肉を食べたせいか胃の辺りが重い。いのちがうごめいている。それとも食べてすぐに寝たから胃がおかしくなったのだろうか。


 台所は油跳ねが激しく、汚れたフライパンが昨日使ったまま放置されている。スポンジでこするけど、白くなった脂がいつまでもこびりついて落ちない。気持ちが悪いのでそのまま置いておくことにした。帰ってきた母さんがこれを見たらなんて言うだろう。黙って美味しかった? と聞くだろうか。肉は血の味だった。


 一枚七百円近くする肉を食べたから、大丈夫だと思う。

 大丈夫。だいじょうぶ。なんとかなる。


 なのに目が覚めるとまた腹が減っている。ほとんど運動していないのに、不思議だった。どうして人間は毎日飯を食わないといけないんだろう。のっそりと起きだして、昨日のおにぎりをむさぼる。肉が入っている。吐きそうになる。だめだ。食べなきゃ。三万円。のことが頭をよぎる。吐いたものを食べてでも生きる。おにぎりはむぐむぐと噛んでも、いつまで経っても味がしない。うえ、とせりあがってくる胃液ごとのみこむ。殺して食べる。殺してでも食べる。頭の中の空白を埋めるために、目線がスマホを探している。空白が怖い。満たされない時間が怖い。ひとりになることが怖い。考えるな、考えるな、考えるな、感じるな。

 夜になるとマイクラの世界みたいに暗闇からゾンビとか蜘蛛が沸いてくるんじゃないかと思う。部屋の隅から、ベランダの窓から。たいまつの火で湧きつぶしをしておかないと、あとからあとから湧いてくる。襲ってくる。


 どっちがマシなんだろう、とふと思った。怪物がドロップする腐肉も、野生動物の獣肉も無尽蔵に湧いてくる世界と、金と引き換えに死んだ獣の肉が手に入る世界。母さんは生きるのがすごく嫌そうだった。生きるのが嫌なら、ゲームの世界に逃げ込めばいいのに。「嫌だよ」母さんのめんどくさそうな声。「金にならないことはやりたくない」現実は腐った動物を斃すと金がドロップする仕組みなのかもしれない。現実世界でマイクラと同じような遊びをしようとすると大変だ。街中の地面は大半が誰かの土地で所有者がいて管理者がいて税金とかで賄われていて、こどもが勝手に触ってはいけないから。海底から掘り起こした海の砂すら資源になるらしい。マイクラなら採掘し放題なのに。俺は海底から大量の土砂を持ち帰ってガラスのドームを作ったことがある。中で植物を育てて水を流して採集するための、ガラスの植物園。

 残念ながら古いスマホはタッチパネルの精度が悪くて少し移動しようとするごとにガラスを割ってしまうので、植物園はすぐに廃園になってしまった。羊が迷い込んできたので、外から穴をふさいで閉じ込めている。今もあの羊は元気だろうか。


 俺はスマホを手元に引き寄せて、マイクラを立ち上げた。ポケットエディション。広大な牧場の牛を片っ端から屠殺していく。モウー、モウーと鳴き声が響く。鉄の剣で牛を殴る。一撃では死なないから、攻撃を三回はあてる必要がある。子牛はなにも落とさずただ消滅する。大人の牛は皮とか肉を落とす。牧場中の牛を殺したころには、三百枚を超えるステーキ肉が集まっていた。

 作業台でかまどを増産し、牛肉をかまどにいれて、石炭をセットし、焼いている間にニワトリや羊も同じように殺していく。毎日せっせと動物たちに餌をやって繁殖させた俺の牧場。広い広い草原を利用した牧場。柵を作るためにたくさんの木材を伐採した。ゾンビから護るために夜も牧場内が暗くならないように工夫した。


 気がつくと俺はまた、だだっ広いフィールドに一人たたずんでいた。抱えきれない羊肉と鶏肉と牛肉と一緒に。鉄の剣はつぶれた。剣が足りなくなって、半分くらいは松材のブロックで殴った。



 かまどを十台近く並べて調理をする。大量の羊の毛が獲れたので、広場に並べて登ってみる。ちょうど太陽が沈むころだった。白い月がゆっくりとのぼってくる。積み上げた色とりどりの羊の毛に向かって火打石を放つ。

 火はランダムに燃え広がって、可燃性のブロックを焼き尽くしていく。ごう、ごう、聞こえないはずの音が聞こえる気がした。木材や木の葉、燃えるブロックを何でも周りに並べた。火は勢いを緩めず、広場の向こうに広がっていた森林に燃え広がる。火を避けて砂浜の方に歩いていくと、かつて植物園だったガラスドームがまだ残っていた。俺は残っているガラスを全部破って、中から羊を追いやった。茶色い毛の羊だった。羊は高いブロックを登っていく習性があって、人工物の中に勝手に入ってきたり、岩山を上ったりする。


 ガラスのドームの柱にしてた鉄ブロックの上から、かつての拠点を眺める。大地を切り開いて暮らしていた場所。今もまだ火は森を覆っていた。そこからマグマの入ったバケツをひっくり返す。ちか、と一瞬で明るくなる。柱のてっぺんから、地面に向かってゆっくりと広がるマグマ。火の粉が飛んだ。砂浜が燃えてる。俺は柱から足を踏み外し、マグマの海に向かってダイブしていく。一瞬時間が止まって、自分が飛んでるみたいに感じた。画面が赤くなる。主人公が死んだ、というメッセージが出る。


 これでなにもかもおわり。ゲームオーバー。俺はスマホを置いて、おにぎりとペットボトルをリュックに詰めて家を出た。





 外はまだ夕方で、橙色の夕焼けが眩しかった。長く伸びた影に覆われて、いつもの町が知らない場所みたいに思える。街行く人たちは誰もかれも知らない顔をしている。この人たちにも、それぞれ帰る場所があるんだと思うと不思議だった。こんなにもたくさんの人たちが、勝手に来て勝手に帰っていく。


 歩いていける距離にある図書館に行って本を借りた。食べられる野草。キャンプの本。俺は知ってる。現実とゲームは違う。現実の町はゲームと違って細かく湾曲している。現実の町はゲームと違って、なにもかも、勝手に採集すると怒られる。誰のものでもない土地に行って、誰にも知られない暮らしがしてみたかった。



 図書館を出て、川沿いの道をぼんやりと歩く。川幅は広く、流れは穏やで濁っている。この間の雨が水をまだ濁らせているのだろうか。勝手に魚を捕るべからず、という看板がかかっている。漁業権をもたない人はここで釣りをしてはいけない、とある。権利と言うのはどういうものなんだろう。よくわからない。川面に近づいて覗き込んでみるけど、濁った川はぼんやりと俺の顔を写すだけで、本当に魚がいるのかよくわからなかった。コンクリートで固められた川に、まだ魚がいるのだろうか。


 川の橋げたにはホームレスが住んでいる。昔は姿を見たことがあった。でも今はいない。ホームレスが住んでいたスペースには、人が入れないようにフェンスで覆いがしてある。フェンスには有刺鉄線が巻きつけてあった。

 夕日が沈んで、川の方から涼しい風が吹いてくる。俺はリュックからダウンベストを取り出して羽織った。


 赤ら顔のおじさんが、川辺で釣り糸を垂らしている。ぷんと酒臭いにおいが漂ってくる。おじさんの足元にはワンカップの空き瓶が転がっていた。

「釣れるの?」

「ああ、ぼちぼちかな」

 おじさんは、俺が名前も知らないような、小さな魚を川からひきあげた。

「ほんとだ、魚だ」

「坊主もやるか」

 俺は坊主ではない。でもおじさんにとってはそうなんだろう、と思った。

 おじさんから釣り竿を受け取る。おじさんが背中から俺の体に手をまわした。相変わらず酒臭かった。

「俺、釣りやったことない」

「そのうち慣れる」

「魚がきたって、どうやってわかるの?」

「勘かなぁ」

 おじさんの釣り竿は細い竹にテグスを巻いただけの簡単な作りだった。

「ほら、引いてる」

 俺が慌てて引こうとするのを、おじさんがおさえた。

「まだだよ。まだ餌を喰っちゃいねぇからな」

「どうやってわかるの?」

「竿が震えるだろ、魚につっつかれてんだ」

 俺にはちっともわからない。

「男ならなぁ、自分で自分を食わせられるようになりゃ十分だ」

「食わせるって、仕事をして?」

「釣りかなんかでな」

 おじさんがぼくの顔を見てにっと笑う。前歯がなかった。


 潮と混じった川の匂い。枯れた草と泥の匂い。マイクラの釣りにはにおいがない。感触がない。温度がない。


「ほら、坊主、今だぞ」

 おじさんが引け、と言った。ぼくは竿を引き上げる。おじさんがすかさず網でさかなを掬う。小さな、川底の泥の色をした魚だった。手に取ってみると、ぬらぬらして、冷たかった。

「うわぁ、ほんとに釣れた」

「手、離すなよ、逃げるぞ」

 手の中でびくびく跳ねている。生きている。

 おじさんはワンカップの中に水をくんで、中に魚を入れてくれた。水は濁っているけど、中が見えないほどではない。川はあんなに不透明なのに。不思議だった。おじさんは俺に言う。

「やるよ」

「いいの?」

 それからふたりで川に向き合ってしばらく座っていたけど、おじさんは不意に立ち上がり、「そろそろしまいにするかな」と言った。もう帰るという意味だと気がついたのは、おじさんが帰り支度を始めたのを見たときだった。


 ふたりで川沿いにある公衆トイレに行って手を洗った。

 おじさんはタバコをくわえて、ポケットから薄くて平べったい、小さな箱を取り出した。

「それ、なに?」

「マッチだよ。珍しいか? 母ちゃんが昔やってた店の名前が入ったマッチだ」

 おじさんはマッチ箱を見せてくれた。

「こうやってな、こすって火ぃつけんだ」

「はじめてみた」

「やるよ。余ってんだ」

 マッチ箱には、英語で何か書かれているけど読めない。

「ありがと」

「ずいぶん暗くなったな。気ぃ付けて帰んだぞ」

 おじさんはそう言って、トイレの側に止めてあった自転車にまたがる。荷台にはいろんなものがくくりつけてあった。揺れるたびにガシャコンガシャコン音がする。俺は手の中の魚をふと思い出して、かまどを作るための石を拾い始めた。


「かまどってどうやって作るんだろうな」


 呟いてみるけど、すでにおじさんはいなくて、当たり前だけど、返事をする人はいない。魚がぼんやりとした顔で瓶の中に納まっている。俺は石がたくさんある地面に半球状のくぼみを掘って、枯れ草を集めてマッチを放った。火はふわっと軽く燃え上がって、それから静かになる。拾ってきた木の枝に燃え移らせた火は、なんだか思っていたよりもずっとおとなしかった。魚の体にその辺に落ちていた木の枝を突き刺す。ぐにゃり。硬くて柔らかい、奇妙な手ごたえがあった。俺は魚を刺した棒を火にかざして魚を焼く。さっき殺した魚を焼く。しゅう、という音とともに皮が弾けて油が飛び出してきた。ってか、あんな濁った川で採った魚、ほんとうに食べられるんだろうか。食べて大丈夫なんだろうか。


「わん!」


 という音に振り返ると、小さな犬がかじってぼろぼろにしてた段ボールを引きずりながらこっちを見ているところだった。段ボールの表面にはひろってください。と書かれているような気もするけど、大量の歯型と、地面を引きずられたせいで泥に汚れてしまっていて、書いてある文字はほとんど読めない。


「あげるよ」


 俺は犬に半生の魚を放った。犬は疑わしそうに鼻を近づけて、ためらいがちにかじった。

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