3-3 さよならホラー

「…あ、ごめ」

 ごぼりと、音とともに湯が耳へ流れこんだ。叶馬とおまが手を滑らせてしまい、座らないたすくの首がのけぞったまま、湯船へ落下したのだ。

(わざとじゃねぇだろうな)

 佑の決意が、こんな時にかぎって、声なき声となって叶馬へ届きでもしたか。

(痛てぇじゃんか、おい)

 浴槽のふちで軽く頭も打った。この状況では、痛覚こそいらない感覚の筆頭だと、佑は文字どおり痛感する。患部を自分で撫でることもできないし。傷になったらどうしてくれるのか、治癒は絶対的にみこめない。それどころか、そこから急激に腐りだしそうだ。

(……あ、嫌なこと考えちまったし)

 あの書斎で佇み溶けて崩れた家主の姿を、ふと思い出した。浮かんだ自分の思考とホラー映画じみた映像に、佑は身震いし――たかった。

「ごめんね、佑。痛かったねぇ」

(死体に謝ってんじゃねぇって)

 死体でも、たしかに痛かったが。

 まあ、目鼻口がついていればたとえ相手がぬいぐるみでも、あまり無下にはできないのが人の心情だ。

 叶馬は改心したか、以降は細心の注意を払って、淀みなく丁寧に佑を清めていった。

 佑は、叶馬にこんなに優しく扱われたのは初めてだった。

 もしかすると、初体験のあと一緒に風呂へ入った時より、これは優しい手つきだ。最初の時は、むしろ叶馬は獣じみていて乱暴だった。切羽詰まり余裕がなかったのだと、のちに言い訳していたが、怪しいものだ。

(もう、これが最後なのか……)

 佑の身体が火葬されたら、叶馬が佑に触れることは、もう永久にないのだ。

 感傷にひたりつつ、ぼうと眺めるうち、叶馬がふと表情をかえた。

(叶馬…?)

 真剣な眼差しが、佑を見つめる。叶馬の顔が近づき、焦点の定からぬ視界がさらにぶれた。叶馬の息がかかる。

(…あ)

 キスされるなと思ったやさき、叶馬の唇が佑に触れた。おずおずと寄せられ、一瞬あとにはぎゅっと押しつけられた。舌がちろりと唇の表面を舐める。ゆっくりと唇の上下全体を包みこみ、食まれる。

 感覚が鈍いせいか、何もかもが遠くて酔夢のようだ。

 舌がこじ開けるように進入してきても、応えることができないのが、もどかしい。叶馬の唇も舌も頼りないくらい柔らかな感触なのは、佑がすでに硬い身体をしているからだろうか。触れる叶馬の体温も、いつもよりずっと熱く感じられる。

「…やっぱ、だめか」

 唇を離し、触れあう距離のまま、ひっそりと、悲痛な声で叶馬は呟いた。

 そうか、これはつまり、『お姫様は王子様のキスで目覚める』の法則か。なんとも叶馬らしい、おめでたいくらいロマンティックな思考回路だ。けれど佑は目覚めず、叶馬の最後の頼みはあっけなく断ち切れたといったところか。

「佑…」

(アンタ、そんな悲しい顔すんなって。こっちまで泣きたくなるじゃんか)

 涙もどうせ流せやしないけれど。

「…佑、死んじゃ嫌だよ、佑ぅ…っ」

 佑の好きな男前が、目の前で見るみる崩れ、鼻をすすりながらぐしょぐしょと嗚咽しはじめた。

「オレを残していかないで、佑ぅ、戻って来てぇ…っ」

(…叶馬)

 そうできるものなら、佑だってすぐにも戻りたい。

 しかしなんだ、なんともはや情けない、こんな叶馬を見るのは初めてだ。無いものねだりの駄々っ子のような風情で泣き崩れる叶馬を、佑は呆然と眺めた。珍しいものを見せてもらって、なんだか得した気分にもなる。生きていたら一生、見られなかった姿だろう。

 服がびしょ濡れになるのも構わず、叶馬は佑を壊れそうな力で掻きいだき、胸に抱きしめる。

「佑ぅ、佑ぅぅーっ! たす…くぅぅぅーっっ…!!」

 両腕にとじこめて濡れた髪に頬をがむしゃらにすりつけ、嫌々をする子供のように身をよじりながら、咆哮する。それしか言葉を知らないように、叶馬はただ、佑の名だけを泣き叫んだ。

 自分の死を心底から悼んでくれる人がいるというのは、まんざらでもない気分だ。それが恋人とあらばなお嬉しい。ざまあみろ、叶馬は佑の手の内だ。

(叶馬…)

 そんなふうに泣くな、今の佑は涙をぬぐってやることも、できないのだから。

(アンタさ、男前が台無しじゃん、ほら鼻水でてるっての)

 吹きだして笑い転げることも、もちろんできない。

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