第7話 狼戻残忍、暴虐不仁
黄巾党の乱は、首謀者、張角の死と、政府軍の活躍により鎮圧された。
曹操孟徳は騎都尉として討伐に参加し、十分な功績を上げて典韋と共に屋敷に戻る。
出迎えた卞淑姫の手には幼いながら立派な体躯の曹昂子脩の手がひかれている。
「さあ、父上のお帰りですよ」
「ふふっ。大きくなっておるな。どうだ韋よ」
「まこと立派にお育ちになって」
曹操の後ろに控えている典韋は頭を下げたま答える。
「さて宴でも開くか、韋にねぎらいの歌でも歌ってくれ」
「はい」
「ありがとうございます」
「私は少し昂と庭でも歩こう」
曹操は曹昂の手を引き歩いて行った。その後ろ姿を見送った後、卞淑姫は典韋に「まことにご苦労様でした。殿がご無事なのはあなた様のおかげですね」と深く頭を下げる。
「いえ、奥方。あなたこそ立派に家を取り仕切っておられるので、我が君が全力で戦えるのですよ」
「ありがとうございます。しかし良いのですか? 今の主従関係で。あたくしが言うのも変ですが」
「ええ。満足しています」
「殿はまた他の才ある人を欲していますね」
大きな地位についているわけでもないのに曹操は人材を常に求めている。
「我が君には大きな志があります。これからどんどん、あの方の懐に入ってくるものがおるでしょう」
「あの、嫉妬などなされないのですか?」
ふっと典韋は優しくも寂しい笑顔を見せる。
「苦しいと思うこともありますが、あの方はわしの子を産み愛しみ、わしを側に置いてくださる。これ以上のことは望みますまい」
「そうですか。昂は幼いですが、身体も丈夫でしかも心優しい子です。あなたに似たのでしょうね」
「はははっ。淑姫殿、お気遣いありがとうございます。さて我々も参りましょう」
典韋と卞淑姫はお互いの身分の低さ故か、気の置けない仲である。典韋は曹操を支え守り、卞淑姫は彼女の産む子を育て上げる。曹操を信奉し慕い尽くす二人は、いわば戦友のようである。これから色々な人材が曹操の元を行き来し、触れ合うことがあってもこの二人以上に、彼女に近い人物はいなかった。
劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳の義兄弟も黄巾討伐により功績を上げる。褒賞を得て劉備は安熹県の尉となった。
しかし賄賂を要求する役人たちなどに張飛は激怒し、暴れてしまい、安熹県から離れることになる。二度三度同じことが続きしばらく三人は放浪の旅に出た。
「翼徳よ。いい加減にせぬか。お前は兄者に迷惑ばかりけておる」
「すまねえ」
「よい。私もあのように腐敗した役人には我慢がならなかった」
「ほおら。兄者もそう思っておる!」
「翼徳! 調子に乗るではない」
「ふふっ、雲長。いいのです。しかし末端があれでは朝廷は本当にどうなっているのやら。都の重い税をかけられている民が心配です」
「どこにいっても、あのような役人だらけですからな」
劉備は張飛のために役職を無くしたが、そのようなことは些細なことである。それよりも、世の中の民の平穏を願うのであった。
黄巾党の乱がおさまったのも束の間、都、洛陽では張譲をはじめとする宦官と将軍の権力争いにより混乱に陥る。
張譲は皇帝を支配し続けんと幼い少帝・劉弁とその弟・劉協を連れ都を脱出する。いち早くその報告を部下から聞き、涼州から董卓仲穎は兵を率い皇帝を散策し見つけ出す。
老いた宦官、張譲はこれ幸いと董卓に三人を保護し、都での謀反人を討伐せよと命令する。
「黄巾討伐では失敗したようであるが、都を平定すればもっと地位を上げてやっても良い」
「わっはっはっは。まさかこのわしが腐った宦官の言うことを聞くとでも?」
地面が割れるような大声で董卓は一笑に付す。
「なに?」
疑問に答えるまでもなく、董卓は張譲の首を刎ねる。倒れた張譲の傍らには、口を結び耐えている劉協と小便を漏らしてぐずる劉弁が血を浴びて立ち尽くす。
「ふーむ。どちらが帝だ?」
じろりと二人を見比べる。大きな岩のような男に少帝・劉弁は震えるばかりであったが、劉協は震えながらも「こちらが帝です」と答える。
「なるほど、なるほど。よくわかった」
董卓は仰々しく跪き、「陛下万歳!」と額づき。二人を保護し、連れて都入りを果たした。
履物を脱がず、帯刀したまま王座に少帝と劉協を抱き座るという振る舞いに朝廷の者たちは顔をしかめたが、誰も何も言えなかった。
武装された涼州の大軍が宮殿を囲む。
更に董卓は少帝を廃し、劉協を帝に立てると言い始めた。これにはさすがに文官武将が猛反対をしたが、暴徒・董卓により反対する者にはすべて処刑された。宦官を排除した名門の子息、袁紹本初は董卓に反発をしたが、彼に味方するものは少なく、結局冀州へ逃亡することになってしまう。
少帝の母親である何太后はその美貌で董卓に迫り、少帝の存続を願う。
「わーっはっはは。お前のような年増の言うことなど聞けるものか! 大人しくしておけばよかったものを。馬鹿息子と共にあの世にいくがよいわ」
こうして少帝と共に何太后は表舞台から消え去った。
董卓は劉協を擁立し、漢の高祖の功臣であった蕭何、曹参、そして認めるものが少ない呂産の三人しか就けなかった『相国』という最高の地位に就く。その後、董卓はじめ、涼州の兵士たちは町中で略奪を繰り返し無法地帯と化していった。
臣下の丁原が猛将と名高い呂布奉先を従え、董卓を討とうとするが失敗する。董卓は赤兎馬という名馬を呂布に与え、逆に丁原を討たせたのだった。
その様子を曹操はじっと観察する。
「まさか三百年も空位であった地位につくとは……。呂布も董卓についてしまったことであるし」
董卓の傍若無人な専横に曹操はもちろん反対ではあるが、はっきりと対立するには時期尚早だ。黄巾討伐により褒賞は得ていても兵力は少なく、武力も董卓にはかなわない。袁紹ですら逃亡したのだ。
「こうなったら私個人で戦うしかないな」
勿論、女の身ではあるが何太后のような振る舞いをするつもりはない。一政治家として戦うつもりなのだ。しかし董卓が少帝を廃し、聡明な劉協をたてたことで、彼に一目は置いている。
「暗愚な帝をたてる宦官どもとは一味違いそうだ」
こうして曹操は董卓に取り入られるように接近していった。
「相国、この夏は暑くなりそうですね。着心地の良い絹を用意しておきましたのでどうぞ」
「ほう。なかなか気が利くな。その衣はどんな着心地だ?」
「ふふっ。お戯れを」
女である曹操に、たまに下品な振る舞いをするが、毅然としていればそれ以上の事を董卓は行うことはない。
「わーっはっはは。孟徳は面白い女よのう」
宮廷の女たちを全て手に入れている董卓にとって、曹操に強いるほど欲望はない。曹操も接近してみて分かったが、さほど董卓に心惹かれるものはない。新しくたてられた帝、献帝・劉協に相父として帝王学や武芸などを仕込んでいる様子には感心するものはあるが、董卓自身に心を躍らせるような新鮮さがなかった。
「献帝にもそろそろ女を味あわさせねばな」
「まだ早いでしょう」
「いや。一番高い地位にいるものが一番の享楽を知らずして天下を治められようか。欲望が人を登りつめされるのだ」
「まあ。一理ありますな」
「わしがなぜ相国となったかわかるか?」
「どうぞ、ご教授ください」
確かにそこが曹操にとっても解せぬところであった。なぜ帝位を簒奪し己が皇帝にならないのかと。董卓にはそれが十分できるほどの軍力がある。
「わしはなあ、孟徳。常々、賢臣でありたいと思っておるのだ。こういうとなんだが高祖よりもわしは蕭何を尊敬(リスペクト)しておるのだよ」
「ほう」
まったく荒々しい武将にして、理想像は蕭何という文官であることに曹操は苦笑する。
「だがな、献帝を高祖にするつもりはない」
「なぜです?」
「帝の理想というものがまた、わしにはあってだな。それは始皇帝である」
「始皇帝ですか」
「亡き先帝を見よ。宦官どもにいいようにされおって怪しからん! 帝さえしっかりしておれば、ああはならぬだろう。陛下がしっかりと政を行えるようになるまでわしがしっかり育ててやらねばな」
熱く語る董卓を、宦官・張譲のような並みの人物ではないとは感じるが、やはり賛同は出来ない。献帝が始皇帝のようになることは確かに宦官を押さえ、各諸侯の力を遮るであろうが、そのやり方ではやはり限界があるだろう。
「人や文化の発展がないであろうな……」
「ん? 孟徳よ、何か言ったか?」
「いえ。相国の志を、皆があまり理解してないのが残念です」
「わーっはっはは。まあ、小人には話してもわかるまいて」
機嫌よく身体を揺すり董卓は宴の用意を下人たちに命じた。
曹操はこれからの事を考えて、典韋と卞淑姫に息子たちを連れて都から離れるように告げる。
「わしはいつでもあなた様に命を捧げる覚悟です」
「ふふっ。頼もしいな。しかし今回はちと相手が悪い。私一人であったほうが生き残れるのだ」
「……」
「昂、丕と淑姫を頼む。しばらく雲隠れしてほしい」
「御意……」
心配事を無くし朝廷内の人間関係を把握する。董卓の恐怖政治に皆が従っているようには見えるが、司徒・王允子師だけは違うことに気づく。
朝廷から帰るころ、文官たちの様子がおかしいことに気づき、聞き耳を立てているとどうやら今日は王允の誕生日らしく屋敷で祝うとの事である。
「私は呼んでもらえないようだな」
今や董卓のお気に入りである曹操はもちろん警戒され、王允たちの派閥には敬遠されている。しかし曹操は王允の屋敷で出向いて行った。
王允の屋敷は最高位である身分の割に質素なもので、その人柄を表しているかのようである。曹操は門番に堂々と祝いに来たと告げ堂々と祝宴の席へ向かう。
曹操の耳に、宴のにぎやかさではなく文官たちの嘆きの声が聞こえてきた。
「やれやれ。泣くのは女か宦官か……」
わざわざ大きな声で言うと、「無礼であろう!」と勿論怒声が返ってくる。
「ふっふっふっ。失礼しました。図星でしょうか」
頭を垂れてはいるが不遜な態度の曹操に皆、顔をしかめる。
「子師殿、お祝いに参上いたしました」
「これはこれは、孟徳殿……」
王允に祝いをのべながら曹操は集まっている一同を見る。嘆くばかりで実行力のないものばかりだった。これなら逃亡した袁紹の方がましであると曹操は思いながら、王允に拝礼する。
「せっかくのお祝いの席であるのに皆さんお嘆きになっているようですが、どうかなさったのですか?」
「あ、いや……」
「まったく情けないものですな。大の男たちが揃いも揃って嘆くだけとは」
「孟徳殿。申し訳ないがそなたを呼んではおらぬ。どうぞお帰り願おう」
「そうですね。祝宴とばかり思ってまいりましたのに、このように湿っぽい席では甘い酒がしょっぱくなりますな。ふふふ。ではこれで失礼いたす。どうぞごゆるりと泣かれよ」
退出する曹操に強い視線を送りはするが誰も何も言わない。王允は気骨があると思ってやってきたが、どうもそうではないらしいと曹操も気にすることなく屋敷の外に出ようとした。そこへさっと下人が近づき耳打ちをする。
「旦那様がこちらの部屋でお待ちくださいと」
「ん? 私に用でもあるのだろうか。まあ、せっかく来たしな」
宴が終わるまで曹操は王允の部屋で待つ。部屋の中もやはり質素で竹簡が多くあるだけだったが、まばゆい剣が一本飾られていた。金に赤い玉がはめ込まれ美しい剣を曹操は眺める。
「美しいな。これが名剣、七星剣だろうか」
手に取ってみようかと考えていると王允がやってきた。
「孟徳殿。お待たせいたしました」
「ああ、もう良いのですか皆さまのお相手は」
「ええ……」
「あのような者たちを集めたところで、何にもならなかったでしょう」
「まあ、そう言われるな……。ところで孟徳殿はなぜわたしの屋敷においでになったのだ? 相国がわたしを見張れとでも?」
「ふふふ。心配なさるな。こう見えても私は子師殿の味方なのですよ」
「え? あ、それはそれは」
董卓と懇意にしている曹操の言葉を王允はもちろん信じない。
「私がなぜ、相国と親しくしているのか子師殿にはお分かりになりませんか?」
「ええ、まあ」
「董卓を討つ機会を狙っているのですよ」
「ええっ!」
「しっ! 声を控えてください。あなた様のお屋敷とはいえ油断はできませんので」
「あ、ああ。驚いてしまって」
「まあ無理もありません。私は董卓の側に行き、どのような人物か見極めようとまず思いましてね」
「ほう」
「国を簒奪するつもりはないようですが、どうやら天子を始皇帝にしたいとのことで」
「天子を始皇帝じゃと? 高祖ではなくて?」
「ええ。そしてご自身は賢臣でありたいとのことです」
「う、むむむ。始皇帝とは……。聖なるこの漢の国を凌辱するも同じことだ」
曹操にしてみれば、始皇帝に戻ることはもちろん否定的であるし、かといって高祖・劉邦を目指すことも意味がないと考えている。王允もまた漢に縛られ、国を維持するだけの人物であろうと曹操は値踏みする。彼女の目的は全ての文化文明の底上げであるので、やはり王允に肩入れする気持ちはない。ただ董卓が権力を握ってしまうと全く身動きが取れなくなるであろう故、王允と手を組むのだ。
「それで私は今、董卓の寝室にも出入りできるぐらいになりました。宦官もおらぬ二人きりでです」
「ほおっ。それは相当、信頼されておられるな」
「ええ。つまり私が唯一董卓を討てるものなのですよ」
「ま、まさか。暗殺を?」
にやりと笑んだ曹操に王允はごくりと生唾を飲みこむ。
「危ないことですからね。失敗はしたくない」
「それはそうであろう。わたしはなにをすれば」
「子師殿は董卓が見込んで司徒になられた」
「はあ……。潔癖なわたしの性格を見込まれてなあ」
まさか己が董卓に重用されるとは思わなかった王允は肩を落とす。
「まあまあ。子師殿に王佐の才ありとみなしたのでしょう」
「ふうっ……」
「ご機嫌を取って欲しいのですよ。今日の集まりの手前もあるでしょうが」
「機嫌を取れと?」
「ええ。文官たちが董卓を認めていないのはあからさまに分かっておるので、緊張感がぬぐえないのですよ。あの朝服の下に鎧を着込んでおりますしね」
「ふむ」
「もう少し、隙が欲しいところなのです」
「なるほど、よくわかった。わたしの態度で他の者も何かしら察するであろう」
「頼みます。あとは二人になった機会を使って」
「ああ、ではこの剣をお使いなさい」
王允は竹簡の置いてあった棚の横の粗末な木箱から一本の短剣を取り出す。
「これは?」
「我が家に代々伝わる七星剣だ」
「ああ、そちらの宝剣がそうかと思いました」
「はははっ。そちらは目くらましです。盗まれてもいいように」
「なるほど……」
華やかな剣で人の目を奪っておき、本物を隠してあるところに曹操は王允のしたたかさを垣間見るような気がした。
曹操に手にずっしりと重い短剣が置かれる。宝玉の飾りはなく、柄に北斗七星が彫られている質素なものではあるが、刃はするどく硬い。鎧を突き通すような貫通力を感じる。
「この剣はまさしく飾られるものではなく、使われるものなのですな」
「ええ。董卓暗殺にこれ以上の剣はありますまい」
「では、私の無事を祈ってください」
こうして曹操は董卓暗殺の機会をうかがう。
うまく行くと思った計画も、天はまだ曹操に味方しなかった。
曹操は出来る限り早く馬を走らせ、都から遠ざかる。
「くっ! 董卓の悪運の強い事よ!」
暗殺は失敗に終わったのだ。眠る董卓を討たんとしたが、鏡と七星剣が反応したかのように光を反射し合い董卓に気づかせる。七星剣を献じることでその場は収まったが、やはり暗殺の目論見はばれ、こうして曹操はお尋ね者の身となる。
「まだ私にはその機会が訪れていないだけだ」
故郷のショウへ向かい、馬を限界まで走らせ、心身ともに疲れ果て着いたところは後に大戦が行われる中牟県だった。
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