第12話 落とし穴

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 勉強は期末テストまでずっとしていくつもりだけど、大して勉強に力を費やしたこともない僕は、勉強を続けることにまるで耐性がない。そんな状況に耐えかねた僕は、結局参考書探しという名目で本屋にやって来た。今が二十二日で期末テスト開始が二十六日だから、今日も合わせてあと四日しかないのに。

 心の中で湧き出す不安の声を無視して、棚の本を取り出し、ページをめくる手も止めない。あ、【あいさつから始める心証操作】ってこの本面白そうだな、買うべきかも。僕は流し読みしていた新書を小脇に抱えてまた別の本棚に向かう。

 基本的に近所のこの本屋に来たときに、物色していく順路は決まっている。入り口近くで新書とかでちょっとひねくれたタイトルのものを漁ってみて、次に一般文芸と文庫本、次にライトノベルや漫画といったジャンルごとに漁っていく。次は一般文芸なのだが……やはり本というのは本当に書くのに時間がかかるもので、文庫本などになるとその本棚の入れ替わり頻度は少ない。好きな作家の棚を探しても並んでいるのは以前買ったものばかりなんてことは多く、今回も残念ながら新しく並んでいるものはなかった。

 次はライトノベル。今回買うものは【エンディング=ガール】の続編にもう決めていた。

 目指すア行の作者の棚を見つけ、少し胸が高鳴ったのを感じた。だが、直後に僕が見たのは棚から的確に引き抜かれていく【エンディング=ガール】続編の表紙だった。

「あっ……」

 無意識に上がった僕の声に、その本を手に取った人物が反応してこちらを振り向く。

 ぶわっと、血流が加速するような感覚。

「――え、朝日?」

 春葉だった。

 大丈夫だろうか、顔が目に見えて赤くなったりしてないか僕。自分の顔をぺたぺたと触ってみるのだけど、特に何か変わったことが分かるわけでもない。目に見えてパニックを起こしているのはむしろ春葉の方だった。露出が多いわけでもないのに、膝を抱え込んでしゃがんだような体勢になった。

「なんでここにいるの?」

 文句をつける春葉の顔は僕を見上げていて、半ベソといった様子だ。

「いやそれはこっちの台詞だよ……丁度春葉が持ってるその本を買いに来たんだけど」

「私も買いに来たんだけど。この本」

「いや、それは別に譲るけど――その体勢は何?」

 僕が投げかけた疑問に、春葉は微動だにしないまま、渋々といった様子で答えてくれた。

「――今私、上下スウェットなの」

「……へ?」

 春葉を見ると、丸まった上半身は無地の黒のスウェットで、膝から見る限り下半身は無地のグレーのスウェットだった。

「……何か問題があるの?」

「見られたくなかった」

「分かんないなあ」

「――可愛くないでしょ。この服」

「はあ」

 結局今も見栄っ張りのままの春葉。要は生活感溢れる今の服装を見られたくないということらしい。

「じゃあ、仕方がないから僕は先に帰ってるよ」

「ダメ!」

「は?」

「ああ、もう、どうしよう……」

 それはこっちの台詞だ。何をどうすれば良いのか分からないと、春葉は頭を抱えて俯いている。僕も春葉がどうしたいのか分からず、結局途方に暮れる。けれどここで無視して帰れば春葉の僕への心証が最悪になってしまうのは、小脇に抱えている新書を読むまでもなく分かる。

「じゃあ、こうしよう春葉」

 台詞の後で、僕は春葉に背を向ける。左手をズボンのポケットに突っ込んだ。右手はそもそも新書を持っているので塞がっている。

「このまま、僕は後ろを振り返らない。で、春葉が言ったとおりに僕が動けばいい。会計なり何なり済ませて、後は僕を道なりに帰してくれれば良い」

「――分かった。絶対振り向かないで」と、若干躊躇いはあるものの、気丈さを取り戻しつつある春葉。背後から一つ目の命令が飛んできた。

「前に進んで」


 会計を済ませて店の外にたどり着くまでに、二十分近くかかってしまった。会計のときに店員さんがこちらへ向けていた、不思議なものを見るような目線が強く印象に残っている。

 何より春葉の命令が凄く下手だった。真っ直ぐ進んでいて行き過ぎた時に、来た道を戻らせたかったのか、百八十度僕を回転させてわざわざ自分の方に向かせて、自分で発狂したりするもんだからもう手に負えない。

 で、その時の逆ギレの結果が春葉におもいっきりビンタされたこの頬だ。

「本当にごめん……」

「いや、別に良いよ……本屋の外には出られたけど、この先どうするの?」

 僕は背後の春葉に声をかける。まだ入り口に出たばかりなのだ。家に帰るにせよ、別の目的地に向かうにせよ、道は相当長い。

「じゃあ、家に送って」

「……このスタイルは継続なの?」

「だって恥ずかしいし」

 昔はお風呂だって一緒に入った仲が、こんな風になるなんて想像もつかなかった。

 僕は春葉の指令に応じて、春葉の家まで続く長いアスファルトの道を歩き出した。六月下旬の昼下がりは、雲ひとつない青空が広がっている。

「ねえ、朝日」

 春葉と泊まったりもしたよなあとか考えを巡らせていると、背後から声が飛んできた。

「何?」

 下手に振り返るとさっきの二の舞になってしまうので、前を向いたまま僕は答えた。

「こないだ図書室に居た時、女の子が朝日を訪ねてきたじゃない? えっと確か――」

 そう言ってその先を続けられない春葉。どうやら名前が思い出せないらしい。

「……綿雪さん?」

「そう、綿雪さん! あの子可愛いよね」

「うん。確かに可愛いけど……それが何?」

「私最近思ったんだ。あの子実は朝日のこと好きなんじゃないかなって」

「はぁ?」

 話が思わぬ急展開を迎えたことに驚いて、僕は素っ頓狂な声を出す。

「朝日ってさ、正直友達って私と正広くらいしかいないじゃない?」

「うぐ……」

 確かに実質、友達は春葉と正広の二人くらいしか居ない。

「ましてや、女子の友達なんて朝日が自分から作れるわけないでしょ?」

「春葉、僕にだったら何言っても良いとか思ってない?」

「なのにあんな美人な子が朝日と偶然友達になるなんてありえない! ってことは、今朝日が仲良く出来てるのは綿雪さんが朝日の事を好きで、仲良くしようとしてくれてるからなのよ!」

「お前なあ……」

 とはいえ、確かに綿雪さんが何故僕にある程度心を許してくれているのかは確かに分からない。儀式の手伝いなら他にもいるだろうに。ただ交換日記の事があるので、その辺は無理矢理納得できる気もする。しかし、綿雪さんが僕の事を好きなのであればあの屋上で直接告白出来そうなものだし、距離を詰めるにしたって交換日記という手段はあまりにもまわりくど過ぎる。

 そういえば、綿雪さんは〔人と話せない〕みたいなことを交換日記に書いていた。

 儀式だって、結局よく分からないまま手伝っている。

 綿雪さんの目的が見えない。

 何故、僕はここまで綿雪さんに惹かれるのだろう。期末テストの勉強も元はといえば綿雪さんの儀式を手伝うためだ。

 僕たちの関係には、謎が多すぎる。一度、綿雪さんと話してみるべきなのかもしれない。

「――朝日?」

「え?」

 気付けば、目の前には長い灰色の坂道。ここを抜ければ、すぐに春葉の家は見えてくる。

「ああ、ごめん、何か言ってた?」

「別に。ただ今凄い考え込んでたね」

「悪い癖だな……直さなきゃ」

「そうだね。昔っからずっとそうだったよ。何か一つ悩み始めちゃうと、私や正広を置いて、すぐに自分の世界に入っちゃうの」

 困っちゃうわよホント。と春葉は背後から呆れ声で言ってくる。

「まあ、悪い癖の話をするなら春葉の事をとってもキリがないけどな」

「私にそんな悪い癖なんてないわよ」

「嘘つけ。昔から僕と喋ると常に暴言が付いてくる。いい加減僕にも我慢の限界があるぞ」

「朝日は優しいもん」

「思ってないよね?」

「朝日は体は小さくても心は大きいもん」

「身長のこと馬鹿にした? ねえ?」

 我慢の限界が早速来たかもしれない。ちょっと仕返しをしてやろう。

「あんまり僕を馬鹿にしてると痛い目見るぞ――」

「何する気よ?」

「こういうことかな」

 そう言って、僕は百八十度方向転換する。目の前にはもちろん、スウェット姿の春葉。

「ひゃっ! 馬鹿、振り返らないでよ!」

 恥ずかしがった春葉はすぐ、僕の頬に右手が伸びる。それをすかさず僕は左手で受け止める。

「そりゃ同じことになるのなんて予想済みだよ。甘い甘い」

 半べその春葉に向けてわざとらしく笑う僕。泣かない程度にいびるか。なんて思ってたら。

「ふざけないでよ!」

 叫ぶ春葉の左拳が、鈍い音と共に僕の鳩尾にねじ込まれる。予想外の二段目の攻撃だった。

「ぎッ」

 間抜けな声をあげて、アスファルトとか気にする余裕も無く突っ伏す僕。

「あ――、ご、ごめん!」

 腹を抱えてうずくまる僕を、心配そうな春葉が見下ろす。鏡も無いのに自分の顔が真っ青になっていくのが分かる。

「だ、大丈夫……」

 どう考えても気丈でしかない台詞。言葉とは裏腹に飛びそうになる意識。

 僕たちは、公園で休むことを余儀なく強いられたのだった。


「……オレンジジュース飲む?」

「いや普通急所にパンチくらった後に何も飲めないよ……」

 気を遣って春葉が缶ジュースを買ってきてくれたのだけど、腹の痛みは収まるどころか強まっているようにさえ感じる。あの放課後のようだった。

「本当ごめん朝日……」

「いや、もう謝らなくて良いって」

「分かった。ごめん……あっ」

「……」

 ベンチの上で横になる僕と、隣に座ってしょげる春葉。かれこれ十分くらい、もうずっとこんな感じだった。

 昼下がりの公園はのどかな空間だった。目の前には、公園の砂場で遊ぶ子供たちが居た。僕とは対照的に、元気に喋りながら砂場に落とし穴を作ろうとしているようだ。プラスチックのスコップで必死に砂をかき出している。僕と春葉は、しばらく無言でその様子を眺めていた。

 不意に、春葉がぽつりと呟いた。

「私たちって――変わらないわよね」

「何が?」

「いつもどっちが泣くまで傷つけあって、泣いたら謝って、泣き止んだらまた傷つけ合うの」

「あー、確かにそんな感じだな僕たち。――よく絶交しなかったもんだよ」

 まあそんな間柄だからこそ、こんなに関係が長続きしてるのかも。

 そう付け足したけど、春葉の返事はなかった。

「……春葉?」

 痛みも大分マシになったので、体を起こして春葉のほうを見た。

 泣いていた。

 握り締めた両手を膝の上において、大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。

 その丸まった背中も、普段の明るさからは想像も出来ない小さな嗚咽も、昔のまま。

「――もっと、ちゃんと仲良くしたいのに……」

 その潤んだ声は、僕の息をぐっと詰まらせた。

 声をかけてやるべきなのは分かっている。手を取ってやるべきなのは分かっている。

 でも、僕は動けない。腹の痛みのせいじゃなくて、心が僕を縛り付けている。

 春葉は僕ともっと仲良くしたい。喧嘩がしたくない。それは分かる。しかしそれが、僕の中で春葉の涙と結びつかないのだ。涙の意味が分からないままで、適当に慰めたとしても、それが心からのものでないときっと春葉には分かってしまう。

 今まで喧嘩を繰り返しても、謝ってしばらくしたら、また仲良くやれたじゃないか。春葉が僕を泣かせたら、春葉が謝った。僕が春葉を泣かせたら、僕が謝った。

 今回は春葉が僕を傷つけて、同時に春葉も傷ついた。――いや、多分僕の言葉が知らず知らずのうちに春葉を傷つけたんだと思う。

 そんな僕はなんて声をかければいい?

 無責任に手を取ったところで、何か支えになれるのか?

 ――なんなら、僕が春葉の弱いところにつけ込もうとしてるだけじゃないのか?

 その考えに至った瞬間、僕は自身がとても汚れた存在であるように感じてしまった。

 僕は春葉が好きだ。その想いに嘘はない。だけど、ここで心の寄り処になってやれないような汚れた僕に、好きだという資格はあるのだろうか。

 どろりと黒いものが腹の中を満たし始めた。

 僕は縫いとめられたまま動けなくなったかのように、ただただ座って地面の砂利を見つめていた。僕たちのことなんて知らずにはしゃぐ子供たちの声と、春葉のすすり泣く声が、耳の中でいつまでも響き続けた。

 気がつくと辺りはオレンジ色に染まっていた。隣に目を向けると、泣き止んだ無言の春葉が真っ赤な目を前に向けて座っている。砂場の子供たちはいなくなっていた。

「大丈夫?」

 さっきは出なかった言葉が、いとも簡単に口から飛び出した。

「ごめんね」

 謝る春葉。

 もう謝らなくて良いって、とさっきまで簡単にかけることのできていた言葉は、喉の奥に引っ込んで出てこなくなってしまった。しばらく無言でいた後、僕は春葉に提案をした。

「……帰ろうか」

「――うん」

 春葉は頷いた後、立ち上がって僕の方を見ずに公園を後にしようとする。

 びっくりするほど重い足を動かして、僕も公園の出口に向かった。わざと砂場を歩いて子供たちが作っていた落とし穴に引っかかれば、場の空気が少しくらい軽くなるんじゃないんじゃないかと思った。けれど作ることを諦めてしまったのか、はたまた出来上がったことに満足したのか、穴があったはずの空間には沢山の砂が詰まっていた。

 僕はその場所を何事もなく踏みしめて、春葉の後を追いかけた。

 この日、僕たちは最後まで一言も言葉を交わさなかった。


      *


六月二十二日(日)

 勉強の息抜きに本屋に行ったら、たまたま幼馴染と出会ったので一緒に帰っていたんだけど、なんやかんやあってその子を久しぶりに泣かせてしまいました。昔もたびたび泣かせることはあったんだけど、今回は何がきっかけで泣かせてしまったのか本当に分からなくて……どうしたもんかなあ……。

 あ、ごめんなさい。すごい個人的な話でした。

 朝日


      *


六月二十三日(月)

 なんだか日曜日大変だったみたいだね……大丈夫? ……いや、大丈夫じゃないからここに書いてるんだよね。でも、朝日くんは優しいし、今回のことも悪気があってそうなったわけじゃないんだから、素直に言えば思いは伝わるんじゃないかな。

 他人の目線からだとこんなことしか言えなくてごめんなさい。幼馴染さんとまた仲良くなれることを祈ってます。

 華

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