鳥編
小鳥1
アレサンドロ王国は亜人の国であった。
マリウス朝は、始祖が獅子の獣人であったため、その血を引く王族は皆猫の因子を体内に宿していた。
第十二代国王の両親について語ることを欲するのなら、まず祖母である第十代国王の話を始める必要がある。
バスティトー二世は傑物だった。誰もが口を揃えて言う。異端者でありながら純粋な王だった。
彼女は若くして権力争いに勝利し玉座に座ると、瞬く間に周囲の国々を占領し屈服せしめ、王国にかつてない繁栄をもたらした。
我が猫神が望むなら、水は酒に変わり、血肉はパンとなり、死人すら墓下から蘇る。
民はそう称えて、同時に彼女を恐れた。
何しろバスティトー二世は猫神の名を体現するかのように、気まぐれで残虐、苛烈にして慈悲の心を持たないとさえ言われた。
それは生きたまま皮を剥がれた先代女王や、逆らって平原に串刺しに並べられた者どもや、血で洗われ火で炙られ塩で清められて更地にされたかつての王国の民達が、身を以て証明していた。
女王は生涯結婚はしなかったが、「神」との間に四人の子を作った。「神」は女王の建てた神殿の奥深くにかくまわれ、女王のみがその姿を見て恩恵を得ることができたとされている。
子ども達の幼名は生まれた順に、ロステム、ララティヤ、リテリア、ルルセラ。
ロステムだけが男、他は皆姉妹だった。
また、リテリアだけが人間で、他は皆獣の子だった。
獣人は人間との間に子を作れるが、まれに子の種族が人間となる事もある。
女王は神託を授かると称して宮殿の奥に引きこもると、腹を大きくして出てくる。
三人目に生まれてきたのは人間の子。
世間の目をはばかるように厳重な警備の奥深く閉じ込められていた「神」の正体は、当時から察するにたやすかったことだろう。
けれど当時女王を恐れていた賢明な者達は誰もその可能性を口にしなかったし、愚かな皆片端から首を切られて城門に朽ちるまで晒された。
何も問題はなかった。
それで世は回っていたのだから。
気まぐれなバスティトー二世は、我が子に対する教育に関してもおおむね無関心で放任主義を示した。
特に長男ロステムのことは気に入らなかったらしく、跡継ぎにも関わらず、長じるにつれて放置どころか積極的に自分から遠ざけようとするほどだった。
けれどその真逆に、三人目の子リテリアは、まるで溺愛するかのごとく可愛がった。
たった一人、耳も尻尾も怪力も持たぬ脆弱な人間だった我が子に不憫を覚えたのかもしれない。
が、本当の理由は、彼女が他の兄妹と違って黒い髪に黒い目を有し、母親ではない人の面影を色濃く宿していたためではないかと考えられる。
「可愛い可愛い仔猫ちゃん。さあ、お母様におねだりをしてごらん。ほしいものはなんでもあげましょう」
幼い頃からリテリアは母にそう言われて育ち、実際バスティトー二世は次女をこれでもかというほど贔屓した。
たとえばリテリアが五歳の時のこと。
姉であるララティヤの人形にリテリアが少し興味を示すと、めざとく見つけたバスティトー二世はあっという間に長女から取り上げてしまい、しかりつける。
「ララティヤ、それはリテリアのもの。お前は別の遊びをしなさい」
バスティトー二世の長女ララティヤははっきりと自分の考えを言う性格だったので、幼さの無謀を発揮して恐ろしい母にも果敢に立ち向かった。
「どうしてお母様、リティばっかり!」
「お前も嫌いではないけれど、仔猫ちゃんのかわいさには勝らないもの。それにお前達は何もかも違う。だからこれは当然のことなのですよ」
バスティトー二世は子ども達に嘘をつかなかった。ゆえにより一層言葉は残酷に響いた。
リテリアはそこで母の愛に甘え、増長するような娘ではなかった。
彼女はさほど口数の多い方ではなかったが、こういうことがあると困ったように眉を下げて愛らしい微笑みを浮かべ、母に向かっておずおずと言った。
「おかあさま、いいの。リティはすこし、いいなっておもっただけだもの。おにんぎょうはおねえさまのものです。リティがべつのあそびをするから、おにんぎょうをおねえさまにかえしてあげて……」
けれど彼女のそういった謙虚で思いやりのある態度は、ますます姉の立場をなくし、怒らせた。
「わたくし、あんたのそういうところ、大っきらい! いいわ、とっていきなさいよ、このどろぼう猫!」
ララティヤが吐き捨てるように言うと、バスティトー二世は鞭を持ってきて酷く長女を打った。
母は長女に謝罪を求めたが、強情な長女は少しぐらいの痛みには屈しない。
するとバスティトー二世は長女を踏みつけて、腫れ上がるまで何度も何度も同じ場所を繰り返し傷つけた。大層手慣れた手つきで、鮮やかに、残酷に。
「おかあさま、おかあさま、やめて! おねえさまがしんじゃう!」
「仔猫ちゃん、勘違いしてはいけませんよ。お前とこれでは何もかもが違うのです。お前は黙ってわたくしに愛でられてらっしゃい。大丈夫、殺しはしません。自分の立場をわからせているだけよ」
ララティヤに折檻をしている間も、バスティトー二世が次女に向ける微笑みは聖母のごとき慈愛にあふれていた。
「謝らないわ、わたくし絶対に謝らない、何も悪いことはしてないもの――い、ぐううっ!」
「ララティヤ、わきまえておっしゃい。誰のおかげで生きていられると思っている」
「あんたなんか、あんたなんか、大きらいよ……!」
「何もわかっていない馬鹿な子だこと」
ララティヤは結局、気絶するまで自らを曲げようとしなかった。
がくりと長女の頭が床に落ちると、バスティトー二世は途端に関心を失い、泣きじゃくる次女を優しく抱き上げ、人形を抱かせてやって歩き出す。
「おかあさま、リティはそんなこと、のぞんでいません。どうしてどうして、おにいさまとおねえさまは、わたくしとおなじにしてくださらないの?」
「仔猫ちゃん、大人になったらわかります。お前は彼らの主にならなければいけない。覚えておきなさい、獣と人には上か下かしかない。支配者になるしかないのです。奴隷になりたくないのならば」
バスティトー二世は子ども達に嘘をつかなかったし、彼女を恐れられながらも熱狂的にあがめられる女王とした独特の哲学の伝授も惜しまなかった。
けれど彼女が幼子に大層不親切な人物で、なおかつ偏向教育が過ぎていたことは、このような例を見ていれば容易に理解できる。
バスティトー二世はリテリアをとびきり甘やかしていたが、ララティヤとのやりとりでもわかるように、次女の言うことならなんでも聞いたわけではない。
女王は自分がこうと決めたらけして曲げることはなかった。また幼い頃からリテリアに何度も言い聞かせてきた。
「可愛い可愛い仔猫ちゃん。ほかの事ならなんでも聞いてあげる。でもね、宮殿の奥、神様の間だけには何があっても行っては駄目よ。たとえお前でも、それだけは許すことができないの」
金と銀の瞳をきらめかせながら、美しい母親はそう言って定期的に宮殿奥へと姿を消した。
「おかあさまはそこに、なにをしにいくの?」
「神様に会いに行くのよ」
「かみさまってどんなひと?」
「それは秘密よ」
「どうして、それだけはだめだとおっしゃるの?」
「仔猫ちゃん、詮索はおよし? お母様はそれだけは駄目ですと言っているでしょう。わかるわね?」
バスティトー二世は穏やかに、けれどけして反論を許さない調子で繰り返す。
リテリアは不満をありありと顔に出しながら、大人しくうなずいて引き下がらざるを得なかった。
彼女には母親だけだったのだから。母がそのように仕向けたのだから。
「心配しなくても数日で戻るわ。わたくしは女王だし、母親なんですもの」
実につまらなそうに吐き捨ててから、女王は姿を消す。
リテリアはぐっと唇を噛みしめ、拳を握りしめて母を見送った。
「いってらっしゃい、おかあさま……」
賢い彼女は行かないで、とは一度も言わなかった。
「ごらん、人の子が歩いている」
「シッ、目を合わせるな。女王に何をされるかわかったもんじゃない」
「大丈夫さ、何もしなければ言いつけないよ、あの王女様は」
「大変良い子でいらっしゃるからな、第二王女様は。第一王女さまと違って手のかからない……」
「おい、やめろ。どこで女王の耳に入るかわからない」
「ああ嫌だ、こっちを見てる。はやく向こうに行っちまえよ、面倒くさいなあ……」
バスティトー二世が「籠もって」しまっているときのリテリアの孤独と言ったらなかった。
何せ亜人は本能的に、身体能力の劣る人間を見下す。
けれどバスティトー二世が不在であるからと言って、ここぞとばかりにリテリアをいじめるほどの愚か者はいない。
宮殿を歩けばリテリアの周囲だけ人気がなくなる。
母のいない時の彼女は周囲から腫れ物のような扱いを受けていた。
簡単な事だ。下手に手を出してバスティトー二世の怒りを買うのが怖い。ならば関わらなければ良い。
リテリアは誰よりも安全を保証されていたが、常に一人だった。誰もが積極的に彼女を無視したから。
そしてそれは、血を分けた彼女の家族とて例外ではなかった。
「ララティヤお姉様――」
妹のルルセラをあやしている姉を発見し、嬉しそうにリテリアが駆け寄ろうとする。
怒る母がいなければ、彼女は姉とも仲良くできると思っていた。
彼女自身は、母に似て美しい姉とも、自分のすぐあとに生まれた愛らしい妹とも、本当はずっと一緒に遊びたかったのだから。
けれどリテリアが近づいてこようとするのを察すると、猫科の耳をぱたりと伏せ、幼い妹を抱き寄せながらララティヤは唸った。
「近寄らないでよ、疫病神! あんたといると、わたくし達がお母様に殺されるじゃない!」
長女は次女に向かって全身の毛を逆立て、拒絶の意思を示していた。
姉から向けられた敵意に、リテリアは雷に打たれたように硬直する。
無邪気に輝いていた大きな黒い瞳は揺れ、やがてじわりとにじんで視界が歪む。
けれど泣き出しそうになる次女を前にしたララティヤの反応はますます冷たく、まだ物心もついていない三女の手を強く引っ張って立たせる。
「行きましょ、ルル。可愛い妹」
「らら? りーりー……」
「だめ! あの子はわたくしたちとは違う子なの、見てわかるでしょ? 構っては絶対にだめ!」
「うー……」
ルルセラはこの頃から、大人しく、ぼんやりしていて感情の起伏に乏しく、姉の言いなりの傾向があった。
ララティヤに引っ張って行かれると、リテリアの方に興味を示しつつも結局引きずられるままになる。
一人取り残されたリテリアは、はらはらと大粒の涙をこぼしながらうずくまった。
「どうしてみんないってしまうの? わたしがわるいの?」
そんな彼女を慰める相手はいない――。
否。
ただ一人だけ、女王の怒りを少しも恐れずに、私事で第二王女に構い続ける人物がいた。
「リティ」
呼びかける少年の声に、リテリアは肩を跳ねさせた。
目を腫らしたまま振り返れば、足音もなくいつの間にかやってきていたらしい、長兄ロステムがそこに立っている。
黒い耳、少し癖のある黒い髪、褐色の肌。闇に溶けるような姿に、ぽつんぽつんと二つ浮かぶは金の瞳。
リテリアより七歳年上の兄は、物静かで知的、そしてどこか神秘的な雰囲気をまとう少年だった。王太子らしい気品に溢れていたが、同時にどこか底知れなかった。
「母上は神殿? またララティヤにいじめられたの?」
優しく尋ねる兄から、リテリアはごしごし手で擦って顔を背ける。
「おにいさまも、わたしになんか、かまわないほうがいいわ……」
「どうして?」
「ララねえさまもいってたわ。わたしにべつのひとがかまうと、おかあさまがおこるもの」
鼻を鳴らす妹に、長兄は伸ばしかけていた手を一度止め、すっと金の瞳を細めた。
「リテリアは、僕と一緒にいるのは嫌?」
「……いやじゃない、でも――」
「じゃあ、でもはいらない。母上なら大丈夫だよ。理由もなく跡継ぎを殺すほど馬鹿じゃないさ。そろそろ政治にもほとほと飽きてきてるだろうし」
リテリアはぐずるのをやめたが、怯えるように肩をすくめた。
兄のどこか浮き世離れした雰囲気は、兄妹の中で最も母によく似ていた。時々リテリアにはわからない、難しくて冷たい言葉を喋るのも。
それは彼女に、親しみと共に無意識の恐怖を与える。
「おいで、リティ。本を読んであげよう。大丈夫、怒られるのは君じゃない、僕だけだ」
「……おにいさまはそれでいいの?」
「どうして? 難しく考えることはないんだよ。僕は君といたい。君は一人だと寂しい。何も問題はないだろう」
ロステムはリテリアに向かってかがみこみ、そっと頬に手を伸ばして涙をぬぐった。
「何も問題はないんだよ、リティ。可愛い仔猫ちゃん」
暗闇の中に、兄の金の瞳が浮いている。
甘やかで優しい言葉なのに、なぜ素直にうなずき、喜んで手を取ることがはばかられるのか、幼いリテリアには漠然とした違和感があるのみで、はっきりと言葉にはできなかった。
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