第2話
店は、バス停から見える位置にあった。焦がした茶色の板に、白いペンキで「Cariñito」と書かれている。情報誌にはオープンしたばかり、と書いてあったが、看板以外はどことなく古ぼけた感じだ。
派手な色の花々が、素焼きの植木鉢にたくさん植えてある。紫、赤、黄色、オレンジ、白、ひょっとしたら経営者は日本人ではないのかもしれないと思う。
中の様子が外から見えにくいので、入ろうかどうか迷う。入ってみてコーヒーが一杯千円などと言われたらどうしたらいいのだろう、と気になり始める。しかし、教室の扉を開けることを考えれば、知らない店の扉を開けるのも大差ないとの結論に至り、ドアノブに手をかけた。
ノブはガチャッといい音を鳴らして回る。さらに少し力を入れて押すと、ウィンドウチャイムが懐かしい音をたてた。
「いらっしゃいませ」
店内にはマスターらしき人物以外は、誰もいないようだ。休日の朝、駅からバスで二十分ともなれば、お客でいっぱいのほうがおかしいのかもしれないが。薄暗い店内には、音楽も流れていない。ひょっとすると人は来ないだろうと高を括って、準備中の看板を付け忘れたのだろうか。
おろおろしていると、マスターは「お好きな席へどうぞ」と言った。ぎこちなく座ってはみたものの、こういった状況に慣れていないせいか、どうもくつろぐ気持ちになれない。せっかくのさぼりなのに、初めてのせいか要領を得ない。
「ご注文は?」
「…コーヒーを…」
「以上で?」
「はい」
マスターは僕を見てにやっと笑う。制服を着ているせいだろうか。 彼がカウンターに戻ると、とたんに音楽が流れ始めた。ステレオのスイッチを入れたらしい。
マスターはキャニスターからコーヒー豆を取り出すと、手動のミルでひき始める。テーブルの上には、その辺の野原に生えているささやかな花が、小さな透明の空き瓶に活けてある。窓は広く、空がよく見える。
やがて彼はコーヒーカップを持ってくると、「ごゆっくり」と言いながら去って行った。インスタントではないコーヒーを、喫茶店できちんと飲むのは初めてだった。ゆっくりと口をつけてはみたものの、美味しいのかどうかはよくわからない。
コーヒーの味よりむしろ、さっきから流れている音楽が気になっている。乾いた弦楽器のカラカラという音と、陽気なのかと思いきや、突然もの悲しさを帯びるメロディラインがラテン音楽を連想させるのだが、それとは少し違うようだ。初めて聴く音楽なのに、昔から知っているような気持ちにさせる。一曲一曲は短いようで、三、四分程度で終わっている。どれも似たような雰囲気で、次の曲に移るともう前の曲の旋律は忘れてしまうのだが、ずっと聴いていたいような音楽だった。
四曲目になり、さすがにコーヒーが残り少なくなってきた。ふと視線を感じてカウンターに目をやると、マスターがこちらを見てにやっと笑った。
「文化祭、行かなくていいのか?」
思いがけない言葉が出てくる。動揺したのを悟られないように、無表情のままでいる。彼は、噛み殺したような笑みを浮かべる。
「いいんです。出欠日数は足りているので」
ようやく答えると、彼はにやにやしながら「そうか」と頷いた。
「何かおかしいですか?」
「いや、行くつもりないのに、制服着てるんだな、と思って」
「これは、予備校へ行こうと思って…」
「へえ、予備校って休みの日でも制服で行くんだ」
「…行きたくないんです、文化祭なんて」
本音を言って、幾分すっきりする。彼は黙って頷いた。
「コーヒーはどうだった?」
話題がころころ変わる人だ。コーヒーなんて、ただ機械的に飲み込んでいただけなので、味どころか、熱かったかぬるかったかすらよく覚えていないのに。
「いいから、正直に言ってみろよ」
僕が黙っていると、
「味どころか、アイスかホットかすらわかってないって顔だけど」
と言われた。
「…まあ、そうです。すみません」
「謝ることはないさ。他人に気を使う性質なんだな。俺なんて、もう二度と会わないかもしれないだろう、あんたにとっては」
まったくその通り、と僕も思う。
「だから、疲れるんです、学校」
「だろうな」
彼はそう言うと、冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋に入れて火にかけた。
「猫、ですか?」
「は?」
「いや、ミルクを温めているので」
「猫なんているもんか。いたとしても、わざわざあっためたりしねーよ」
鼻で笑いながら、缶から茶色い粉末をスプーンで取り出し、鍋に入れる。弱火でしばらく温めた後火を止め、真っ白なコップと、古ぼけた花模様の二つのコップに、液体を取り分ける。
「ほらよ」
白い方が僕に差し出された。
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