水
子犬の顔は汚れていた。それとも元の毛色がすでに薄汚いのかもしれない。全体的に灰色がかった茶色で、ゴマがかかったみたいにところどころ色が抜けている。鼻の頭が黒いペンキに頭を突っ込んだみたいに黒かった。俺は犬を触るのが初めてなので、遠くからこわごわと見守る。犬はむさぼるように魚を食べた。見ていると犬の様子は明らかに落ち着きがなくて、そわそわしている。
俺はそうっと犬の頭に触れた。犬は上目遣いで俺を見た後、湿った鼻先を俺の手に押し付けてなにやらにおいを確認しているようだった。犬はためらいがちに俺の手を舐めた。ベージュの舌は生ぬるかった。しっぽをさかんに振っている。なのに体はぶるぶると震えていて、腰が引けている。怖いのだろう。そう思う。しばらくふたりで炎を囲んでいた。道路は頻繁に車が行き来するのに、河川沿いの道のほうは、時間が遅くなるにつれて人通りが全くなくなってゆく。ときおり姿を見ることができたランナーの数もどんどん少なくなる。背の高いススキの影に隠れて俺はじっと身を固くしていた。風が冷たい。秋の風だ。さりげなく犬の近くに体を寄せた。寒いからだ。犬の近くは温かかった。
そう言えばマイクラでもオオカミがいたなぁ、と思い出す。肉を食べさせて手なづけると首輪をつけることができる。リュックの中からおにぎりを取り出して、半分に千切った。半分は自分で食べて、あとの半分は犬にやる。犬は疑わしそうに俺の顔を見ながら、あぐあぐとおにぎりをかじった。ゲームならそろそろハートのエフェクトが出てもおかしくない頃だと思う。
「犬」
俺は犬の名前を呼ぶ。
犬は動じていないように見えたけど、耳をピンと澄まして俺の声を聴いているのが分かった。
「お前は犬」
は、は、は、は、と犬の息遣いが聞こえる。
「俺は拓馬」
「お前は犬」
俺は自分の顔と犬を交互に指さして呟く。犬のやわらかいわき腹が上下する。
「お前は犬」
もう一回呟いた。犬の目がまっすぐ俺の鼻の辺りを見ている。
犬は首輪をつけなくても俺の後をついてくるようになった。怯えているのか目を合わそうとしない。でも俺が犬の方を見ていないとき、犬は俺の方を見ている。そっと手を伸ばして犬のデコの辺りに手のひらを乗せる。犬はくんくんと鼻を鳴らして、なにか考えているようにも、まったくなにも考えていないようにも見えた。
しばらくぼうっとしていると、犬が少し距離を詰めてくるようになった。柔らかい胴体に手をあてて引き寄せる。犬の体がこわばるのが分かった。俺は犬を膝に乗せて、何度も背中を撫でた。犬の心臓ははじめ、はち切れそうなくらいに激しく振動していたけど、それもだんだんと収まった。秋の虫が鳴いていて、辺りはとても静かだった。ときどき犬の散歩の人が通って、俺らを見てぎょっとする。制服姿の高校生が連れ立って歩いているのも何組か見かけた。でも誰も話しかけてはこなかった。やがて少しずつ夜が深まり、眠くなった。火の側にくぼみを掘って、そこに入って寝ることにした。地面は石がごろごろしていて、痛い。雑誌か何かを拾ってきて敷くべきだった。後悔しながら犬を抱き寄せる。
犬の体は温かく、このままでも何とかなるような気がしてくる。ふたりで折り重なるように、軽く地面を掘って枯れ草を敷いた穴に寝ころんでいると、なんだか世界中に二人ぼっちでいるような気がしておかしかった。規則正しく上下する犬の腹が、丸みを帯びた子供っぽいフォルムが、いのちそのものを表している気がして、心拍数も脈拍もなにもかもむき出しのその薄い皮膚に、おののいたりたじろいだりしてしまう。ゲームの中だとこどものオオカミは三日もすれば大人になってしまう。オオカミだけじゃなくて、牛とか他の生き物も同じだった。でも現実はちょっと違う。勝手に突然大人になったりしない。俺は目を閉じた。街が明るすぎて、夜空の星は遠くに霞んでいるけど、目を閉じると満点の星空を思い浮かべることができた。宇宙に浮かんだ星屑のひとつぶ。一粒の上で寝ころんでいる犬と俺。
寝入ったはずの犬が不意に身震いをした。寝ぼけているのか鼻先で辺りを探っている。犬も夢を見るのだろうか。やがてその動きも静かになった。いつのまにか俺は泣いていた。何も考えていないはずなのに、勝手に涙がこぼれる。
母さんと離れて過ごしていた時期のことを思い出す。優斗の暴力がひどくなったのをきっかけに、俺はしばらくのあいだ乳児院に預けられていた。乳児院の思い出は泣いていじめられたことばかり覚えていて、なのに俺に話しかけてくれた人のどの顔もちっとも思い出せないのだ。母さんは半年やそこらで俺を迎えに来てくれた。会いたかった、と言ってくれて、嬉しかった。あの言葉は嘘だったんだろうか。母さんは俺を抱きしめて泣いた。俺は泣かなかった。
母さんと暮らすとどこにも居場所がない感じがする。引っ越しばかりで友達ができない。家にいてもいつ追い出されるんだろう、と考えてしまう。母さんが言う「あいしてる」は、いつ「だいきらい」にかわってしまうかわからない。だいすき、だいすき、だいすき、だいきらい。しねしねしねしねしねしね。母さんは自分のことを大好きでいてくれる人が好きなのだ。でも母さんはほんとうは自分のことが大嫌いだから、自分のことを大好きだという相手を全員憎んでいる。大嘘つきの裏切り者だと思っている。俺はでも母さんのことが好きだった。母さんが泣いている理由はよくわからないけど、泣かないで笑っていてほしいと思う。別に近くにいてくれなくてもいいから、笑っていてほしいと思う。
わからない。これもほんとは嘘かもしれない。母さんのことなんかどうだってよかった気もしてくる。いつだって感情剥きだして生身のまま生きている母さんが、死ぬほど憎らしかった気がしてくる。でもこの憎悪さえも、なんだか作り物めいていて、わらってしまうのだ。あはは。口を笑う形にしてみても、ほんとうのところはわからない。嘘でもいいから側にいるって言ってほしい。でも嘘を吐かれるのはもう嫌だ。母さんは言葉の上では何時も嘘みたいに優しい。でもその嘘を本当にし続けることができない。俺だってあいされたくて、悲しいのかもしれない。大事に大事に育ててほしい。嘘だ、だってそんなの、ぞっとするじゃないか。俺だって母さんのことをずっと好きでいたい。でもずっとというのがいつまでなのかわからない。大人になるまで? いつになったら俺は、俺は。自由になれるんだろう。
ど、ど、ど、ど、ど、と犬の拍動がパーカーの上から伝わってくる。俺の心臓も似たような音を立てて動いている。どどどどど。誰にも認められなくても。誰にも望まれなくても。動いている。音を立てている。なんのために?
犬がまた、くしゅんと鼻を鳴らした。寒いのかもしれない。俺はダウンベストの前を少し開けて、パーカーとベストの間に犬を入れた。月の明かりが白くて冷たくて、あの光が月から俺の目に届くまでに永遠の距離があるように感じる。マイクラなら単純に作画されるのに、現実の月は遠くて、俺と月の間を湿った冷たい空気が隔てていた。
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