木
目が覚めると側に子犬はいなかった。ぼんやりと重い頭を振って、目を開ける。
「わん!」
軽やかにステップを踏みながら、少し離れたところで犬が吠えている。こっちにこい、と言われているようだ。ずず、と鼻水をすする。野外の空気は冷たくて、肺に凍みる。段ボールを拾ってきて屋根にしよう。そう思う。
這うようにリュックに近づき、中からおにぎりを取り出す。犬と半分こして食べた。犬はおなかが空いているのかよく食べる。俺は余り食欲がない。このぶんだと思っていたよりもずっと早く食料が尽きそうだ。犬を穴に隠してリュックを背負い直し、ドッグフードを探しに近くのホームセンターに向かった。
「たっか……」
ペット用品のコーナーで思わず声をあげた。一番安いエサでさえ、三キロで三千円もするのか。三キロってどのくらいもつんだろう。犬を飼うのってお金がかかる。とりあえず、持っていたお金で水とドックフードとお椀を買って、犬のいる場所に戻る。段ボールも忘れずに持てるだけもらってきた。重い。
ぜぇぜぇ息を切らしながら河原に戻った。まだちゃんと俺を待ってくれているだろうか。それとも他の人に拾われてしまっているかも。不安に思いながら穴の中を覗いてみた。犬が尻尾を振って俺を見上げていた。
「よかった」
俺は呟いて、お椀に今日買ったばかりのドッグフードを注ぐ。犬は尻尾を振って、お椀に頭を突っ込もうとして、一瞬ためらって俺の顔を見た。気を遣っているのだろうか。犬のくせに。犬は俺の表情を確認すると、待ち切れないといった様子でお椀に鼻先を突っ込んで、がつがつ餌を周りにまき散らしながら貪った。腹を空かせていたんだと思う。
外でゲームをせずに過ごす一日は長かった。犬を撫でたり走らせたり歩いたり、でもやっぱ歩くと腹が空くからだめ。かといって歩かないでも普通に腹が減るからだめ。マイクラみたいにはいかない。
夕方川沿いを歩いていると、またあの釣りをしてるおっさんをみかけた。
「どうしたその犬」
おじさんの方から話しかけてくる。
「落ちてた」
「落ちてたからって勝手に拾うな」
「だって」
「生き物を飼うってことはな」
おじさんは俺の方に向き直ってじ、と前かがみに俺を見た。
「そいつの生き死にに責任をもつ、ってことだ」
おじさんはそういって口をきゅっと結ぶ。
犬が不安そうに俺の顔を見上げている。ずいぶん怖がりの犬みたいだった。それとも俺が怖がっているのを見て、犬も怖がっている、それだけの話なんだろうか。
「だってこいつは」
何か言い返そうとするけど、言い訳が思いつかない。考えている間に、おじさんの竿があたりを引いた。
「お」
「あ」
おじさんがくくっ、と竿を引く。抵抗が大きい。大物かもしれない。おじさんは、大きな大きな鯉を釣った。
「うわぁ」
思わず声が漏れる。
「でけぇな」
六十センチは超えていたと思う。よく肥った鯉だった。寒くなる前にエサを食いだめしていたのかもしれない。おじさんは鯉の口から針を外し、川に戻してから、聞いた。
「ぼうずお前、家は。どうせ賃貸だろ。マンションか?」
「なんでわかるの」
「ペット禁止だろ」
図星だった。その通りだ。
「仲良くなるのもいいけど、ほどほどにな。どうせいつか離れなきゃならねぇんだ」
おじさんはそう言って、昨日より早く釣りを切り上げて、帰ろうとする。
「おじさん」
俺はおじさんを呼び止めた。
「釣り竿の作り方、俺にも教えてよ」
「釣りやりてぇのか」
蜘蛛の糸三本と木の棒一本。マイクラならそれで釣り竿ができる。でも現実にはそうはいかないのを俺は知ってた。
「やるよ」
おじさんはあっさりと釣り竿をくれた。
「いいの?」
「いいよ」
こんなもんいくらでも作れるんだ。おじさんはそう言って、昨日と同じ、荷物がたくさん積んである自転車にまたがる。
「ねえ、アルミ缶そんなにたくさん拾ってどうするの」
「換金するんだよ」
「お金になるの?」
「買ってくれるとこがある」
俺はおじさんにアルミ缶を金に換えてくれる場所のことを聞いた。いいことを聞いたと思う。俺もアルミ缶を集めて歩こう。町中の缶を集めて暮らそう。そう心に決めて、おじさんを見送った後、見よう見まねでさっそく釣り糸を川に垂らした。魚はいつまで経っても釣れなかった。
その夜、犬を抱きしめながら寝ころんで、ふと気がつく。釣りをするには、餌をつけないといけなかったんじゃないか。明日はドッグフードを針につけてみよう。犬は相変わらず俺の腕の中ですやすや眠っている。犬の息はドッグフードのせいか妙に生臭く、湿っていて生温かかった。
犬はすこし俺に心を許したようで、昨日よりもずっと体を預けてくれるようになった。犬の心臓の音。心臓が動くリズム。眠っているのに、心臓は休まず動き続けている。ときどきぴくりと跳ねる尻尾。俺のわきの辺りを探るようにさしこまれる犬の鼻っ面。理由はよくわからないけど、犬を抱いていると不安が溶けて消えてしまう気がした。なにもかも大丈夫だったし、これからもずっと大丈夫なんじゃないか。そう錯覚しそうになる。錯覚? ほんとうに錯覚だろうか。真実かもしれない。そうだったらいいのに。
犬に顔をべろべろ嘗め回されて目が覚めた。
あたりはまだ薄暗い。ジョギングをする人がときどき草むらの向こうの道を通り過ぎていく。俺は雑草が高く茂った辺りに、突然現れる石がむき出しの地面を軽く掘って寝床にしていた。今日は段ボールを敷いて、穴に段ボールをかぶせて寝たので昨日ほど寒くはなかった。でもこの先秋が深まると外で寝るのは厳しいだろう。死んでしまうかもしれない。
目が覚めた俺はさっそくドッグフードを餌に釣りを始めた。おじさんが言っていたあたりというやつ、魚が竿のお先に触れる感覚。ずっと釣り竿をもっているうちに、だんだんとわかるようになってきた。
太陽の角度から、大体昼頃だと思う。俺はとうとう初めての魚を釣った。ワンカップの瓶から少しはみ出る大きさだった。
“拠点”に戻って火を起こして魚を焼く。お腹はぺこぺこだった。川の魚がきたないとかきれいとか、思っているひまはなかった。犬にドッグフードをやって、俺はその魚をよく焼いて食べた。味はすこし生臭い気がした。でも美味しかった。腹が減っているからなんでも食べれる。
釣りをしていると不思議で、時間の流れがゆっくりなのに、気がつくとあっという間だったように感じる。マイクラをしているときと似ていた。
その日、日が暮れる前に、一度俺は家に戻った。鍵を開けて室内を確かめてみるけど、母さんが帰ってきた気配はなく、俺を探した様子もなかった。抱いていた犬が、不安そうに俺の顔を舐める。俺は風呂場でシャワーを浴びて、ついでに小汚い犬を人間用のシャンプー、母さんの多分すごく高いやつ、こどもの頃これで遊んで死ぬほど叱られた――――で小綺麗な犬にしてやった。風呂場の戸を開けた瞬間、犬が飛び出して、びしょ濡れのままどこかに走って行ってしまおうとするので、必死にタオルでくるみ、水気をきった。嫌がる犬に何とかドライヤーをかける。犬はドライヤーに威嚇していた。一体この機械を何だと思っているのだろう。とにかくビビりの犬なのだ。
ふたりでベッドに入って寝た。久しぶりの布団は温かくて、背中が気持ちよくて、泣きそうなくらい居心地が良かった。犬は見慣れない部屋にビビったのかあちこち歩き回り、布団の上をぐるぐるしたあげく、俺の上に乗っかって寝た。
朝目が覚めるとなんだか布団が冷たい。しかも臭う。やったか? と思って自分のズボンを確認したけど、やってなかった。ということはたぶん、犬だ。俺は犬を呼んで怒った。でも考えるとうちには犬用のトイレもなにもないのだ。そもそもここはペット禁止だし。犬は情けない顔をして落ち込んでいた。そして、もう怒っていないかを確認するために、わざとじゃれついてきたり、遊びに誘ったりした。それがまるで自分を見てるみたいで、俺はむすっとしたまま子犬の誘いに応えることができない。
「結花さーん」
どんどん、と扉を叩く音がした。
俺はつい、びくっと体を身構える。一度呼吸を整え、それから、恐る恐るドアを開けた
「お、たっくん」
母さんの同僚の紗奈さんだった。
「たっくんママは?」
俺は首を振る。そのとき、ワンワン、と犬が吠える音がした。
「こら!」
紗奈さんに飛び掛かろうとする犬を慌てて抱き上げる。犬は後ろ足で盛んに俺の腕を蹴る。
「こら~、ここってペット禁止じゃなかった?」
紗奈さんが内緒にしといてあげる。と言う。俺はすみません、と言って頭を下げた。
「母さん、お店にも顔出してないんですか」
「そうそう。連絡もつかなくてさ」
「実はしばらく帰ってきてないんです」
「え、マジ?」
紗奈さんはその場で心当たり全てに電話をかけてくれたけど、誰も母さんの居場所を知らないという。
「どうする? ケーサツとか届けた方がよくない?」
そんなことをしたら、誰かに知られたら、俺は今度こそ施設に送られて、二度と戻ってこられなくなる。無意識に犬を抱く腕に力が入ったのか、犬がきゅう、と鼻息を立てた。
「もうちょっとだけ、待ってみます。母さんは帰ってくると思う」
俺の言葉に、あのね、と紗奈さんは目を覗き込んでくる。
「なにも結花さんがあんたを棄てたって言ってるわけじゃないよ。なにか事件に巻き込まれたのかもしれない。あたしはそれが心配なの」
「でも……」
施設に送られたら、もうこの犬とも一緒に過ごせなくなる。
「犬のことが心配なの?」
紗奈さんは言葉にしなくても俺の考えが分かるみたいで怖かった。
「あんたが飼えるようになるまで、あたしが預かっておいてもいよ」
「ほんと? 飼えるようになるまでって、いつまで?」
「そうだなぁ、ペット可の住宅を借りれるようになるまで? だいたい十年くらいかなぁ」
「十年!」
気が遠くなりそうだった。俺は犬を手放したくなくて、気持の上では泣きそうだった。
「俺もうちょっと母さんが帰ってくるのを待ってる」
紗奈さんはため息をついて、俺に電話番号を書いてよこした。
「なんかあったら電話して。やばいと思ったら電話、結花さんが帰ってきても、帰って来なくても、電話。なんも考えないで、とりあえず電話。わかった?」
「わかった。なにかあってもなくても、すぐ電話する」
よし、と紗奈さんは笑って、犬をちらりと見ると、他の家の人にばれないようにね、とそっと耳打ちして、軽く犬の頭を撫でて、出て行った。
俺はへとへととそのばに座り込む。立っている気力もなかった。まさか紗奈さんまで母さんの居場所を知らないなんて。本当に犯罪に巻き込まれていたらどうしよう? 嫌な想像ばかりが頭の中を支配する。まともに考えることができない。不安で頭がいっぱいになって、酸素が足りない、息苦しい感じがする。
捨てられた。捨てられた。棄てられた。紗奈さんの声が頭の中でこだましている。受け入れたくない言葉。今の俺を端的に表す言葉。現実に属する言葉。犬が俺の周りをぐるぐるする。前足を俺の膝にかけて、なにか考えるようなしぐさをしている。もうダメだった。俺は泣いた。べろべろべろ、と犬が顔を舐める。涙は止まらない。涙を流す側から、犬がそれを舐める。久しぶりに過呼吸になった。犬が小首をかしげながら、じっと、黒く濡れた瞳で玄関にうずくまる俺を見ていた。
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