第16話 官渡の戦い前夜

 献帝の側近である董承から劉備に密書が届けられる。内容は献帝を操り権力をわがものにしようとする曹操を討てとのことであった。劉備には董承をはじめとする、漢王室の重鎮たちの曹操への懸念と、献帝の彼女に対する思慕の情が対立するものであり、この密書に対して心から賛同することは出来なかった。しかし、このままこの許都に居続けることは劉備自身も板挟みになり、なおかつ曹操からの圧力もかかるだろう。

 献帝の行く末を考えると曹操を慕う気持ちがいつか本物の傀儡になってしまう可能性も否定できず、曹操をこのままにしておくことにも不安が残る。ただ劉備に今できることは皇帝を自称する袁術を討ち、献帝を正当な皇帝としてあり続けることを支援するのみであった。

 密書を誰の目にも触れさせずに、献帝に袁術を討つと願い出、劉備は許都を離れ徐州に向かう。


 許都では曹操が劉備と袁術の戦いの報告を待っていた。


「報告! 報告!」


 劉備を見張らせていた将軍が、脇に大事そうに抱えた黒い木箱を両手に持ち直し、頭を下げながら曹操に恭しく差し出す。


「なんだ、これは」

「玉璽にございます!」

「で? 劉備は?」

「はっ! そのまま徐州を御多忙な殿の代わりに治めるとのことです!」

 みるみるうちに曹操の顔に血が上り、真っ赤に紅潮する。そして手に持った木箱を地面に投げつけた。

「馬鹿者が! こんな石ころをのこのこ持ってきて徐州に劉備をとどまらせたのか!」

「え?」


 曹操は側に居た兵士にこの者の首をはねよと伝え、痛む頭を撫でながら戻っていった。 



 玉璽の扱いを聞き、劉備はため息をついた。


「そういう奴なのですよ、孟徳は。さあさ、玄徳殿」


 袁紹はにこやかな表情で民からの支持率も高く、献帝に皇叔と信頼を寄せられる劉備をもてなし、自分の味方になるよう言葉巧みに自軍へ引き入れた。玄徳劉備は袁術を討った後、少しだけ曹操と距離をとるべく徐州に身を寄せていた。しかし、そのことが曹操の怒りを買いはっきりと敵対されてしまうのだ。

 更に悪い報告があった。董承とその娘である献帝の側室、董貴妃が曹操暗殺の陰謀発覚により亡き者にされたのだ。

 このことは劉備の中で曹操を討つべきか否かということをはっきりさせる。


「孟徳は子供のころから冷酷なやつでしたよ。本当に女なのかというくらい。いや、女だからあれだけ非情になれるのでしょうね」


 袁紹の言い様に劉備は苦笑いするしかなかった。


 曹操軍20万に対し、5万にも満たない劉備は袁紹の援軍を要請するが叶わず、猛攻を受け逃げ落ちる。一人野山を彷徨い疲労のために、とうとう意識を失った。


 身体がふわりと浮き上がる感覚に玄徳ははっと目を覚ます。


「玄徳様。よかった」

「あっ」


 目の前に趙雲子龍の端正な顔があった。彼は倒れている劉備を抱きかかえ、安全な場所へ運んでいるところであった。


「どうして……」

「兄が亡くなったので故郷に戻っていたのですが、帰ってきた時には公孫殿はもう亡くなっており、もう憚ることがないと思い急ぎ、あなたを探していたのです」

「そうか……。しかし私にはもう何もない。兵馬も、雲長も翼徳も……。散れぢれになってしまった」

「ああ、我が君。わたしがいます。何もなくていい。あなたさえいれば」

「子龍……」

「傷の手当てをせねば」


 趙雲はそっと寝かせた玄徳の鎧と衣服を脱がせ、傷を眺める。白い細い肢体に細かな切り傷が無数についている。


「こんなに傷が……」

「皆に比べたら大した傷ではない」


 関羽と張飛が命がけで守っているおかげで致命的な裂傷はないものの、最初から劉備を恋い慕ってきた趙雲にとってはこの傷は痛ましいものである。


「この傷を全部わたしに刻み付けてしまいたい」

「関羽が、つぎに子龍と会った時遠慮をするなと申しておった」

「玄徳様……」


 このように弱々しい劉備を見るのは恐らく趙雲が初めてであろう。毅然として聡明で清らかな玄徳が今はまるでか弱い乙女のようだ。明日からはまた戦場の日々である。つかの間の二人きりの時間を惜しんだ。

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