喫茶店の裏にて
早過ぎた。
喫茶店の裏口は閉まっている。店長はまだ来ていないらしい。
合鍵を貰っておけばと後悔するが仕方ない。バイトの時間まで、僕は時間を潰す事にした。場所は、店の裏にある小さな公園が良いだろう。幸い、今は秋になったばかり。日光が差していれば外でも寒くない。
公園のベンチに腰掛けて空を仰ぐ。雲ひとつない青空は高く、清々しい。僕の荒んだ心を穏やかに包み込んでくれる。
最近、「サイコメトリー」をする機会が多かった。「依頼」を持ってくる萩原さんを責めるつもりはない。しかし、過去を「見る」精神的負荷は尋常じゃない。そこへの理解が、普通の人間である萩原さんには足りないのだ。
そんな事を考え空を眺めていると、突然、背後から頭上に影がさした。
「初めまして……って、この間言ったっけ」
声と共にこちらを覗き込む男の顔。
日曜にこの辺で見かける事はほぼないスーツ姿。
時が止まる。
いや、エサをついばむ鳩達の鳴き声は聞こえるし、遊具で遊ぶ子供達の声にも変化はない。だから、これは錯覚だ。あぁ本当に、目の前の顔も錯覚であれば良かったのに。
自己紹介を待つまでもなかった。未来を「見る」事が出来る男の顔を――僕に興味を持ったという理由で殺人事件を止めなかった男の笑顔を、忘れる筈がない。
――どうしてここにいる?
――何をしに来た?
――僕はどうすれば良い?
幾多の疑問が困惑となり、頭を駆け巡る。汗がこめかみをつう、と滑り落ちた。
「無事に犯人が捕まって良かったね。そうだろう?」
僕の隣にまわりこみ、男は同じベンチに腰かけた。僕は下手くそな愛想笑いを浮かべる事しか出来ない。
――僕がここに来る未来を「見た」のか? それとも偶然?
考え込んでいると、男は目を細めた微笑みのまま左手を開いてみせた。
「あと五秒、そのままの姿勢で。はい、三、二、一」
指折りカウントの終了と同時に、聴き慣れた低い声が鼓膜をつんざく。
「その猫、つかまえろ!」
間髪入れず、僕の膝に乗り上がった一匹の黒猫。それを僕は反射的に抱き上げていた。黒猫はにゃうんと一声鳴き、大人しく腕の中で丸まった。つややかな毛は触り心地も良く、大切に育てられているのだろうとわかった。
「でかした!」
リード紐らしきものを掴んだまま、息を弾ませ駆け寄ってくる萩原さん。猫探しの依頼をうけ、この猫を追いかけていたに違いない。隣の男は、この未来を「見て」いたのか。
「ね、良かったでしょう?」
ねっとりと張り付くような微笑み。
「こちらは?」
猫の首輪にリード紐の留め具をかけ、萩原さんは胡散臭そうに首を傾げる。
「例の、未来が『見える』方です」
僕の言葉で、萩原さんは全てを悟ったようだった。
以前僕が「見た」殺人事件。そこでの男の行動は完全に愉快犯のそれで、なのに男は殺人に全く関わっていなかった。
この手の
「……あんたが、例の男か」
「初めまして。嫌だなあ。そんな怖い顔して」
萩原さんが心底嫌な時に見せる鋭い目つきにも、男の笑みは崩れない。萩原さんが口を開きかける。だめだ、ここで止めないと一方的な口喧嘩が始まってしまう。
「今日はどのような用件が?」
僕は割り込んで男に話しかける。正直に言えば、さほど男に興味があるわけではない。だが、今回の出会いが新たな事件の発端になるならば、それは止めるべきだ。
「特に何も。ただ、お二人がここに来るのが『見えた』だけ。それでご挨拶をさせて頂こうかと」
「どうせ待ち伏せていたんだろ?」
喧嘩腰の萩原さんに、男はふふふと笑った。
「私は面白い未来の為に行動してますから、そういう意味では、この未来を待ってたと言えるかもしれませんね」
「ちっ、一々めんどくせぇ言い方する奴」
「それにしても、ただお会いしただけではつまらない。ここはぜひ、君の喫茶店で淹れたてのコーヒーを頂きましょうか。ええと」
男は腕時計で時間を確認する。細めの革ベルトは少し擦り切れていた。
「約五分後、店長がお見えになられるはずですから」
店長は裏口からしか出入りしない。つまりはこの男、喫茶店の裏口に触れて「見た」のか。じゃあやはり、僕達との出会いは偶然なんかじゃない。それにしても、どうやって店を調べたのだろう。
「お前に出してやるコーヒーなんかない」
僕の言葉を代弁するように、萩原さんは吐き捨てる。
「もちろん、
そういう問題でない事くらい、この男もわかっているだろう。わかっていて、わざと言っているに違いない。こちらを翻弄する男の空気に飲まれてはいけないと、僕は更に口を開く。
「そう言えば、名乗ってませんでしたね。僕は……」
言いかけた僕の言葉を遮るように、男は手をかざした。
「名前なんて無意味でしょう。時を超えて『見る』能力のみで、僕らは分かり合えている」
どうやら、こちらに名前を教えるつもりはないらしい。そのくせ、僕の事を見透かしていると言わんばかりの満面の笑み。なんだか腹が立つ。
少しだけ。
男の見ているものに興味が湧いた。
一度着替えに帰るつもりだったけれど、気が変わった。予備の服はあらかじめロッカーに入れてあるし、制服も綺麗にしてあるから仕事に支障はない。
愛想笑いを浮かべる事さえ忘れ、僕は神妙に頷いた。
「コーヒー、飲みに来てもらって構いませんよ。僕は」
「お前、やめとけよ。こんな……」
猫をやんわり押しつけ、僕は萩原さんの言葉を遮る。服についた毛はふわりと秋風にさらわれた。
「萩原さんは、この猫を飼い主さんへ届けてからにしてください。うち、アシスタントドッグ以外の動物の入店はお断りしてるんで」
一瞬ぽかんと僕を見て、萩原さんはわなわなと肩を震わせた。この裏切り者、とでも言いたげだが、僕は何も裏切ってなどいない。
「ふん、今日は頼まれたって行くもんか。家に帰ったらお清め塩をまいてやる」
「葬式ですか?」
作り物くさい薄笑いのまま、男は心底楽しげに言った。
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