第8話 我、人に背くとも、人、我に背かせじ

 曹操は顔に泥を塗り、荷車を運ぶ商人のあとについて門を抜けようとした。しかし出回っている人相書きが丁寧にも髭をつけたときの男装をしているものと、そのままの女人のものがあり門番に目をつけられてしまう。

すぐに縄をかけられ、中牟県の県令である陳宮公台の前に引き出される。こざっぱりとして若々しい青年の県令、陳宮は曹操に何も申し開きさせることなく牢へ入れる。曹操も悪あがきせず牢に入った。ムシロのひかれた冷たい床に寝そべりとりあえず目を閉じた。

しばらくして目を覚ますとヒタヒタと忍ぶような足音が聞こえてきたので、曹操はそのまま寝たふりをする。カチャリと牢の鍵が外されたかと思うと、やはり静かに陳宮が入ってきた。


「孟徳殿。おきてください」


囁くように告げる陳宮に寝そべったまま曹操は「起きておる」と答える。


「そうですが。では、急ぎここ出ましょう」

「なぜだ?」

「理由は道々お話しします」


真夜中二人はそっと中牟県を抜けだす。


「実はわたしも董卓を討たんと思っていたのです。このままでは朝廷が危ないと。董卓は恐らく帝を暴君になさるつもりでしょう」

「ほう」

「民から吸い尽くし、己が命尽きるまで享楽を貪るはずです」


陳宮の考察に曹操は感心する。朝廷で司徒として仕える王允にでも、このような深い考察はなかったからだ。話しているうちに曹操は彼の聡明さと知識見識の深さに心惹かれていく。陳宮もまた曹操の決断力と実行力に深く魅せれらて行くのであった。

なんとか追ってから逃れたが、曹操は故郷のショウへ向かわず方向を変えた。


「どこへ?」

「まっすぐショウへ向かうのはまずいだろう。この先に私の知り合いの家があるのだ。そこへ立ち寄って行こう」

「大丈夫なのですか? 信頼できるものなのですか?」

「ああ。私を子供のころから娘のように可愛がってくれていてきっと力になってくれるだろう」


こうして曹操の父の友人である呂伯奢の屋敷へ向かった。



 好々爺である呂伯奢は喜んで曹操と陳宮を迎え入れた。質素ではあるが屋敷は広く使用人も何人かおり、みな二人に親切で礼儀正しい。

泥とほこりにまみれた曹操たちは沐浴し人心地がついた。


「確かに呂殿は信頼のおける人物のようですね」

「ああ。きっとほとぼりが冷めるまでかくまってくれるだろう」


ごろりと横になっていると呂伯奢から優しい声がかかる。


「孟徳よ。わしは酒を買ってくるからな。ゆっくりしておれ」

「おじい様。そんなに気を使わなくて結構です。もてなしは十分ですよ」

「いやいや。可愛いお前のためだもの。ゆっくり飲んで都の話を聞かせておくれ」

「そうですか。ではお言葉に甘えることにします」

「うんうん」


赤い顔を綻ばせ呂伯奢はロバを引いて町に向かった。うつらうつらまどろんでいると陳宮が「起きてください」と肩をゆすった。

「ん? どうしたのだ」

「しっ。外から何か刃物の音が」

「どれ」


耳をすませると確かに刃物を研ぐ、規則正しい音がする。更には使用人のひそひそ話す声が聞こえる。


「だんな様が帰る前に一気に片付けよう」

「ああ。しくじれば面倒なことになるから手早くな」


この話に曹操と陳宮は顔を見合わせる。


「まさか。賞金目当てでは」

「おじい様はそんなものではないが。使用人たちはもしかしたら金に目がくらんでおるのかもしれぬ」

「どうしましょう」

「こうなれば……。やられる前にやるしかない」


枕元に置いてあった剣をすらりと曹操は抜く。陳宮も同様に剣を抜き曹操の後についた。そっと扉を開け使用人二人の後ろから斬りつける。


「やあっっ!」

「はあっ!」


一言呻き男たちは倒れ、それを見ていた洗濯女が悲鳴を上げた。

声を出し切る前に曹操は剣を素早く女の胸に刺し貫く。


「こうなったら全員やるしかない」


屋敷の使用人の人数は来た時に把握してあった。すべて殺すのは曹操にとって難しくはなかった。

最後の一人を片付けた後、ふと視線を投げた先に小さな豚が縛られているのが見えた。思わぬ殺りくに身を投じてしまった陳宮は「まさか……。この豚を始末するつもりだったのでは……?」と顔を青ざめさせた。

曹操は息を整えながら「やってしまったものは仕方がない」と豚を睨みつけた。


「し、しかし……」

「こうしてはおれん。おじい様が帰ってきたらこの状態はさすがに言い訳できぬ。逃げるぞ」

「う、む、む……」


殺戮と動揺で陳宮は曹操について行くしかなかった。屋敷から転げるように逃げ出し、息を荒げて歩いているとロバに乗った呂伯奢が「おーい。どこへいく、孟徳よ」と嬉しそうな声を掛けてきた。


「ま、まずい。呂殿のお帰りだ」

「ちっ」


追いかけてきた呂伯奢に曹操は落ち着いて答える。


「やはり私たちがおると迷惑になるかもしれぬと思いまして」

「何を言うのじゃ。迷惑なんてとんでもない。わしはそなたならきっと良い文官になると思っておる」

「ふふっ。おじい様。いつか私が荒れた朝廷を平定いたしましょうぞ」

「おうおう! きっと孟徳なら――ぐっ……」


夢見るような表情を見せたとき曹操は呂伯奢の胸を一突きした。どさりとロバから転げ落ち呂伯奢は絶命した。


「な、なんという事を……。彼は善意の人ですよ! 何という事を!」

「公台よ。今、屋敷に帰られたら使用人を殺した私を流石に許すことはないだろう。きっと追手に私の事を告げるに違いない」

「し、しかし!」

「もう、この件は終わりだ。おじい様を埋葬したら屋敷に戻って飯でも食おう」

「っ!」

「手伝え」


草を刈り穴を掘り呂伯奢を埋める。死んだ呂伯奢に拝礼する曹操になんの罪悪感も見えぬことを陳宮は恐ろしく感じていた。

屋敷に戻り豚を絞め鍋で煮る。


「出来た出来た。食べられるときに食べておかねばな」


曹操は椀に肉を装い、陳宮に渡し良い食べっぷりを見せる。陳宮ももそもそと味のしない肉を口に放り投げ続けた。

鍋が空っぽになると曹操は無口な陳宮の後ろから肩に腕を回す。


「まだ気にしているのか」

「な、なにを。孟徳殿」

「せっかく腹も満たされ、追手からも逃れられたのだ」


 漆黒の髪を下ろした曹操の赤い唇が陳宮に触れる。まるで毒のような彼女に陳宮は痺れ、誘われるまま無我夢中で抱いた。抱いているのか抱かれているのかわからない陳宮の耳に「私が人を背いても、人が私を背くことは許さない」と囁かれた。情熱的で真っ赤な花のような彼女に、全てを貪られると分かりながらも陳宮は必死で奉仕する。


やがて空が白み始めた。ぐっすりと眠る曹操を横目に陳宮はそっと剣を手にする。


「この人をこのまま生かしておけば……」


董卓よりも恐ろしい人物なのではないかと陳宮は予感した。ぐっと力を込め剣を握る。しかしその剣を振り下ろすことは出来なかった。彼の手には彼女の肌と髪の感覚が残っており、心には恋い慕う気持ちが、豚を煮た炭火と同様に残っている。


「だが、わたしはこの人にこのままついて行くことは出来ない……」


曹操を殺すことも従うことも出来なくなった陳宮は宙ぶらりんの気持ちを抱え、彼女からそっと離れた。そしてこの後、曹操を討てるものを探し彷徨うのだった。

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