4-9 複雑な事情

 諒が少し考え込むように黙ったことで会話が途切れたその一瞬、その場を覆い尽くすように流れた沈黙の空気を打ち破るように慎一は話を進めた。


「才能も何も僕にはピアノしか取り柄がないからさ。だけど、諒は音楽だけでなく、医学も学んでいるんだろ?…やっぱり諒は偉いと僕は思う。真智子もそう思うだろ?」


「慎一が言うように確かに諒さんは偉いけど、私も慎一の才能は素晴らしいと思う。それに私は慎一と出会わなかったら、今頃はどうしていたかわからないし……。それに諒さんは医学部に合格する前にドイツの音大へ留学しているんですよね?医学部に合格することもドイツの音大へ留学することも実力が伴わないと実現できないことだと思います」


「いろいろあったし、偉いとかそういうことじゃないんだ。そんなことよりそのうち慎一との連弾で演奏会を実現したいと思っているから。そのためにもこれからも仲良くできたらって思ってるんだけど、どうかな?」


「もちろん、仲良くできたらって僕も思っているよ。ただ、諒は医学部の学生なんだろ?しかも筑波大はここから離れているし……、勉強が忙しくなったらなかなか会えなくなるよね」

「そう、そのことでずっと悩んでるんだよ。今はまだ3年生だからいいけど、4年生からは臨床が始まるから、家からも通えなくなると思うし。だから、今のうちに仲良くなっておきたいんだ。それで、夏休み中に家に遊びに来ない?母と…それから5歳になる娘の萌香モカに是非会って欲しいんだ」


「えっ、5歳になる娘さん?諒って娘さんがいるの!?」

「そうなんだ。昨日はまだ話せなかったけど。ビックリさせてごめん」

「それで、その娘さんのお母さんにあたる女性ひと……つまり奥さんは?」

「実は母と折り合いが悪くて娘を置いて出て行ってしまったんだ。だから、今はどうしているかわからない」

そこまで話すと諒は黙り、俯いた。


「そんなことって…」

慎一も考え込むように黙った。


「…えっと、もしかすると酷い母親だって思った?娘の萌香の母親は留学していた頃、留学先のドイツで出会った女性ひとでドイツ人で日本に帰国した時に一緒に日本へ来訪したんだけど、日本での慣れない暮らしに耐え切れなかったんだ。それは仕方ないことだし、私は彼女が大変だった頃、医学部の受験勉強に必死で、彼女のことも赤ん坊だった娘のこともあまり気にかけてあげれなかったし、不甲斐ない話さ。彼女も日本に来て不慣れな地で気心の知れた友人や相談相手もいなかったことが原因で育児ノイローゼになってしまったから、話し合った上で離婚して故郷のドイツに帰したんだけど、それからは音沙汰ないからね。私のことも娘のことも、もう忘れてしまったかもしれない」


—いろいろあったって、そういうことか……。そういえば、モカって寝言で言ってたけど、娘さんのことだったのね—。

慎一と諒の話を黙って聞きながら、心の中で真智子は思った。


「…それは大変だったね」

慎一はポツリと呟いた後、続けた。

「だけど、そんな状況でなぜ医学部に進学しようとしたんだ?」


「それは留学する前からの母との約束でもあったから。母も母なりに苦労していてね。母自身も留学先のドイツで妊娠して帰国後、私を産んだんだけど、父のいるドイツで暮らす気はなかったし、私を手離したくなかったから、妊娠していたことを父には告げずに私生児として私を育てたんだ。まあ、祖父母が協力してくれたからできたことだとは思うけどね」


「諒のお父さんはドイツ人だったんだね」


「そう。私も母も留学先のドイツで恋に落ちるなんて因果は巡るっていうのはまさにこういうことだと思うけど、母は私が中学生になる頃にやっと父について教えてくれたんだ。それで、高校卒業後の進路先を決める際、父に会うためにドイツのデュッセルドルフにあるロベルトシューマン音楽大学に留学することに決めたんだ。父がそこに勤めているのを母から聞いて、母にお願いしてね。もちろん、試験も受けたけど。それで、帰国後は医学部受験をするって約束で留学させてもらったんだ。だけど、帰国する頃には恋人のモニカが妊娠したことがわかったから一緒に帰国して、母に許してもらって正式に結婚して、母との約束通り医学部受験に望んだんだ」


「確かにいろいろと大変だったとは思うけど、なぜ、諒のお母さんは諒に医学部受験を約束させたの?ドイツの音大に留学して、諒ほどピアノが弾ければ帰国後は音楽の道に進むことだってできたはずだと思うけど」


「それは単に祖父が医者だから…かな?私は幼い頃から祖父母には世話になっているし、そのことには異論はないし、念願の留学もさせてもらったから、恩返しに今、頑張ってるってわけ。なんだか長話になったけどいろいろあったっていうのはそういうことさ」


そう言って笑った諒の表情は話し始める前より心なしか穏やかになったように真智子の目には映った。

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