小鳥2

 ロステムはよくリテリアに本を読み聞かせてくれた。手を引いて一緒に宮殿を歩いてくれることもあった。七つも年上、男の彼が幼いリテリアの遊びにつきあう光景は、いささか滑稽に見えていたかもしれない。

 リテリアは度々、ロステムの都合を考えて恐縮の態度を示したが、兄は言葉巧みに妹を説き伏せては、強引にでも一緒にいることを選んだ。


 長男かつ王太子である彼の自由時間は、姉妹達ほど長くない。リテリアから見たロステムは、母と同じようにいつも忙しそうだった。

 ただ、母が表の場にリテリアを連れて行きたがらないのと反対に、ロステムはあらゆる場で可能な限りリテリアを伴いたがった。


 リテリアは長男のそうした行動を、彼の義務感や信念から来るものであろうと推測していた。ロステムはおおむね非の打ち所のない王子で、人間関係もそつなく、誰に対しても平等に優しく、それこそ次期国王、万民のお手本のような人だった。王女たるリテリアの孤立を、良いものと感じていないのは確かだろう。

 あるいは、純粋に母に置き去りにされたリテリアの事を哀れんでくれているのかもしれない。

 幼い彼女はそんな風に、当時の彼を理解していた。


 リテリアは聞き分けの良い子だったので、ロステムが何か、たとえば勉強をしている横で、大人しくちょこんと座って本を読んでいる。

 けれど母が帰ってくると、手にしていた物もそこそこに、歓声を上げて彼女に駆け寄った。やはり兄より、母を慕う心の方が強かったので。


「仔猫ちゃん、元気にしていた?」

「おかあさま!」


 母もリテリアには会いたくてたまらなかったとでも言うように相好を崩したが、娘が不在中に誰と一緒だったか知ると、大抵目に見えて不機嫌になった。


 リテリアが母の腕の中で頬ずりしている間、ロステムの金目は静かに置き去られた遊び道具や本へ、そして母へと向かって動く。一方、バスティトー二世の金目と銀目は、じっとひたすらロステムをにらみつけている。


「ごきげんよう、母上」

「息災か、ロステム」

「ええ、おかげさまで。特に不自由なく過ごさせていただいております」

「そうか。今は何を?」

「勉強を。問題ありませんよ、何も」


 リテリアは母と兄が言葉を交わし始めると、自然と緊張を覚えた。

 二人の言葉は王族、大人同士の分別とやらを考慮しても随分と他人行儀だった。リテリアがまだこんなに幼かった頃から。


「……リテリアが世話になったようだな」


 次女をしっかり抱え上げながら母が固い声で言うと、長男は微笑んだ。笑ったと言うよりは、皮肉っぽく口をゆがめた、という表現の方が適切かもしれない。


「どうぞ、気に入らないなら好きになされば良い。あなたがこの世の頂点だ。あなたのなさることはすべて正しい。僕を下したいのなら、ララティヤと同じように気絶するまで打ってみては?」


 棘のある言葉にリテリアは息を呑む。ただ挨拶を交わしていただけのはずなのに、なぜ二人ともこんなに怖い顔をしているのか? 母に抱かれながらおろおろと二人を見比べるしかない。

 バスティトー二世がうなるように牙を剥いた。


「そうですとも。バスティトー二世がなすことは正しいのです」

「ですが、ロステムも王太子でございます、母上」

「王太子だ、王ではない。お前はまだ幼名のみの存在、幼く無力な男です。……それとも何か?」


 二人は自分たちのことを、まるで他人事のように話す。

 幼いリテリアはぐずりかけ、鼻をすすった。するとそれを聞きつけた母ははっと耳を立て、あやすようにリテリアを揺らす。


「おお、リティ、仔猫ちゃん、心配することなんて何もありませんよ。……ロス。お前もまだまだ子どもですね。次はもっと上手におやりなさい」


 再びロステムに向いた彼女は、相変わらず冷たい調子ではあったものの、先ほどより大分険のゆるんだ調子で話しかけた。


「戻ります。未熟な王太子は、引き続き勉学に励むよう」


 バスティトー二世はそれ以上興味をなくしたようで、長男に一言素っ気なく言葉をかけると、くるりときびすを返した。


「打つぐらいでその曲がった性根が治るなら、それこそとっくにやっている」


 いたく不穏なつぶやきを小さく残して。



「おにいさま……」


 抱え上げられたままのリテリアが、一人置いていかれて俯いていたロステムの事を気にかけようとすると、甘い調子を帯びつつも、低く鋭く母は呼びかけた。


「仔猫ちゃん、ロステムはおよし。あれは駄目です。最悪と言っていい男ですよ。もうちょっとまともな奴にしておきなさい」


 リテリアは母の言葉の意味するところはわからなかったが、彼女と兄が不仲であることは知っていた。母の柔らかい身体に身を寄せて、そっと尋ねる。


「おかあさま、どうしてそんなにおにいさまをおきらいなの?」

「わからないか? 説明するまでもないではないか」


 母はぴしゃんと言い放つが、少し間を置いてから立ち止まり、気を取り直すようにやや優しく言い直した。


「仔猫ちゃん。わからないのなら、そのままでもいい。けれどお母様がお前を思ってこう言っているということだけは、きちんと理解しておきなさい。ロステムに近づきすぎてはいけない。あれはまあ、勉強は人並み以上にできるかもしれませんが、どうも情緒が不安定ですし、性格が悪いですし、性根も曲がってますし、何より間が悪い。もっと見た目や経歴が地味でも、いざというときちゃんと選ぶことのできる男を、お前も選びなさい」


 そう言い聞かされてしまっては大人しくうなずくしかない。


 しかし、バスティトー二世は我が子をたしなめはしたものの、積極的に自分で対策を講じるまでには至らなかった。結局、母親が姿を消している時間、構ってくれる相手は変わらずロステムだけという状況が続く。


 リテリアは対立する二者の間で軽く板挟みになっていたが、優先順位は確実で、母がいれば母に従い、いなくなればロステムに従った。そしてロステムとは、母の言葉を守ってちょっとした距離を取り続けた。それでしばらくは、緊張がありつつも均衡は保たれていた。



 あんなに立派な兄なのに、才能あふれる母には物足りなく感じられているのかもしれない。

 リテリアはそう自分を無理矢理納得させる。


 実際、バスティトー二世にはリテリアには想像できなかったロステムの問題がはっきりと見えていたのだろう。

 けれど、彼女は結局長男を終始捨て置いた。興味がなかったのか、余力がなかったのか、あるいはさらに別の考えがあったのかまではわからない。


 結果として、ロステムは満たされない青春期を過ごす。その膨れあがった飢餓感は、後に彼を凶行に走らせることになる。



 母親の不在の間、兄と一緒にいるしかほとんど選択肢のなかったリテリアは、自然と人形遊びから読書、そして勉強へと暇つぶしを変えていくようになった。


 単純な話、同じ事をしていた方が場になじみやすい。

 それにリテリア本人が知的好奇心が強く、勉強をさほど嫌わない性質だったせいもある。

 ロステムは自分が読み終わった本をリテリアが望むと、貸すどころか快く譲った。


 バスティトー二世の子ども達のうち、長女ララティヤは政治に興味を示さず、もっぱら何が自分を美しくするか、どうすれば快適に過ごせるか、どういった殿方が素晴らしいか、何が自分の退屈を潰してくれるか――そんな、いかにも貴族の女性らしい悩み事に忙しかった。

 自我の薄いルルセラもまた、ララティヤに従う。

 そんな長女と三女は、長男とあまり気が合わない。興味の対象がずれていたため、どちらかが話を振っても会話が盛り上がらないのである。互いに対する関心もそれほど強くなかったようだった。


 それに比べて、リテリアは幼い頃から兄の話を熱心に聞いたしし、リテリアの知識が増えればますます共通の話題も増す。



「リティ、今日は何の本を読んでいるの」


 ロステムに話しかけられるとリテリアは自然と姿勢を正した。兄の少々俗世離れした雰囲気には、何年経っても慣れそうにない。


「お兄様、地図を見ていたの。私たちの国はここ、私たちの住んでいる場所はここなのですね?」

「そう。ここが国の首都。ここからここまでが国境……」


 彼女はどちらかと言えば控えめなぐらいだったが、ララティヤほど喋りすぎないだけで、ルルセラよりは話す。つまりきっかけさえ与えてやれば、きちんと会話することができる。

 ロステムは少しの間リテリアが話す事に耳を傾けていたが、ぽつりと言葉を返す。


「リテリアは……この国の外にも興味があるの? よく、そういう本を読んでいるね。外国語の勉強も始めていたし」

「だって私、宮殿の外どころか、外宮にも行ったことがないんですもの」

「……そう。知りたい?」

「それは……でも、お母様がお許しにならないわ。お兄様がうらやましい」


 バスティトー二世は秘蔵っ子を離したがらず、内宮、つまり王族の住まう場から政を行う場所へすら娘を出したがらなかった。まして宮殿の外、さらに外国なんてとうてい無理だろう、とリテリアにもわかってはいる。


 それでも見たことも聞いたこともない世界の知識を得るのは楽しいし、機会があるのなら実際に経験してみたいと思う。ロステムは外の世界にもちらほら足を運んでいるようだったから、リテリアは素直な憧れを口にした。


 けれど兄の反応は芳しくない。妹の無邪気な態度に、伏せられた金の瞳はどこか暗い影を落とす。


「それは、どうなのかな」

「……お兄様?」

「外の世界は楽しいことばかりではないよ。あまり見せたくはないな。リティは今のままでいいんだよ。今のままで可愛いよ」


(外の世界は怖いことだらけですよ、仔猫ちゃん。お前なんかあっという間に食い散らかされてしまうわ)


 バスティトー二世はリテリアにそう言った。母と似た兄も、ほとんど同じ言葉を繰り返す。


 彼女はしょんぼりと肩を落とした。これではますます自分の望みは叶えられないに違いない。すると、彼女のあからさまにがっかりした様子に気がついたらしいロステムが、幾分か優しく言い直そうとする。


「でも、代わりに僕がいくらでも話を聞かせてあげる。お前が満足するように、いろんな事をしてあげる。……だからお前は、ここにいればいいと思うよ。ずっと……ずうっと」


 一見いつもと変わらない様子だったが、なだめているにしては雰囲気が穏やかではないようにリテリアには感じられた。

 彼女はにっこりと微笑んで返す。


「ありがとう、お兄様。嬉しい」


 それ以外、自分にできることはないと知っていた。



 ロステムに友人や師のような存在がなかったわけではないが、彼らは同時に大抵臣下であり、客人であり、時として現在、将来の政敵ですらあった。

 バスティトー二世の長男は慎重な男で、敵を作りたがらない。表面上は親しくしているが、本当に腹の内を明かせる相手などいない。母親ですら味方と言えるのか怪しい関係だ。


 そんな中で、リテリアは兄に敵対する理由がなく、周囲から距離を置かれている身なので、万が一その気を起こしたところで伝手がない。

 つまり自分は安全圏、気を抜いて喋る相手として最適なのだろう。だからリテリアがどこか遠くに行ってしまうと言ったなら、寂しさを覚えるに違いない。


 リテリアはそんな風に、兄のことを心得ていた。

 彼女は母以外に自分を必要としてくれる存在をありがたいとも思っていたが、時折感じる妙な気配や母の言いつけがあっては、兄が望むすべてを叶えてやれない予感もあった。



 人形遊びから一段進化すると、最初は大人しく読書を嗜むことが多かったリテリアだが、そのうち他の芸事も習うようになった。


 きっかけは例によって母である。バスティトー二世は自分が帰ってきたときに娘が分厚い本を抱えているのを見ると、すっと目を細めた。


「仔猫ちゃん、お前、そんな本を読んでいるの」

「……だめ?」


 指摘されたリテリアがとたんに身を縮めてびくびく聞くと、バスティトー二世は少し思案するような顔立ちになり、最終的には明るく微笑んだ。


「いいえ? けれどそれだけが好きだと言うのなら、感心しませんね。もうちょっと興味関心を、できることを広げましょう。誰か教師を……いえ、わたくしが教えた方が手っ取り早いかしらね」

「お母様が私に教えてくださるのですか?」


 母が自分と一緒にいてくれる時間を増やしてくれると言うので、リテリアは喜んだ。彼女の顔に浮かぶ喜色を見て、バスティトー二世も満足そうに喉を鳴らし、甘やかな声でささやく。


「仔猫ちゃん、賢いのは良いことだけど、お前は人間の女の子です。知識を、知性を自慢するならお母様になさい。成果を見せるならお母様になさい。他人にお前の素晴らしすぎるところを悟らせては、後々面倒です。お前はね、バスティトー二世に溺愛されているけど、本人は大したことがなく、何もできないかわいこちゃん。そのぐらいに思われていてちょうどいいのですよ。女の爪は隠れて研ぐものですから」


 母はまたリテリアにはわからないことを言った。

 リテリアは曖昧な微笑みを浮かべて流し、母に従った。それが自分に望まれていることだと知っていたから。



 母から教わった楽器の演奏や手すさびの刺繍などは、暇つぶしに大いに役立つ。兄がさらに忙しくなって会えなくなっても、姉と妹に無視をされても、母がどこかにいなくなってしまっても、リテリアには何かしらやることがあった。

 彼女は静かに、一人の時間を埋めることに没頭した。


 けれどその時々は抑えられる不安でも、積み重なれば大きくなり、やがては我慢を越えてあふれ出す。



 リテリアが十歳の時、ついにその事件は起きた。

 幼い彼女の、けして取り返しのつかない過ちだった。

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