第3話 佳乃春葉と瀬央正広

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 僕は人の感情以前に自分の感情が信じられない。例えば、好きという感情。僕だって抱いたことが無いと言えば嘘になる。というか、現在進行形で抱いている。大概の人間は、生きている限り一度は抱くであろう恋心。人間の感情の中でも特に不明瞭で不確定なもの。転じ方によっては迷惑にしかならないし、結び付き方によっては切れる事のない強固な繋がりになる。

 問題となっているのは僕の場合、その思いの根源の部分にある。つまりどうして僕はアイツを好きになったのかということ。

 アイツと手を繋ぎたかったのか、その笑顔に引かれたのか、おっぱいに目がいってしまうのか、ずっと隣に居たいのか、僕の心の拠り所になって欲しいのか、単純にイチャイチャしたいのか――あるいはその集合としての感情なのか。でもそんなの分からなくて、あくまでなんとなく「ああ、僕はアイツの事が好きなんだな」とうっすら自覚することしか出来ない。

 僕がアイツと付き合えば、僕は多分アイツを幸せには出来ないと思う。でもやっぱり好きなんだよな……と、想いと劣等感がごちゃ混ぜになって、脳内をエンドレスで駆け巡る。

 結果、こんな考えを延々とこじらせているのだから、僕の恋は終わらないし始まらない。


 翌日の木曜日。授業中にも寝てしまうほど寝不足だけど気にせずに、放課後、新たな本を図書室でチョイスすることに決めた。友達が部活を終えるのを待つ間、こういう場所に行ってみると、思いも寄らぬ珍書や名作が発掘できるかもしれない――そんな気まぐれが元だった。

 うちの中学の図書室はびっくりするくらいに人気が無い。しかし本の揃いが決して悪いわけではないし、図書委員会のキャンペーンがあまりにも酷いということも無い。僕のようなクラスの隅っこに居そうな奴が好んでたりしないのかと思ったが、そんな層すら存在しないらしい。

 まあ、一人で気ままに本を漁らせてもらおう……そう考え、図書委員の上履きしか入っていない下駄箱の適当な位置に上履きを投げ入れ、意気揚々と引き戸をスライドさせた、僕の視線のその先で。

「――あ、朝日だ」

 肩までのすっきりとしたセミロングが、振り向きざまにふわりと揺れる。

 佳乃春葉よしのはるははカウンター越しに呟いた。


 春葉は作業用のカウンターに勉強道具をいっぱいに広げていた。勉強中だったらしい。図書室には誰もいないようだった。僕が本棚を見て回ろうとすると、春葉が話しかけてきた。

「本当に久しぶりよね。中学最後の年は満喫してる?」

「満喫してたらこんな煮干しみたいな目してないよ」

 僕はやる気を出来るだけ削いだような声で言う。

「春葉って図書委員だったっけ。お前こういう仕事面倒くさがりそうなんだけど」

「他の委員会よりは仕事量がマシだと思ったから。利用者なんて月に十人居れば良い方だし」

「暇そうだな」

「まあ、そろそろ受験勉強も始めなきゃいけないしねー」

 意識もせずに勝手に会話が繋がっていく。幼稚園、小学校、中学校とずっと同じ所に通っていたら、自然とこれだけ話せるような仲になっていた。僕の唯一と言っていい女子の友達。

「受験かあ……気付いたらもうそんな時期か。人生って早いな」

「まだ十五歳にもなってないのに人生語るとか、台詞がおじいちゃんみたい」

「よく言われる」

正広まさひろに?」

「そう。ジジイって呼ばれる」

「ぴったりじゃない」と春葉の口角が上がる。

 ああ、もう、笑うなよ。笑っていては欲しいけど、僕が笑われたいわけじゃない。

 一人で吹き出した春葉を余所目に、僕は屈んで本棚最下段の本を一冊一冊引っ張り出して表紙とにらめっこする。春葉と目を合わせたりはしない。昨日の放課後が頭をよぎって、背筋が勝手にぶるりと震えた。

「そうだ、久々に一緒に帰らない? 今日当番早めに終わっていいらしいの」と、浮いた声で春葉が提案をしてきた。

 約束をすっぽかそうか割と真剣に迷ったけれど、さすがに人間性が疑われそうな気がした。

「残念。今日は正広と約束してるんだ」

「あ、そうなの……。じゃあ仕方ないから、私は最後まで居残り勉強するわ」

「熱心だね」

「というよりそっちが雑よね。落ちても知らないわよ?」

「落ちたら落ちたで何かがどうにかなるよ」

「うわ、適当」

「生きるのは漂うようにするのが楽なんだ」

 言った直後に、ちょっと痛々しい台詞かなと感じた。なんとなく恥ずかしくて、僕は顔が見られないように顔を更に下に向けた。なんでこんなに恥ずかしいんだろう。

 僕と、僕の心は同じようで別の何かだ。僕に僕の心は理解できないけれど、僕の心は心自身のことをよく知っている。だから、実際は恥ずかしさの理由もよく知ってる。

「また今度、誘ってくれたら一緒に帰るよ」

「でも私、残念だけど当番じゃない日は大抵友達と帰ってるの」

「じゃあ帰れるのは、春葉に当番があって友達と帰れない日で、僕が正広と帰れない日か」

「それっていつ?」

「分かんね。でも、大分先だろ」

「それじゃ駄目ね。私が多分忘れちゃう」

「じゃあカレンダーにメモでもしとけば? 何月何日に朝日と帰る、みたいな」

「え。なんか朝日と帰るの楽しみにしてるみたいで嫌」

「何だよそれ」

「私が朝日に恋するオトメみたいになるでしょ」

 何だよそれ。

 さっきと一字一句同じだけれど、意味がまるで違う言葉を僕は心の中で繰り返す。僕がちらりとカウンターの方を向くと、春葉と目が合った。春葉はべろりと舌を出して、僕を馬鹿にするような顔をした。

 僕はまた本棚に視線を戻した。心の片隅にさっきの春葉の表情と言葉がぷすりと刺さる。その言葉が少しだけ痛いのが、紛れもない証拠だ。自分の心を再認識するのに十分な痛みだ。

 春葉はどうなんだろうか。僕たちは幼馴染と呼べる間柄ではあるけれど、お互いのことを知り尽くしてるわけじゃない。ましてや恋愛に関しては、二人で居るのが心地いい、なんてことは僕自身もつい最近まで考えたことがなかった。

 あくまで、今は僕の片思いだろう。

 二人きりの空間は息が詰まりそうで、一緒に居られるのが嬉しい反面、息苦しくもある。本選びも終わってしまい、どうやって過ごそうかと困っていると、突然引き戸が勢いよくスライドした。僕も春葉もびくりと肩を震わせて入り口の方を向いた。

 入り口の隙間からひょっこりと出る日に焼けた首――正広だ。

 瀬央家の頼れる明るい長男坊。よく幼い兄弟の面倒を見ている。そのせいか、お人好しと言えるくらいに面倒見が良い。高校生と言っても差し支えないほどに大きな体をしていて、浅黒い肌はこれまでの部活の成果だ。僕と春葉の共通の幼馴染でもある。

 図書室に首だけ突っ込んできた正広は、きょろきょろと辺りを見回す。

「うっす朝日、終わったぞ……え、春葉?」

「正広だ。久しぶりね」

「お、おう。――ところで朝日がここに来てないか?」

「そこの本棚の陰よ」

 春葉に促され、屈みっぱなしだった僕はようやく腰を上げた。

「正広もうちょい落ち着いて戸開けろよ。僕も春葉も寿命縮んだぞ」

「この引き戸が軽すぎるんだよ……待たせて悪かった。ミーティング終わったし帰ろうぜ」

 そう言って、正広は入り口の傍においていた僕の荷物まで持って、さっさと行ってしまった。少しくらい待って欲しい。

「……正広ってあんなに慌ただしかったかしら」

「いや、普段はのんびりしてるんだけどな。どうしたんだろう。……あ、この本貸し出しお願い」

「あーはいはい。今月バーコード読み込むの初めてよ、私」

「暇な当番お疲れ様です」

「皮肉な労いどうもです。はーい、終わったよ」

 高い電子音が響いた後、春葉は本を差し出してくれる。それを受け取って、僕は入り口の引き戸をスライドさせた。僕は首だけを春葉のほうに向ける。

「――じゃあ春葉、また。勉強がんばれ」

「ん。またねー」

 僕が心の中でこねくり回す想いとは裏腹に、素っ気のない挨拶を僕たちは交し合って、図書室での何とも言えない時間は終わった。


「なんであんなに慌ただしかったのお前?」

 精一杯の呆れを込めて、僕は言い放った。

「えっと……特に理由はねえよ。さっさと帰りたかっただけだ」

「なんだよそれ……兄弟の世話か?」

「いや、今日は母ちゃん早めに仕事終わるはずだから、今日はゆっくり帰れるはずだぜ」

「あ、そうなのか」

 ……まあいいか、流そう。

「相変わらず忙しそうだなあ、正広は」

「ああ、日々全力だぜ」

「ちょっとぐらい手抜けばいいのに。ずっと全力だと疲れるぞ?」

「分かってねえなあ朝日。脳味噌のあるは爪を隠すとか言うけどさ、やれることをやらないのは出来ないのと同じなんだよ。だから常にできることをやる。それで出来なきゃ仕方がない」

「後半正論っぽいけど、肝心のことわざが大間違いじゃねえか」

 脳味噌の無い鷹なんか居ねえよ。脳じゃなくて能だ。でもここまで突っ込むとくどい。

「その辺は何でもいいよ。朝日と違って頭が空っぽな分、ハートで生きないとな」

「へえ」

 真っ直ぐすぎる人間ってのも考えものだよなあと、正広を見るたびに思う。

 一日を終えた重い体にはつらい急な坂道を二人で並んで上りながら、くだらない話をして帰る。二年間、週一でずっと繰り返してきた習慣だった。背後の夕日は僕たちを照らして、その先に僕たちの影を延ばす。歩道の脇に生えた雑草の青臭さが鼻を突く。

「ところで正広、なんかまた日焼けしてないか? まだ五月頭だぞ」

「日中はずっとグラウンドでボール追い掛けてるからな。まあ、七月頭までには引退するだろ」

「そんなネガティブでいいのかよ野球部。全力で生きるんだろ?」

「いやあ、そりゃ勿論全力は尽くすぞ。でも、良いとこ県大会行くか行かないかくらいだと思う。全国クラスの三校が県下で一つのブロック大会枠争い合ってて、その内二校が俺らの地区に入ってるからな」

「それは……きついな」

 野球はルールすらも知らないけれど、それでも強そうな奴らがいるのは伝わった。

「もう二校で二十年以上この地区の決勝争いしてるんだってよ。何をどう練習したらこんなに差が出るんだろな」

 正広は一人で勝手に笑い出す。日焼けと対比された歯が白く爽やかだった。でも、おどけて笑う一方で目が真面目だった。そうだよ、負けたいわけじゃないもんな。

 制服のズボンのその下が、沢山の傷を帯びているのを僕は知っている。多分、それですら正広のがんばりの一部でしかない。

 僕も正広の言葉に笑い返す。

「まあ、やってみなきゃ分からないよ」

「そうは言うけどよ……」

 しっくりと来ない正広の返答を最後に、この話題は終わってしまった。オレンジに焦げたコンクリートを見下ろしながら、僕たちは無言で歩き続けた。すると、また正広が喋りだした。

「そういや今日、図書室に春葉がいたな」

「ああ、いたな」

「――ん、朝日どうした?」

「……何にも」

「笑顔引きつってっけど」

「そんなに?」

「俺でも分かるくらいだから相当に」

「マジか」

 僕は無意識に頬をさすった。図書室ではもっと大変なことになっていたのかもしれない。

「――朝日、春葉となんかあったのか?」

「どういうこと?」

「いや、だから……」

 口ごもる正広。正広はいつもまっすぐだ。

 ごめんな、正広。やっぱり誰にも内緒なんだ。

「別に。今まで通りだよ」

「……そうか」

 含みがいっぱいの受け答えで、正広は僕の答えを受け止めた。いや、含みがいっぱいだと感じるのは僕が春葉を好きだからなのかもしれない。

「なあ、朝日」

「ん?」

「俺たちってさ、まだ若いよな」

「ああ、ぺーぺーの中坊だ」

「早く、大人になりてえな」

 正広がぼんやりと呟いたその言葉を、僕はしばらく噛み砕く。が、飲み込めない。

 正広は、何を未来に見据えているのだろうか。

 僕は自分の未来を想像してみたが、そこには一面グレーの風景だけが広がっていて。

「――僕は、まだ今のままがいいや」

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