第10話 ステンレス製の引き出し

昔からボキャブラリーが豊富な方で、話が面白いよねと言われてきた。


たとえば女性と2人きりの食事の時でも、話題の引き出しは尽きることなく、時間を持て余すことなど一度もなかった。


だからその長所のことで悩むことなど無いはずだった。ましてやその引き出しのせいで自分の生活が破綻に追い込まれそうになるなどとは。


ことの発端は黒田部長と2人で飲みに行った時だ。

私の役職は係長で、歳も若く、本来なら部長と2人で夕食を共にすることは客観的には異例のことだったが、黒田部長が私のことをいたく気に入ってくださっており、月に2回は杯を交わす仲となっていた。


酒が入ると私はより一層饒舌となり、部長の話も傾聴しながら、その場で部長が楽しんでくれそうな話を豊富な引き出しの中から選び出し、反応を見ながら自在に空気をデザインしていった。


日頃から考えるのだが、話が上手い人というのは、単に話題が面白いだけではなく、共にいる人たちから発言を引き出せる人のことだと思う。

例に漏れず、その日の黒田部長も上機嫌で饒舌だった。


「すみませんちょっとお手洗いに。」


私は中座し、トイレへと向かった。

その途中で奇妙なことが起きた。


身体感覚を伴って、私の右脳の深部にステンレス製の引き出しが出現した。意識を向けると自由に開け閉めでき、話題がアイウエオ順に、ボキャブラリーがアルファベット順に整理されて収納されている。


ああ、酔っているのだと思った。

何事もなかったように黒田部長のもとへ戻った。


しかしそれ以降、言葉を発するたび、話題を切り替えるたび、私はその、ステンレス製の引き出しを開け閉めしていた。


翌日から、仕事に支障が出始めるのにも、そんなに時間は要さなかった。言葉を出すことは、今までどおり。なんの問題も無い。


だが問題は、収納する時だ。いちいち引き出しを開けて、順番どおりに言葉を整理しなければならない。


その作業が、私には多大な苦痛を与えた。デスクに座っていると話しかけられてしまい集中できなくなってしまうため、事務連絡程度の会話のあとでさえ私はトイレにこもって頭の中の引き出しを整理するようになった。


そのうち、同僚と言葉を交わすことも怖くなってきた。引き出しの整理が苦痛だからだ。


半年後、私は辞表を提出した。

これ以上会社に迷惑をかけるわけにはいかない。そのころの私は、通常の簡単な業務さえこなせなくなっていた。


黒田部長にも退職の意向が伝わったのだろう。部長室に呼び出され、2人で話をした。

黒田部長にだけは、私の奇妙な体験と、それが生活にどれだけの支障をきたすものなのかを話すことができた。本当に、自然に。


「辛かったな。」


「はい。」


「まあ、今から伝えることを信じても、信じてくれなくてもいい。実は私も、左脳の奥に君と似たような引き出しを持っている。物理的になのか、観念的なものなのかは今でもわからないが。

そして私のそれは、木製だ。しかも腐りかけている。言葉が咄嗟に出ないんだ。開かないこともしばしばだし、整理も上手くいっていない。

ただ君に言いたいのは、その頭の中の引き出しをおおいに活用してほしいということだ。おそらくだがこれは私たちに贈られた神様からのギフトなんだ。

使いこなすのに時間はかかるが、私はこの引き出しと共に生き、何度も助けてもらった。

付き合い方が分かれば、必ず味方になってくれる。ましてや、君のはステンレス製だ。」


結局、私は会社を辞めなかった。

銀色に鈍く光る右脳の深部にある引き出しは、社長になった私の経営判断に、多大な貢献を果たしている。


今でも錆びることなく実力を伴って。



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