6章

6-1 一、タ、ヒ

「…――おまえさ、普通あそこでアソコに蹴り入れるかな」

 役にたたなくなったらどうする気なの…と、叶馬とおまは、ようやく整った息づかいのもと、平坦な口調で訴えた。

「充分、役にたったじゃんか」

 思わずうっかり局所に狙い定め、叶馬を蹴り倒したあのあと結局、たすくは組み敷かれてしまった。

 当然、復活(?)直後の身体には、十分すぎるほど濃厚な恋人の時間をふたり過ごした。いつになく峻烈なひとときだった。思いだすだに恥ずかしい。まるで初めての時のように叶馬はすっかり獣と化していたが、佑も負けず劣らず熱く求めてしまった自覚がある。心音とともにめぐる血流も、上気する肌も、腕も脚も何もかも、取り戻したばかりの五感を総動員して、ありえないような乱れようだった。反省しきりだ。

 かくして求めた以上のものを充分すぎるほど与えられて、佑は今やくたくたのへろへろの飽和状態だ。いつもの定位置の叶馬の腕枕で、見慣れた天井の節目を数えながら、安堵の息をつく。こうしていると、ようやく自分の居場所へ戻れた心地がする。死体と化していた先刻までとは違った意味で、今は動ける気がしない。

 この平穏をもう少し楽しみ、あとちょっと安らっていたいのは山々だが。このまま眠ってしまいたいのが本音だが。そうはいかない。何がどうしてこうなったやら、叶馬を問いたださずにはおられない。

「…おい、叶馬。何が、どうなってんだよ、これ」

「うん」

 互いへ視線は送らず、並んで寝転がりぼうと天井を眺める。

 叶馬とて、このままうやむやにできるなどとは、考えてやしないだろう。

「俺って死にかけて、死の淵から戻った、ってことなわけ…? だよな」

「おまえはさ、仮死というか、深い冬眠状態だったんだと思うよ」

「冬眠…?」

 冬でもないのに冬眠とはどういうことだ。いや、たとえ冬でも人間は冬眠などしないはず。

「本当には死んだんじゃなかった…てか、死にかけてもなかったってこと――?」

「精神的に仮死状態っていうか。現場で脚立の下で伸びてた時、ざっと見ただけだけど、怪我もなさそうで、どこもなんともないみたいだったし。身体も、生物学的にもまったく問題なかったしね」

 叶馬があの書斎へ駆けつけた時、佑はたしかに床で伸びていたらしい。だがどこも外傷はなかったうえ、呼吸も脈拍も正常だったという。むしろ就寝時のように静かすぎるくらいだったと。

「キスしてみたら、おまえ、軽くだけどちゃんと応えてきたしねぇ」

 だから大丈夫だと判断したと、叶馬はにっこりと頬に笑みをはいた。やはり胡散臭く見える笑顔だ。

(…つーか、なんだよその判断基準)

 叶馬にすっかり飼いならされた佑の身体は、どうやら無意識下でも反応するらしい。ある意味、危うく恐ろしく、なんだか情けない話だ。

「まあ、脚立から落ちてガーンとやって、一時的に失神くらいはしてたかもだけど。むしろそのまま静かに深く熟睡中って感じ…? おまえ、また寝不足してたんじゃないの」

「――熟睡…」

 たしかにここ何日か、寝不足は続いてはいる。それもこれも夜中まで元気なこの恋人のせいだが、叶馬はそこはきれいに棚上げなのだろう。

 とはいえそれだけの理由では、なんだか腑に落ちない。あの臨死体験が単なる夢や妄想の類いだったとは、佑にはどうしても考えられない。

 思い巡らし、佑はふとひらめいた。きっと問題は、現場で見つけたあの紙片だ、間違いない。

「あのさ、俺が倒れてた時に手に持ってた紙切れって、叶馬は見た?」

 確信しつつ問えば、叶馬はにやりと嫌な笑いを浮かべる。

「ご名答」

 やはりか。元凶はあの紙切れか。あそこに何か細工があったわけか。

「やっぱあれって、呪いのお札とか、そういうヤバいやつだった?」

「まさか、そんな大層なものじゃないよ。あれはね、ちょっとしたおまじないみたいなもん。指きりと違わないくらいの、可愛いもんだよ」

 紙片に墨書きされていたのは、初歩的な破字法の暗号だったと、叶馬は説明した。記されていた文字列を組み立てれば、一、タ、ヒ、もちろん『死』だ。簡単だから誰でも一発で解けちゃうよね…と、叶馬はつづける。

(…やべ、俺、最初は『イチ、タ、ヒ』だった)

 だから佑もこんな目にあって災難だったね――労りの言葉とともに、腕枕する手で優しく髪を撫でる叶馬には、これはバラさないでおこうと佑は口をつぐむ。

「まあ、あれは一種の捨て罠ではあるかもだね」

 佑には耳慣れない名称を、叶馬は口にした。

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