんだ。僕はその試合を見に行ってて、なんともいえない気持ちで。月並みに、きっとアイツは悔しいんだろうと思った。その悔しさは努力を積み重ねてきた正広にしか分からないもので、僕はなんて声をかけてやれば良いか分かんなくて。
世界が理不尽なことがすごく嫌だ。
努力が報われたり報われなかったりするんだもの。
朝日
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