4章 演奏会の余波
4-1 ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番Op.18』
—休憩に入ると慎一は控室へと向かった—。
真智子も控室まで慎一に黙って付き添った。
ラフマニノフが精神的苦悩の中で作曲したという『ピアノ協奏曲第2番Op.18』はラフマニノフの精神的苦難と挫折から立ち直るきっかけとなった作品でもあり、持病で倒れた経緯もある慎一にとっても帰国後の療養生活を経て大学に戻り、真智子と一緒に暮らし始め練習に励んできた日々とも重なり、なんとしても成功させたい思いで
一杯の慎一は意を決したようにきりっと口元を引き締め控室までの通路を無言で歩いていた。真智子は音楽室やマンションの部屋での慎一の演奏は聴き慣れていたが、こうして、演奏会の舞台直前の慎一と一緒にいること自体が初めてであることにどこか不思議な戸惑いを覚えていた。
「…ここまでついてきてくれてありがとう。真智子は客席に戻ってね」
楽屋の控室のドアの前で慎一は言った。
「もちろん…。いつもの調子で実力を発揮してね」
「ありがとう。いつものように真智子のことを思って……、それからいつも見守ってくれている母のことを思って弾くよ」
控室の扉を開くと次の奏者の島根律子が立ち上がり、慎一と真智子に向かって微笑みかけた。
「トリの真部慎一さんね。今日はご一緒できて嬉しいです」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「…私、これから舞台袖の方に行くところですけど、真部さんはどうされます?」
「あ、僕はもう少ししてから行きます」
「じゃあ、お先に失礼します…」
シルバーの総レースのドレスを身に纏った島根律子は軽く会釈をすると緊張した面持ちで舞台袖の方に向かっていった。その後姿を見つめながら、慎一は真智子に向かって言った。
「真智子ももう、客席に戻っていいよ」
真智子は慎一の両手をそっと両手で包み込むと言った。
「…慎一のことずっと見てるからね」
「じゃあ、いつものように期待して」
慎一は真智子の両手をさっと包み返した。
「じゃあ、客席に戻るね」
真智子は慎一に笑顔を向けると控室から出た。
客席に戻る途中で真智子の胸はどんどん高鳴り、少し胸苦しさを感じた。
—自分が演奏するわけでもないのに、私ったら、まったく……まるで、慎一と初めて会った時みたいだわ—。
不意に立ち止まりながら、真智子は慎一の奏でる演奏に惹かれて音楽室へと走った日のことを思い出していた。
客席に戻った真智子が絵梨の隣りに座ると、次々と演奏を聴いて幾分興奮気味の絵梨は待ってましたとばかりに言った。
「慎一さんの演奏、もうすぐだね。この前、慎一さんの演奏、聴きそびれちゃったから、とても楽しみ。なんたって、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』を弾くんだから、カッコイイよね」
「私も慎一君の演奏を聴くのは久しぶりだな」
絵梨に合わせるように幸人がしみじみとした表情で呟いた。
そうこうするうちに舞台の幕が上がり、5番目の曲目ショパン『ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11』とピアノ奏者の島根律子が紹介された。T管弦楽団の演奏の後の島根律子の独奏はショパンコンクールで入賞したことがあるだけあって、堂々たる華麗な演奏で聴衆の心を惹きつけた。
—そして、いよいよ慎一の出番だ。
6番目の曲目ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番Op.18』とピアノ奏者の真部慎一が紹介されると慎一が舞台中央のピアノに向かった。舞台の上の慎一は今までの奏者の誰よりも輝いて見える。舞台中央のピアノの前で挨拶をした慎一の目はまっすぐに真智子に向けられている—。
—慎一、頑張って—。
真智子が心の中で送った声援が届いたように慎一は頷くような仕草をしてピアノの前の席に座った。ロシア正教の鐘の音を表す和音がだんだんとクレシェンドに響き渡り、管弦楽団の重厚な演奏の波を導いていく冒頭の弾き始めは強靭なピアニズムに彩られるようにダイナミックに展開し、慎一の得意な華麗なテクニックが繰り広げられ管弦楽団のメランコリックな旋律とともに荘厳に盛り上がっていく—。慎一の迫真に迫る演奏と管弦楽団の交互に絡み合う絶妙な旋律に心打たれ、真智子の心は始終感動の渦で脈打つように高鳴った。歓喜のムードとともに弾ける超絶技巧も大成功裡でフィナーレを飾り、会場は拍手喝采に包まれた。
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