第15話 中原逐鹿

 徐州を手に入れた曹操はこの場に劉備を残していくことに不安を覚える。陶謙から徐州を譲り受けた玄徳は瞬く間に臣民の心をつかみ慕われていた。いくら徐州を曹操が治めていると言えども民の心をつかむ劉備にいつ徐州を奪われるか分からない。そこで天子に会せるという名目で許都に連れて行き、そばに置くことにした。


「支度はよろしいでしょうか?」

「はい、玄徳様」

「いつでも出発できますわ」

「お二人とも申し訳ない。私のもとに来たばかりに落ち着いて暮らすことも出来ぬ。やっと呼び寄せた母にもご苦労を掛けてしまう」

「良いのです。あなた様のおかげであたくし達は引き離されることなく幸せでございます。お母さまには本当の親と思い孝行させていただきます。ねえ糜夫人」

「ええ甘夫人」


二人の婦人は仲睦まじく劉備は見ていると心が華やぐようであった。


――陶謙から徐州を譲り受けた際、劉備をやはり推挙していた配下の糜竺から援助として使用人、金銭とそして妹を妃にと贈られる。軍資金はありがたいが劉備としては女の身で妻を迎えることは出来ぬであろうと断ろうとした。しかし断る理由を明らかにすることが難しく、また彼女に恥をかかし得ないと慮り直接、妹君に会い、彼女の方で断ってもらおうと考えた。

 糜竺の屋敷に参ると美しく装った妹君が側に使用人らしき女人を伴って緊張した面持ちで劉備を待っていた。人払いをさせたが妹君はその使用人はそのままにし頭を深々と下げ玄徳に懇願する。

「どうか、どうか、この者も一緒にお願いいたしまする」

お気に入りの使用人にしては必死に頼み込む姿に劉備は事情を尋ね、実は婚姻についてこちらも話さねばならぬことがあると告げた。


「姫君。どうか他言は無用に願いたいのですが、実はこの玄徳、天下を安んじたいがために女の身を隠して挙兵しているのであります」

「え? 今何と? 女人ですと?」

「はい。それで輿入れくださってもあなたを妻として扱うことも子を持たせることもかないません」

「なんと! そうでありましたか。では是非ともあたくしを娶ってください」

「え? どういうおつもりですかな?」


困惑する劉備の前で彼女は使用人の手を取り胸に置いた。


「あたくしとこの者は睦おうてございます。家のため嫁ぐことは致し方ないとしても、せめて離れることがないようにと、玄徳様はお優しい方と聞きこの願いが聞き入れられるのではと思っておりました。あなた様が女人ならなおさら、あたくしどもを妻として側にお置きください。これからもお一人であられれば妻を娶る話が幾度と出るでしょう」

「ふーむ。なるほど。私のもとにお二人がおられることは、確かに双方にとって都合が良いかもしれませんね」


この言葉を聞き姫君と使用人は顔を輝かせ、更に続く言葉で二人は深々と頭を下げ生涯、妻として仕えることとなる。


「姫君を正室に、そしてそちらの方を側室に置くことにしましょう」


こうして劉備は二人の妻を持つこととなる。



 曹操は許都に到着した劉備を早速呼びつけ献帝に目通りをさせる。陣営以外の場所の曹操は物々しい朝服を着込み神妙な面持ちを見せる。劉備も初めて参内するための朝服を二人の夫人が用意してくれていたので、改めて妻という存在に感謝をする。老いた母も劉備を息子と思っているので夫人たちを本当の娘のように可愛がっていた。

曹操の後ろに三歩ほど下がったところで劉備もひれ伏し献帝を待った。

冕(べん)の玉スダレがシャラシャラと鳴り、献帝が玉座に座ると「おもてをあげよ」と声がかかった。


「その者は?」

「こちらが劉将軍でございます。さあ、玄徳殿」

「劉玄徳にございます」

「おおっ! そちが玄徳か! 話は聞いておる! そなたは我が同胞。ああ、これからは皇叔(こうしゅく)と呼ぼう」

「なんという有り難きお言葉、この劉備、骨身を砕く思いでお仕えいたします」


 曹操はここまで献帝が劉備に親しみを露わにすることに気に食わない思いを抱いき、更に劉備を油断のならぬ奴と見張り続けることにした。


「さて、陛下、玄徳どもの参ったことですし狩りにでも出かけましょう」

「おお! 狩りか! 良いな! さあ、行こう行こう。支度をせよ」


 無邪気に献帝は唐突な曹操の提案にためらうことなく従い喜んで支度をしに下がった。劉備はこの二人の気安さに不安を覚える。


「さて、我々もこのような重たい朝服を脱いで狩りに参りましょう」

「は、はい」

 従うしかないので劉備も早々に屋敷に戻り、夫人たちに手伝わせ慌てて狩場へと向かう。

「都では慌ただしいのですね」

「うむ。戦場でもあるまいに、慌ただしいものです」

「どうか、お気をつけて」

「行ってまいる」


 馬を走らせ、言われた森に向かっているとすでに曹操と献帝は弓の張りを試している。そこへ一頭の鹿が躍り出る。


「陛下! ほれ、そこに鹿ですぞ!」

「おおっ、良し!」

 

ひゅんと矢ははずれ、取り巻きの臣下たちは、はあっとため息をこぼす。うなだれる献帝の手からこともあろうか曹操は弓矢を取り上げ「陛下! 気落ちしている暇はござらんぞ!」とひゅんと矢を射る。見事、矢は鹿に命中した。


「おおーっ!」


 歓声が上がる中、献帝は恥じ入る表情を見せ、臣下の中には曹操の行いに不快感を得ている者もいた。さあっと皆の様子を曹操は一瞥した後「さあ、まだまだこれからですぞ!」とまた森の中へ入っていった。


 狩りでの出来事を思い返し憂いているところへ献帝からの呼び出しがかかる。失礼のないようにと急ぎ身支度を整え朝廷へ参ると、珍しく曹操はいないようで献帝の私室へと呼ばれる。


「おお、皇叔。よく来てくれたな、さあさこちらへ」

「これは陛下。ご機嫌麗しゅう」

「挨拶など良い」


 献帝は劉備の手を引き奥へと招く。人払いされており誰もいない私室は寒々しい。


「皇后さまはおられないのでしょうか」

「ん。下がらせておる。ところで、今日は恥ずかしいところを見せてしまったな。そなたに良いところを見せたかったのだが」

「いえ、それよりも、曹丞相のおふるまいには驚いてしまいました」

「ああ。孟徳は朕に対しては懸命になりすぎて熱くなる傾向があるのでな」

「は、はあ」


 劉備はてっきり曹操が献帝を利用し、そのことで彼が傀儡として苦しんでいると思っていたが実際は曹操を慕っているようだ。そのことがまた劉備には危機に思えてしょうがなかった。


 夜には献帝のもとに曹操が訪れ、彼女の胸の中で甘える献帝が今日劉備と話した一部始終を告げていた。


「そちは本当は皇帝になりたいのか?」

「なぜ、そのようなことを」

「玄徳もはっきり言わなんだが、皆は孟徳が朕を利用しておると申す」

「ふふふっ。董卓の事を覚えてらっしゃいますかな?」

「ああ、相父のことはよく覚えておる。相父も朕に色々なことを教えてくれた」

「今ならわかる。董卓殿も陛下を傀儡にして利用するのであれば、あなた様ではなく、失礼ですが兄上の少帝弁をそのまま帝位についていただいていたはず。董卓殿は陛下の聡明さを見込んであなた様を建て遊ばしたのですよ」

「ん」

「暗君をたて、傀儡にする宦官どもとは違います。愚かな方々に惑わされてはなりませぬ」

「朕は惑わされてはおらぬぞ! そちがそう思われるのが歯がゆい」

「陛下はまこと純粋であられますな。まあ、今日はちとやりすぎました。あなたが玄徳をやけに意識なさるので、つい」

「遠いとは申せども玄徳はやはり親族である。朕と似たものがあり親しみを感じたのだ」

「まあ、確かに」


 二人は物腰の柔らかさや気品、透明感がよく似ている。口に出しては言わぬがおそらく皆、董卓と曹操はよく似ていると思っているのだろう。


「そなたは朕のいわば相母であるな」

 

 この言葉を劉備に聞かせてやりたいものだと曹操は優しく献帝の頭を撫でた。

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