第3話

「ありがとうございます」

 立ち上がり、コップを受け取る。香りから察するにココアのようだった。「コーヒーよりも熱いから、ちゃんと冷ましながら飲んでくれよ」

 コーヒーは一度フィルターを通っているので、ある程度温度が下がっていたようだが、鍋からじかに移したココアは、なるほど、湯気が目いっぱい立っている。さっきの調子で飲み込んだら、すぐにやけどすることだろう。 もう一つのコップは、てっきり自分も飲むのだろうかと思っていたが、なかなか口をつけようとしない。

 冷めますよ、と言うのも余計なお世話だろうかと思っていると、顔に出たのだろうか、

「冷ましてるから、いいんだ」

 と言われる。

「いつもなら、匂いを嗅ぎつけて飛んでくるのに。あんたが緊張してるから、空気がぴりぴりしてんのかもな」

 などと言う。犬か? と思っていると、やがて男の子が現れた。 最近子供と関わる機会があまりないので、どれくらいの年なのだかよくわからないが、幼稚園に行く年齢には達しているように見えた。

 その子は僕をじっとみると、にっと笑った。笑い方がマスターとよく似ている。

 彼はココアを手に取ると、テーブル席に座った。ココアを美味しそうにすすり、満足げにマスターに目配せした。

 半分くらい飲んだところで、椅子から降りて、マスターの服の袖を引っ張る。

「なんだ、また饅頭が欲しいのか。母ちゃんには内緒だぞ」

 マスターが戸棚に手を伸ばすと、子供は再び袖をぐいぐいと引っ張り、首を横に振る。

「じゃあ、なんだっていうんだ? チョコレートか?」

 子供は黙ったまま、CD置き場を指さした。

「ああ、あれか。わかったよ」

 マスターはそう言うと、CDをいったん停止させ、棚から取り出したCDをかけた。童謡だろうかと思ったら、それも同じような系統の音楽だった。僕には違いはわからないが、子供にはわかるのだろう、音楽に合わせて楽しそうに体をゆすり始めた。

「この子、ずいぶんと恥ずかしがり屋なんですね」

「そうか?」

「僕がいるから人見知りして、さっきから一言も話さないじゃないですか」 一瞬マスターの表情が曇った。

 子供は本棚の一番下から厚めの本を取り出して、しきりにページをめくっている。外国の華やかな色の鳥がたくさん載っている図鑑だった。

 その様子を見ているうちにはっとした。この子は口がきけないのだ。

 いつもどうでもいいことばかりに気を使っているくせに、肝心なことには全然気が利かない。自分の頭をたたきたくなったが、今更そんなことしても、後の祭りだ。

「おい、そろそろ時間じゃないのか?」

 やがてマスターが、その子が好きだと思われるテレビ番組の名を口にすると、彼はぱっと顔をあげ、さーっと走ってドアの向こうへ消えていった。

「ぼうずのことなら気にすんなよ。生まれつきじゃないんだ」

「では、なんで……?」

「色々あってな。一時的なものなんだ。そのうち治る」

 それ以上は何も訊くな、という強い気配が漂った。気圧されて、どうしてよいかわからなくなる。とりあえず、もらったココアをできるだけゆっくりと啜った。

「あの、何で喫茶店をやろうと思ったんですか?」

 話すことが何もないのも気まずいので、とりあえず思いついた質問をしてみる。

「ああ、喫茶店をやるのが親の夢だったもんでな。場所や道具の用意があったから、まあ俺がやってもいいかな、と」

「はあ」

「何か不満でも?」

「なんだか、けっこう簡単なんですね」

「何が?」

「仕事を選ぶのって」

「はは、あんた達の方が簡単じゃないのか? コンビニで働こうが、喫茶店で働こうが、アルバイトならどこでも雇ってくれるだろう」

「僕は、バイトしたことないんで」

「ああ、そう」

 マスターはつまらなそうにそう言うと、さっきのココアの鍋の片付けにかかる。そろそろ僕も帰った方がよさそうだ。でも、どこへ?

 家か、学校か。どのみち帰り着くところはそのどちらかしかない。ぶらぶらしようにも、ろくにお金も持っていない。

「そういえば、前の職場でコピーを取っていたときに決めたんだっけかな」 

一瞬何の話をされているかよくわからなかったが、喫茶店を始めたきっかけのことを話しているのだと気づく。

「コピーなんて、それまでも何度もとってたんだけどよ、そのときは全部で三十ページの書類を五十部コピーしてたんだ。そういう日に限ってアルバイトが休みでな。そんなに大量に自分でコピーを取るのは初めてだった。全く同じ書類が何枚も何枚も出てくるのをぼーっとつっ立って見てるうちに、俺の人生なんなんだろうな、とふと思った。まあ、誰でも時々思うことだよな。でもその時は、何故だかその数分のうちに、これから先もずっとこんなことしてんなら、コーヒーでも淹れてるほうがましだな、と思ったんだ」

 返事のしようがなくて、曖昧に頷く。特に働いた経験もない僕には、なんだかよくわからない話だが、さっきみたいに「簡単なんですね」などと気軽に言うのはためらわれた。

「ま、かみさんも働いてるからなんとかなってんだけどな。で、あんたは?」

「僕は……?」

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