第17話 三顧の礼

 趙雲と共に、袁紹軍に戻り、張飛とも無事再会するが関羽と、母、二人の夫人は曹操に捕らわれていた。関羽は劉備の家族を守るために一時的に曹操への忠誠を見せ、袁紹の二枚看板である顔良、文醜の二将軍を斬る。劉備の居所を知り、曹操から贈られた赤兎馬に乗り、家族と共に劉備の元へ帰った。

 そして世に名高い天下分け目の決戦『官渡の戦い』は曹操の勝利で終わる。袁紹は憤死し、劉備たちは袁紹の軍師であった許攸に勧められ同じ劉姓の荊州刺史、劉表のもとに身を寄せる。

 劉表と長男の劉琦に歓迎され、劉備たちは荊州北部の新野城を守ることになった。


 数年の間、荊州で劉表の後継者争いに巻き込まれながらも、挙兵してから初めて長く一箇所に留まることとなった。

そして劉備は今、身重の身体を労わられているところである。


「兄者、あまり動いてはなりませぬ」

「そうだそうだ。何か用事があればいつでも俺がやるからな」

「我が君、何なりと」


 関羽、張飛に趙雲を加え四兄弟となった劉備はわずかに膨らんだ腹を撫で「そんなに心配せずとも」と言いかけたが、夫人たちも口々に「安静に」と口を酸っぱくして言う。


「赤子が生まれたら、あたくし達が精一杯お世話いたしますわ」

「ありがとう」


 今までも劉備は何度か身籠ったが、戦と流浪故か子は流れていた。しかしこの荊州にてやっと子が望めるのだった。


「では奥方様たち兄者をよろしくお願いいたします」


 三兄弟は夫人たちに任せ外に出た。城内ではいつ劉表の次男派の間諜に聞かれるかもしれぬと、町に出て酒場で話し合うことにした。


「こうなるとしばらく兄者にはじっとしてもらわねばならないが、どうしたものか」

「うーむ。曹操の動きが気になるしなあ」

「劉表殿の配下の蔡瑁殿も不穏な動きをしておられるようですし」


 さすがの張飛も酒を飲むことなく劉備の身を案じ真剣にこれからのことを考えようとしている。その時ふらりと見知らぬものが酒場に入ってきた。

ひょろりとした背の高い男は物静かな様子で店主に酒を頼み、静かに飲んだ。

その様子を見て、張飛はまた、からかいたがりの性分を出し、その男の席に着いた。


「ようよう。そんな飲み方があるか!? 男なら、ほら、ぐぃっと」

「翼徳!」


 関羽はため息をついて張飛の襟首をつかみ「ご無礼つかまつった」と男に詫びる。

男は怒るどころか喜んで「いえいえ! お三方はもしや有名な劉玄徳様の義兄弟であられるか?」と立ち上がる。


「わしは関雲長。こちらは趙子龍、そしてこれは張翼徳だ」

「ああ! やはり。実は私はこれから軍師として劉将軍にお伝えしたく、景気づけに酒を飲もうと立ち寄ったのです。本当はろくにのめないのですが」

「ほお。兄者に仕えたいとな。して軍師とはいったい何をするものだ」

「軍師とは策略や智謀にて主君をお助けし、また戦では有利な布陣を敷き相手を撃破するのです」

「ふーん。俺には今ひとつわからぬなあ。戦では強さであろう」

「確かに強さは必須です。しかし膠着している戦いにおいては智謀によって勝敗が決まりかねません」

「なるほど。官渡の戦いでもまさかの袁紹軍大敗であったしな」

「雲長殿、翼徳殿。これから我が君は大変な時期に入られます。軍師が必要ではないでしょうか」

「大変な時期ですと?」

「いや、なんでもないが、こちらの話だ」

「まあ、ここで出会ったのも何かの縁であろう。さっそく兄者の元へ連れて行こう」

「これは、ありがたい。どうぞよろしくお願いいたします」


 早速、男を連れ、玄徳へと会せる。彼は官渡の戦いを始め、曹操軍が行ってきた策略の概要を話して聞かせ皆をうならせた。また曹操の軍師たち、郭嘉、程昱、荀彧の話をするとますます軍師というものの重要さを知った。こうしてその男、徐庶は劉備の軍師として仕えることとなった。


 しかし徐庶は曹仁の『八門金鎖の陣』を破り、これから玄徳軍での活躍という時に程昱の策略により、曹操に奪われてしまう。

落胆する劉備は徐庶から勧められた伏龍と呼ばれる諸葛亮孔明を得るため、彼の草庵を訪れた。


「兄者、今度いなければもうよしましょう。縁がないのです」

「そうだそうだ。そんな身重な身体で無理をし過ぎなのだ」

「大丈夫だ。もうこの大きさであればよく動いた方が良いと医師も言っておった」

「本当ですかあ? 俺はもうじっとしてた方がいいと思いますぜ」

「いや、有名な華佗先生も身体を動かすことの有意義さを説いている」

「うーむ。まあでも疲れの出ぬうちに帰りましょう」


 森の奥にすすみ、清らかな水を携えている井戸を見て、慎ましい草庵の前に立つ。ブツブツと文句を言う関羽と張飛は外で待たせ、今日こそは会いたいと玄徳は願い、声を掛ける。

「諸葛先生はおいででしょうか?」


 耳をすませ、しばらく待っているとバタバタと足音が聞こえ中から一人の女人が出てきた。


「まあ、これはこれは劉玄徳様でしょうか。主人は昨夜帰りまして眠っておりますの」

「そうですか」


 黄氏と自己紹介する女人は諸葛亮の妻で異国のもののようだ。彼女の燃えるように赤い髪と滑らかな褐色の肌、そしてくっきりとした目鼻立ちは劉備とまるで違う。


「待たせていただいてもよろしいでしょうか」

「ええ。どうぞこちらへ。そのお身体で大変なことですわね」

「いえ、もう不安な時期は過ぎました故」

「うふふ。そうですわね。産まれる寸前まで歩くといいですわ」


 目をくっきりと見開き好意的な様子で黄氏は劉備の大きな腹をそっと撫で「きっとお世継ぎですわ」と言う。


「は、はあ」


 しばらく静かに待っていると黄氏が劉備を気の毒に思ってか「もう、あの人ったら!」とバタバタと部屋を出て行った。

一刻(一五分弱)もせぬうちに黄氏は諸葛亮を連れて戻ってくる。


「ほら、あなた劉様がお待ちですわ」

「これはこれは。劉様、お初にお目にかかります。諸葛孔明です」

「おお、諸葛亮孔明先生ですか。私が劉玄徳です」


 すらりと長身の繊細な容貌を持つ若々しい諸葛亮は透明感のある涼しげな声を持っている。劉備は今まで出会った誰よりも男の気配がなく、かと言って女人のような華やぎや可愛らしさがあるわけでもない、透明な冷たい滝の水のような人物だと思った。そして自分はその清らかな水の中で手足を自由に伸ばし泳げるような気分になっていた。


「少し二人で話しますから、外のお二人をもてなしてあげてください」

「ええ、あなた。ごゆっくりどうぞ」

「かたじけない」


 劉備が頭を下げようとすると、「どうか、そのままで」と黄氏は気遣いを見せ、外へ出て行った。


 三人を見送ったのち黄氏は諸葛亮にしなだれかかり耳元に熱い息を吹きかけ「いかがでした?」と尋ねると、諸葛亮は静かに答える。


「うん。彼女は戦乱の中を清らかに泳ぐ魚のようですね」

「あちこちと所在なく立ち寄っていましたからねえ」

「僕が彼女の住処でありたいと思いました」

「うふふ。あなたが水で彼女がお魚。水魚の交わりというものでしょう」

「ああ流石は君だ。うまいことを言う」

「玄徳様と男女の交わりをお考えにはならなくて?」

「うーん。それはないでしょう。僕自身は男女の交わりにはさほど興味がないし、彼女の方も僕にはそういう関心は沸かないのではないかな」

「玄徳様はお気の毒に、初めてお子を産まれるのですよ」

「そうですか。それは可哀想に。君は身体が堅牢であるから丈夫な子を何人も産めるでしょうね」


 諸葛亮は女人として薄幸そうな玄徳の白い顔を思い浮かべた。


「もう少し早く出会っていましたら玄徳様にもっと多くの世継ぎを授けることが出来たでしょうか」

「どうだろう。彼女は曹操殿と違いますから。そこが少し残念です」

「曹操殿は有能な人材を集めるために、有能な男のお子ばかり孕んでいますものね」

「ああ。玄徳様は愛し合わないとそういうことが出来ないお人なのでしょう」


 諸葛亮は黄氏に、中華の人々がまだ目にしたことのない獅子の姿見出し、遠い異国に思いを馳せる。異国の民である彼女との交わりは諸葛亮にとって世界との交わりに近かった。ふっと劉備のつるりとした白い顔が目に浮かぶ。

 黄氏は諸葛亮が劉備に男女の情ではなくもっともっと深淵の情を、魂を交わし始めていることに気づき、ほんのわずか嫉妬心が芽生えたが劉備の澄み切った瞳を思うと厭うことはなかった。

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