金曜日……? 知らない子ですね…今は土曜です

 玄関前の通路を人が通るたびに犬が吠える。俺はその度に犬をなだめ黙らせようとするけど、ほとんど逆効果で、犬の興奮は収まらないどころかますますひどくなる。ときおき、家の前の辺りで足音が止まる。俺はそれがすごく怖い。「犬を飼ってますね。ここはペット禁止ですよ」誰かが怒鳴り込んでくるのではないかと身構える。でもだいたい、誰も家には入ってこない。冷蔵庫は相変わらずからっぽで、残っていた玉子を茹でたりチーズを食べたり過ごしていたけど、それでもどうしようもなく腹は減る。学校に行こうか。そうしたら給食を食べさせてもらえるかもしれない。でも担任の顔を思い出すとそんな気分もすぐに失せる。うんざりだった。なにもかもに、うんざりだ。


 俺の気持ちを知ってか知らずか、犬はしょっちゅう遊びをせがんだリ、散歩に行きたがったりする。俺は外に出るのが怖い。犬を家にいれたことを誰かに咎められるのが怖い。

「あそこの家……」

「お母さんいつも夜いないみたいだし」

「こどもがひとりで……怖いわよね」

 囁く人の声が怖い。俺が真昼に外をうろつくと、母さんが責められる。そのことがとても怖い。家の中の缶詰とパスタと缶切りをリュックにありったけつめて、充電満タンのスマホとポケットWi-Fiを上着の内っポケットに潜ませ、夜中のうちに家を出た。深夜の町はとても静かで、まるで世界に自分だけしかいない気がしてくる。犬はリードもないのに俺の脚元をまとわりついて、勝手にどこかに走っていって、また帰ってくる。不思議だった。においをたどってついてくるのだろうか。リードのついていない犬を嫌そうな顔をして見る人とすれ違うたび、ああ、次ホームセンターに行ったら、首輪とリードを買おう、と思う。でもほとんど同時に、そんな金はない。と思う。行く当てもなく、だらだらと歩いているうちに、また河川敷に戻ってきてしまった。


 深夜の川に釣り糸を垂らしてみるけど、魚も眠るのだろうか。なにもかからない。犬が俺の側に座ってじっと川を見ている。耳をぴくぴくさせて、なにかの気配を察しているようでもあった。俺より何倍も鋭い耳で、鼻で、犬はいろんなことを感じているに違いなかった。もしかすると自分を棄てた飼い主の足音をどこかに感じ取っているのかもしれない。俺も暗闇の中耳を澄まして見るけど、静かな水が流れる音、コンクリートで固められた護岸にぶつかって砕ける音、風が雑草を揺らす音、そして車が近づいては離れていく音しか聞こえない。気温が下がってきて、過ごしやすいとは言えない温度だった。俺は犬を膝の上に乗せ、ぎゅっとだきしめる。抱きしめられるたびに、犬は心臓をあばれさせるけど、最初の頃よりも、落ち着く時間が短くなったと思う。


 俺は犬を撫でる。犬ははっ、はっ、と短く息を切らせる。夜の川面は暗く、ぶよぶよと捉えどころがなく、ちかちかと明かりを反射している。対岸の街の明かりが夜空全体を鈍く光らせていた。あのどこかに母さんがいるのかもしれない。それとも、もうこのあたりを離れて、遠くに行ってしまっているのかもしれない。それは不思議な感覚だった。俺を産んだ人と俺のつながりがふつりと途切れてしまったということ。なんだか世の中全てとのかかわりが断たれてしまったような気さえする。そう思うとなんだかこの犬だけが、今この世界で唯一自分のことを知ってくれているかけがえのない存在なのだ、というように思えてきた。


 不思議なことに、河川敷にいると、犬はあまり動き回ろうとしない。勝手知ったると言うか、河川敷を自分のテリトリーだと認識しているようだった。小さいくせに気が大きい犬を見ていると、だんだん大丈夫だ、という気持ちになる。大丈夫、大丈夫。


 全く釣れない釣りを切り上げ、俺は前に掘った穴のところに向かった。穴に隠しておいたドッグフードは無事だった。上から段ボール、更に枯れ草をまぶしておいたのがいいカムフラージュになったのかもしれない。俺は犬にエサをやる。犬は喜んで食べる。家から持ってきたアルミシートを段ボールの上に敷き、俺は穴に寝ころぶ。段ボールは意外と温かい。地面はじんわりと湿っていて生き物の気配を感じる。周りに生えた草は夜露で勝手に濡れている。

 犬は腹が膨れると俺の懐に潜り込んでくる。犬の息はやはり生臭く、土くささと生臭さは混じり合っても打ち消し合うようなことはない。お互いに独立したにおいとして永遠に自己主張を続ける。俺は目を閉じる。瞼の向こうでは多分星が降っている。そのうちきっと夜が明けるだろう。暗い穴の底にも日差しが射す。




**********


 目が覚めるとやはり喉が痛い。外で眠るといつもこうだ。いずれは慣れることができるだろうか。いやいや起き上がって、犬を探すけど、近くにいない。日差しはとうに高かった。体を捻るたびに背中に痛みが走る。一度家に帰ってマットレスの寝心地を思い出してしまったから、もうだめだった。


 草むらの辺りをよく見ると、犬が少し離れたところからこちらの様子をうかがっているのが見えた。地面に伏せて、ちら、と俺の顔を見た。よく見ると、そこら中にたくさんのドッグフードが散らばっていた。


 俺は慌てて、残っていたドッグフードの袋を確認する。ドッグフードの袋は穴から引きずり出され、ぼろぼろに引っ掻き回されてところどころ破れていた。破れた穴から丸いかけらがころころとこぼれだして、辺り一面に散らかっている。

 一瞬、頭が真っ白になった






 怒鳴った気がする。犬は怯えていた。黒い目玉がうるんでいて、体がぶるぶると震えて今にも失禁しそうだった。俺はもう。もう残り半分になってしまった所持金のことで頭がいっぱいで、目の前の犬のことなんか考える余裕がなかった。怒りを制御するために、犬から体を背ける。でも犬は、不安になったのか、俺に縋りつくような動作を見せた。

「うるさい」

 俺は犬を振り払う。犬の小さな体は簡単に吹き飛んだ。俺は自分の拳をぎゅっと握る。自分がいつの間にかこんな力を、コントロールできないような力を手にしてしまったのか不思議だった。怖かった。

「お前なんか」

 肩に力がこもる。怒りで全身の筋肉が緊張している。

「お前なんかもう知らない」

 犬の横腹を蹴り飛ばした。犬の鼻から悲鳴みたいな、それとも、悲鳴をこらえているような吐息が漏れた。

「二度と近づくな」

 それでも犬は俺の側から離れようとしない。一定の距離をたもって、ずっとこちらを見ている。眉尻が下がった、情けなさそうな顔をしていた。怯えている。前足が震えている。それでもまだなにかを期待して俺の方を見ている。なぜ逃げないのか。なぜ俺から離れてゆかないのか。なぜおまえは。


 お前はそんなにも俺みたいで。

 俺みたいな目をして俺を見るのか。


 俺は犬の首根っこを掴んで、草むらに向かって投げた。首輪は買わなくてよかった。だってそしたらもう一生。一生ずっと、いがみ合ったまま、疑心暗鬼のまま、近くにいるしかなくなってしまう。俺はもうあの犬とは一緒にいられないと思う。そしてたぶん、母さんも同じことを思ったに違いなかった。俺に対して、俺が犬に思ったのとまったく同じ気持ちを、俺に抱いたに違いなかった。俺は荷物をまとめる。犬がまだ震えながら俺の近くにいる。俺は犬を脅すふりをして、追い払い、リュックに大事なものを全て詰めた。袋に残ったドッグフードを、犬が食べやすいように、いつものお椀に盛る。それからなるべく平静を装って、犬のそばを離れた。犬は餌を食べるかすこし迷って、それでも俺の後をついてくる。怒られないギリギリの距離を保って、ついてくる。


 俺はスマホを取り出してWi-Fiの電源を入れる。そして紗奈さんに教わった番号に電話をかけた。

「一緒に警察に行ってくれる?」

 紗奈さんは寝起きみたいだったけど、快諾してくれて、今から車で迎えに行くから場所を教えてくれ、と言った。俺は河川敷に繋がる道路で紗奈さんの車を待つ。犬は俺の様子をじっと伺ったまま、ピタッと地面に腹ばいになっている。



 一時間ほど待って、紗奈さんの車が俺を迎えに来た。車に乗るように言われて、俺は紗奈さんがドアを開けてくれた後部座席に乗り込む。

「わんちゃんは?」

「もういい」

 そう、と紗奈さんはそれきりなにも聞かなかった。

 紗奈さんがあたりさわりのない話をする。アクセルを踏み込んで車を発進させたとき、犬が走り出した。俺たちの車をめがけて弾丸みたいに走り出した。

「どうしよう」

 紗奈さんがバックミラー越しに俺の顔を見る。

「撒いてください」

「でも、道路に出たらあの子轢かれちゃう」

「いいんです」

 俺は言った。紗奈さんと二人で交番に向かう。犬はずっと後ろをついてくる。車が行き来する道路を、気にしないで走る。ちいさなからだで、タイヤに巻き込まれそうになりながら走る。でも朝のラッシュを抜けたところで、紗奈さんの運転する車は、ついに犬を振り切って、遠く遠く小さくなっていく犬が車のミラー越しに見えた。



「ちょ、なんで泣いてるの」

 紗奈さんが俺の顔を見て言った。俺の目からは瞬きもしないのに涙が後から後から零れ落ちる。

「犬を殺さないで」

 俺は呟いた。その声は向かいから走ってきた大型トラックの走行音にかき消されて、誰にも届かないまま消えた。

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