2-10 学食でのランチのひととき

 翌日の音楽理論の授業を一緒に受講した時には絵梨の様子は昨日のような悲壮感からは解放された穏やかな表情だったので、真智子は内心、ホッとした—。


「真智子、昨日はほんとうにありがとう。幸人さんとも楽しいドライブで吉祥寺駅まで送ってもらったよ」

「それなら、よかった。幸人さん、紳士だからね」

「きっと仕事柄、人の扱いに慣れているのね。それに大人だからかな?話していて安心できた…」

「そうね。絵梨は幸人さんのことが気に入ったみたいだね」

「気に入ったっていうか、長谷部先生に失恋したばかりだからね、一緒に話していて少し気が紛れたし……。それに、私、年上の人と話す方が気持ちが落ち着いてリラックスできるようなところがあるのよ。それからね、演奏会のこと楽しみにしてるって言われて、嬉しかったし、張り合いができたかな。…だからといって、長谷部先生のことは高一の時から四年以上も好きだったし、失恋から立ち直ったわけではないけど、めそめそしてても仕方がないから…」

「絵梨の気持ちが少しは晴れたのならよかった。昨日の帰り道ではずっと黙りこくっていたからホントに心配だったんだから…」

真智子はいつもの調子に戻った絵梨が嬉しそうに話している様子をしみじみと見つめたその時—。


「…そうそう、そういえば幸人さんが真智子さんは慎一君のお母さんの面影があるって言ってたけど…」

「そうなの。慎一と初めて会った時にも亡くなったお母さまのことを伝えられたかな。マンションにあったグランドピアノはお母さんの形見だって昨日も言ってたけど、あのグランドピアノには慎一が子どもだった頃からのお母さまとの思い出が深く刻み付けられているのよ」

「とても大事なグランドピアノなのね」

「そう…だから、私、あのマンションで慎一と一緒に暮らし始めた頃はあのグランドピアノに触れるのが少し怖かったんだ」

「今も?」

「今は少し慣れてきたかな?そう、だけど、考えてみたら、慎一と暮らし始めてまだ二ヶ月しか経ってないんだよね。でももっと長く一緒に暮らしていたような気がする…」


「はあ…それって惚気のろけだよ。慎一さんと真智子、昨日もなんだか仲良さそうだったもんね。とにかく、慎一さんのこと、私にも紹介してくれてありがとう。私も昨日で少し真智子に近づけた気がしたよ。アンサンブルを組むようになって、私たちもまだたった二ヶ月しか経ってないなんて嘘みたいだね」

「ホントだね。二ヶ月前のこと振り返ると私もなんだかバタバタしていて大変だったし、今、こうしていられるのは絵梨のお陰もあると思ってるよ。これからも練習、頑張ろうね」

「そうだね、演奏会、成功させないとね」

「うん。その調子で今日は個人レッスンの後の管弦楽のメンバーとの合奏の練習にも励もうね。…そうか、幸人さんとはあの後、そんな話になったんだ」


「幸人さんも慎一さんがまだ幼い頃から一緒に暮らしていた時期があって、慎一さんのこと弟みたいだって言ってたわ。ハンガリーへ留学した後、体調を崩した時も心配されていたみたい。真智子が慎一君のことを親身に考えてくれるお嬢さんのようでよかったって言ってたわ」

「…そう、幸人さんがそんなことを。さっきも言ったけどあの頃はいろいろ大変だったのよ…だから今、こうしているのが不思議だなって時々思う…」


 そんな話題で盛り上がりながら、真智子と絵梨は学食でのランチを済ませた後、それぞれの練習室に向かった—。真智子も絵梨も卒業前の学内演奏会の自由曲のレパートリーを増やすことになっていた。その際、選曲は1曲以上で自由で、夏の演奏会が終わる頃までには選曲して曲目を決めなければいけなかったし、アンサンブルの練習にも集中して励まなければならない時期に差し掛かっていた。


 そして、その日を境に真智子と絵梨の心の距離はより一層深まり、アンサンブルの練習についてもより一層磨きがかかり、演奏会当日に向けて気持ちを一つにしていった—。

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