最終話

 取り残された僕は、一人でしばらくそこにつっ立っていた。

 しかし、立ち止まった瞬間から、次第に体温は奪われていくものである。こんなときにも寒さを感じているのか、と腹立たしい思いに囚われながらも、生きているからには仕方のないことなのだろう。あきらめて、また歩き出すしかなかった。

 もうマスターはこの世にいない。ああして目の前で大声で笑って、話して、ギターを演奏しながら歌っていた人が、この世から去っていたとは。もう二度と会えないとは、どういうことなのか。

 マスターは、はじめ君と話すことはできたのだろうか。彼は一度くらい「父ちゃん」と言ってやったのだろうか。

 いや、そんなことはもうどうだっていい。

 茫然と、ただ足を動かしながら、僕はあの日の演奏のことを思い出していた。

あの時は、もっと続くと思っていた。あの時間、あのきらめき、あの高揚感。いつでもここにくればまた手に入ると思っていた。また聴く機会はあるだろうと、気軽に考えていた。またいつだって会えると、どうして疑うことができただろうか。ほんの少しだけ足を延ばせば、マスターはここにいたはずなのに。しかし、もう二度と会えない。二度と聞くことはできない。あの歌、あのギター。もう二度と観ることは叶わない、あの舞台。

 他のメンバーは、はじめ君は、成吉先生は、そのことを知っていたのだろうか。

 一年近く前の、あの誤魔化すようなあいまいな言い方が今更ながら思い出される。「メンバーの都合がつかないようで…」というのは、もしかしてマスターの体調が急激に悪化していたのではないだろうか。もしくは、あのときも具合が悪かったのに、はじめ君のために無理していたのではなかっただろうか? まさか、本人も本当に最後のライブになるとは思っていなかったのかもしれなかったが。

 知っていたかもしれない、知らなかったかもしれない。しかし、あの人はあのとき、そんなこと全然頭になかった。ただ、音楽を奏でることだけを考えていた。いつか見た風景、これから会うかもしれない人々、味わうかもしれない感激に思いを馳せながら、これでおしまい、なんてきっと思っていなかった。ただ、今、そのときだけを映し出していたはずだ。

 僕も、知らないうちにあの時間の中に内包されたのだろうか。あの人はいなくなってしまったが、しかしあの瞬間は、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、いつまでも残ると信じたい、信じるしかない。マスターと会ったという事実、話をしたという事実、あの人が生きていたという事実を、僕の中から消したくない、消すわけにはいかない、生きている限りは。もう、マスターの長い話を聞くことは、きっとないだろうけど。

 しばらく南米の音楽は聴けないし、コーヒーを飲む気にもならないだろう。

あの子にあげるはずだった板チョコをひとかけら割って、口の中に入れる。甘い味が口の中で溶けていく。ポケットに入っているチョコすべてを食べつくしても、この衝撃が少しでも麻痺するとは、とても思えない。


 やがて歩き疲れて空を見上げると、そこには雲一つない青い世界がどこまでも広がっている。

 僕は、およそ一年前に何気なく口に出した質問を思い出していた。今となっては、こう質問するべきなのだろうか。

「天国って、どんなところなんですか?」

 返事を聞くことができるのは、多分もうしばらく先になることだろう。


                                   おわり

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