第13話

 成吉先生がマスターのお兄さんである以上、授業にも出ないであの店へ行くのは気がひけるので、あれ以来授業にも顔を出すようになった。

クラスメイトは、初めは違和感を覚えていたようだった。今までろくに教室に顔を出さなかった僕が、文化祭を境に、当然のような顔をして教室にいるようになったのだ。しかも、文化祭に来たとは言っても、帰りのホームルームに来ていたくらいで、クラスの出し物にはまったく参加していなかった。一体僕の身に何が起きたのか、わかる人は一人もいなかった。

 しかし、僕が教室にいるようになれば、とりあえずみんなも無視するわけにはいかないようで、何かしら接点ができていった。積極的に働きかけたわけではなかったが、しばらくすると、僕が一時期教室にいなかったことはすっかり過去のこととなっていた。

 そうこうしているうちに、人と話をするのに、特にすごい垣根を超えないといけないわけではないことが、徐々にわかってきた。あの喫茶店で、見ず知らずの僕に何らためらうことなく話しかけてきたマスターのように、あれほど馴れ馴れしくはないにせよ、人と普通に接しても特に問題がないことがわかってきた。

 慣れてしまえば、あっけないくらいに簡単だった。

 僕は一体何を今まで心配していたのだろう。確かに、心配する要素はあった。小学校、いや、遡ると幼稚園、もしくはその前から続いていた、他人に対する不信感、裏切られた記憶、踏みにじられた感情…あげてみればきりがないくらい、様々なことがあったことは確かで、消すことはできない。

 しかし、そのことをずっとひきずって行くことは、高校で突然クラスメートになった人達にはまるで関係ないことなのだ。いつまでも、そうして足をひっぱってきた人たちのことにこだわって、他人なんて信用ならないといった態度で他の人に接しても、初めて会った人は面食らうだけだ。さらにいえば「自分が何か悪いことをしたのだろうか」と不必要な不快感を与えてしまうだけなのだ。

 みんながみんな、他人から強く拒絶された記憶を持っているわけではない。少なくとも、この高校にいる多くの人は、ごく普通の環境で育っているのだ。小さい頃から、安心して、一人の人格を持った者として尊重され、自由に意見を言い合える、そういう環境で大きくなってきたのだ。とりあえず、僕もここでは同じように振る舞っても問題ないのだ。

 普通の人と普通に接すること、そうしていいんだ、という安心感が生まれると同時に、そうしないと失礼だという義務感も生じた。地球は僕を中心に回っているわけではない。長い間、あまりいいとはいえない環境に身を置いていたことは事実だとしても、そのことで世界中の全員が自分を傷つけようと狙っている、などとかまえていることは、実は自意識過剰だったのかもしれなかった。

「小坂、数学の予習してきた?」

「まあね。見てもいいよ、代わりに英語の訳、見せてくれたら」

「ちゃっかりしてるよな」

「当然だろう」

 気がつくと、マスターの口調が無意識のうちに真似ていることがある。ぶっきらぼうだと思っていたけど、使ってみると心地よい。もしかすると、マスターも繊細すぎてなかなか思ったことを言えないので、定型句のように、あえてぶっきらぼうな表現を使っていただけなのかもしれなかった。

 ちゃっかりしてる、と言われる度に、一つ普通の人に近づけたのだろうか、と感じる。そう、人は霞を食って生きているわけではないと、ようやくこの頃気づき始めたのかもしれなかった。

 個人面談のときに成吉先生に訊いたら、あの店は休日、祝日は休みらしいので、どのみち平日でないと行けないことがわかった。

「閉店時間は一応五時で、場合によっては延長もしているようですが」

 本人も言っていた通り、バイトでやっているようなものなのだろう。

「あの、あのバンドはなぜサンファニートという曲ばかり演奏していたのですか?」

「…やはり同じ曲ばかりで、飽きてしまいましたか」

「いえ、どれも素敵な曲でしたけど…。ただ、あの喫茶店では、もっと色々な曲を聴いたので…やっぱりはじめ君が吹きやすいようにだったんでしょうか?」

「まあ、それもないとはいえないけれども、どちらかというと私に配慮してでしょうね。あいつも言っていた通り、私は初心者で、難しいリズムは叩けないから。私のレベルに合わせようとして曲を選んでいるうちに、ああいった選曲になったのです。さすがにそこまで言ってしまうと、私の沽券に関わるとでも思ったんでしょう。別にはじめに責任を押し付ける必要はなかったのに」

 さり気なくマスターに対する嫌味を交えている。先生がこんな話し方をするなんて知らなかったので、微笑ましい。

「成吉先生は、これからも続けるんですか?」

「さあ、そればかりはどうなるかわかりません」

 続けるかどうかは自分のことだろうに、おかしな人だ。

「ライブは、やらないんですか?」

 先生は少し口ごもり、

「ええ、メンバーの都合がつかくて、あれ以来特に開催されていません」

 と答えた。自分もメンバーの一員ではなかったのか。人ごとのような言い方だ。本当に、文化祭だけの飛び入り参加だったのだろうか。

 あの店までは、高校からだと直通のバスがなく、駅まで二十分歩いて、さらにバスで二十分かかる。そのバスも、通常一時間に三本しかなく、しかも十五時、十六時代は二本になっている。なかなか行く機会を作れないまま、時が経った。

 演奏会のお誘いはその後一度もないまま、翌年の四月、二年生に上がったとき、成吉先生は転勤した。そのうち行かねばと思いつつも、なかなか行く機会がない。ちょっと顔を合わせただけの僕が、知り合いの顏をしてふらっと立ち寄ってよいものだろうか、などと余計な心配をしているうちに、あっという間に月日は流れた。

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