深い眠りから目が覚める。どこか他人事のように体を起こすけど、暗い沼の底に足をとられたときのように、上手く眠りから抜け出せない。どんよりした靄を頭から叩き出せないまま、ずるずると寝床から這い出す。今日は何をしようと思ってたんだっけ。川に石の橋を架けようと思ってたんだっけ。あれ、いま何時だ?


 静かだった。朝、バタバタと支度をする隣人の生活音も聞こえない。部屋に射しこむ光は赤みを帯びている。妙だな、と思った。母親の気配がない。帰ってきた様子がない。外泊はよくあることだった。でも普段なら食事の用意をせめて整えていくはずなのに。いや、いつものことだろう。母さんは嫌なことがあるとすぐにいなくなる。似たようなことはこれまでもあった。どっちにしろ俺が、感じるな。不安なんかない。右手を握って左胸にあてる。


 母さんのことは好きだ。でも同時に同じくらい嫌いだ。冷蔵庫にあった日やご飯を温めて薄焼き卵とウインナーをフォークで混ぜ込んで食べる。ごま油の香り。薄い壁一枚で隔てられた暮らし。俺は隣に住んでいる人のことを知らない。隣人もたぶん俺のことを知らない。

 台所に目をやれば、発泡酒の空き缶が溜まった袋が口を縛られないままだらしなく崩れていた。食器を水につけて、またゲームを立ち上げる。なにをするんだっけな、とフィールド内をぶらぶらうろついて、馬の交配をして、杉の葉を剪定して、りんごを拾う。村があったから火を放って襲った。ニワトリの肉を焼いて食べる。俺のスマホはいつも鳴らない。誰からも連絡がない。交友関係は三年前でほとんど途切れていたのでそれも当然だと思う。三年生だとスマホをもっている人の方が少なかった。今は違うのかもしれない。一度も鳴ったことのないスマホ。俺が一方的に母さんに電話をするためだけに持っているスマホ。目を閉じる。乾いた眼球の表面に涙がすっと馴染む。食料が切れたらまたコンビニにい買い物に行かなければならない。三万円で何が買えるだろう。なにが、どれくらい、いつまで?


 いつまで保つと思う?



 余計なことは考えないに限る。俺はゲームに没頭する。ゲームの中に通貨はない。食べ物だってそれなりに途切れることがない。プレイヤーは病気をしない。プレイヤーは死なない。永遠に。みんなが遊び続ける限り、半永久的にアップデートされ続けるゲーム。ネザードラゴン、エンダードラゴン、エンチャントされた武器で強くなって、俺は、俺は? 現実の俺は。

 考えると怖くなるから、繰り返しゲームを立ち上げて遊ぶ。水アプデ以降作画能力の高い端末で遊ぶとその良さが十二分に体験できるらしいけど俺の使っている端末は母さんのただのお下がりだから、動きも遅くてそれで、いつも低画質モードで遊んでいる。YouTubeで見る高画質の世界はなんだか俺の知っているマイクラの世界ではないようで、だんだん、ゲームの中でまで自分ひとりだけが隔離されて誰も知らないゲームを遊んでいるような気がしてくる。多分同年代のやつは同時プレイとかして遊んでいるんだろう。俺は。



 母さん、俺は。



 気がつくとほとんど夜が明けていた。俺はベランダの窓から朝日が昇るのを見る。朝のひかりは白っぽくぼやけていた。同級生が起き出す時間に俺は眠る。冷蔵庫にあった、固くなったコンビニおにぎりを口の中に押し込んで、そのまま寝床に入った。



 目が覚めて昼を過ぎていることを知る。空腹は眠気と相まって余り意識されない。それでも家の中の食料は食べつくしてしまっていた。一万円をポケットにねじ込んで外に出る。正午の街並みはとても静かだ。前住んでいたところはオフィス街だったから、昼になると人通りが多かった。このあたりは違う。町全体がいつもひっそりと息をひそめているみたいだ。二度と起き上がれないドラゴンみたいだ。


「よう拓馬」

 コンビニの店員の有働さんと俺は仲がいい。有働さんも昔不登校だった時期があると教えてくれた。中学なんか行かなくても何とかなると、勉強や友達よりも大事なことがあると、いつも俺を励ましてくれる。

 いつだったか有働さんに聞いたことがあった。

「勉強や友達よりも大事なことって何?」

 有働さんはにこっと笑って俺の頭を撫でる。

「それはお前が見つけるんだ」

 なんだ。と内心思った。結局有働さんも知らないんじゃないか。



「おにぎり五個だけ? おかずも食えよ」

「節約しないといけないから」

「コンビニよりスーパーの握り飯の方が安いぞ」

 俺らは利便性を付加価値に商売してるんだからよ。とレジを打ちながら有働さんは言う。

「スーパー行った方がいい?」

 俺が尋ねると、有働さんはちょっと考えてから、言った。

「俺はお前がここで買い物してくれて助かるけどよ」

 有働さんは販促用のキャラクターつきノートをくれた。

「勉強してお母さんを助けてやりな」

 頭を下げて店を出る。

「ゲームばっかするんじゃねぇぞ」

 俺の背中に有働さんが叫んだ。母さんと同じことを言っているなぁ、と思った。

 ゲームじゃなかったら、なにをしたらいいんだろう?




 家に帰っておにぎりを食べる。スーパーの方が安いらしい。母さんは値段のこととか、出費のことをあんまり気にしない人だった。コンビニだったら二十四時間開いているから、拓馬もやばいと思ったらコンビニに逃げ込むんだよ。と教えてくれた。それ以来コンビニのことをなんとなく安全なところかな、と思っている。やばい事態が具体的にどういうものなのかはよくわからないけど。


 家の中にいるとなにが危機でなにが安全なのかよくわからなくなる。ゲームをしていても、まるで肉体から魂だけがぽっかり浮いてしまったような感じがする。でももはやどうやって現実に戻ればいいのかわからなくなってしまって。ゲームを立ち上げればとりあえず毎日することはあるし、目標もあるし、続けてしまう。ゲームの危機はわかりやすいのも良かった。現実はよくわからない。なにが正しくて、なにが間違いで、なにが安全で、なにが危険か、わからない。


「肉食え、肉」


 担任の言葉を思い出す。肉。マイクラだと羊も牛もニワトリも、焼いたら全部食べられるのに。明日はスーパーに行って肉を買おうと思った。



++++++



 目が覚めて、すぐに顔を洗い、歯を磨き、着替えて近所のスーパーに自転車を走らせる。売り場がよくわからないので、棚出しをしていた女の人に

「肉どこですか」

 と尋ねる。

「肉? どの肉かな?」

 女の人は大体優しい。

「肉……牛を」

 マイクラのことが頭に浮かんだ。

「どうやって食べるの? おつかいかな? お母さん何か言ってた?」

「焼いて……。食べます」

「ステーキ肉ならここだし、焼き肉用はこっちね。三人前?」

 俺は首を振る。

「二人前ならこっち」

 お姉さんの出してくれたパックをそのままカゴに入れる。値段は見なかった。それからおにぎりを見に行って驚く。確かにコンビニのおにぎりよりも安かった。

「おにぎりひとつ七十八円……」

 どれも百円しない。焼肉のみぞれおにぎりをたくさん買った。これから肉を買うのに。

 レジに並んで、会計するときに驚いた。

「二千百六十七円です」

「たっか……。」

 思わず声に漏れて、レジの女の人がふふ、って笑う。

「大丈夫? 足りる?」

「足りる」

「ランプ肉、いいの選んだね。きっと美味しいよ。うちの一押し」

「ランプ……?」

 俺は一万円をレジに出した。

「牛のおしりの肉。ステーキ用だよ」

「おしり?」

「赤身で引き締まってて美味しいよ! 国産和牛だから、香りがいいよ~。ミディアムレアがお勧め」

 レジスターに吸い込まれていくお札。

 お釣りを受け取って、ふと袋がないことに気付く。どうしよう。

「あ、レジ袋いる? 一枚二円」

「いります」

 どうしよう、こんなんじゃお金すぐになくなってしまう。

 おぼつかないあしどりで家に帰った。意味もなく泣きそうになる。

 いや、泣く必要はない。大丈夫だから。

 台所の高い棚でほこりをかぶったフライパンを取り出し、IHヒーターにかける。レジ袋から肉のケースを取り出し、ラップを破る。真っ赤な汁がこぼれおちそうだ。フライパンに肉がべとりと貼りついた。

 肉の下にあった、ステーキスパイス、という袋をつまみ上げる。焼く前に使うのだろうか、それとも食べるときに使うのだろうか。わからなくて、とりあえずフライパンに並べた肉の片面に振りかけてみる。なんだか鼻にツンと抜ける、いいにおいがした。



 ひっくり返し方がよくわからない。見よう見まねで返してみる。肉がこぼれて、フライパンから半分はみ出した。あわてて箸でおしもどす。マイクラなら、かまどに任せておいたらすぐに出来上がるのに。おなかがぎゅう、とつねり上げられたみたいに痛くなって、そう言えば目が覚めてから何も食べてなかったのだった、と思った。



 フライパンから肉を皿に上げて、箸で刺して口に運ぶ。熱い!


 肉は硬くて、なかなか歯が通らない。真っ赤な肉汁がじゅわじゅわと沸いてきて、足元にこぼれる。うえぇ、血の色だ。がしがしと咀嚼した肉のあいだから、赤い汁はじくじくと染み出してくる。吐き出すわけにもいかず、もにゅもにゅと肉を噛み続ける。スパイスパウダーはおいしかった。ポテチの味に似てると思う。血の味が気持ち悪い、と思ったけど、おなかが空いていたのか、気がつくといつの間にか肉を全部平らげていた。牛を殺して食べた。血の味がいつまでも口の中に残っている。

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