2-9 ふたりの時間と夜のドライブ

「今日はありがとう。絵梨、気が紛れたみたいでよかったわ」

慎一とふたりきりになると真智子は言った。

「絵梨さん、落ち込んでいるようには見えなかったけど—」

「慎一が来る前は落ち込んでいたんだけどね」

「でも、真智子とふたりの連弾は曲に入り込んでいて集中してたよね」

「あの時はやっとピアノを弾く気分になって、弾き始めたらいつもの調子が出ていたみたいだけどね…」

「食事の時はずっと楽しそうだったよ。叔父さんとも気が合ってたみたいだし」

「そうだよね。とにかく、楽しそうでよかった…」

—そんなことを話しながら、ふたりはマンションの部屋に入った。


「僕も突然のことで焦ったけど、久しぶりに叔父さんとも会えたし、真智子のアンサンブルのパートナーがどんな人か確認できてよかった。そうそう、演奏会には真智子のご家族の方も聴きに来るんだよね?」

「都合がついたら来てくれると思うよ。慎一の方こそお父さまにも演奏会のこと連絡しないとね」

「あ、えっと父は忙しいから…。でもいろいろと世話になってるし、きちんと連絡は入れるよ。真智子が卒業してからになるけど、結婚式に向けての準備もしないといけないからね」

「私も卒業後のことも少しずつ考えないといけないよね。ピアノ教室の講師のアルバイトとか探してみようかなって思ってるんだ。もちろん、みどり先生や就職課の先生にも相談してみようと思ってるけどね」

「……ごめん。僕は卒業は真智子より二年先だし、一緒に暮らしていると何かと面倒かけるかもしれないけど……」

「面倒なんてそんなこと、全然思ってないよ。慎一は悔いがないよう芸大での実績を作っていくことが先ずは先決だと思うし、私は慎一の側で音楽の勉強を続けていられれば幸せだよ」

「そう言ってくれると嬉しいよ。ありがとう」

慎一は真智子に近寄るとそっと額にキスをした。

「あっ、もう、食事も済んだし、今からお風呂入れるね」

「僕はCDを聴きながらイメージトレーニングをしてるね」

慎一と真智子はいつもの日常に戻って、ふたりの時間を寛いでいた—。


 一方、絵梨とふたりきりになった叔父の幸人はいささか緊張気味に車を走らせていた。降り頻る雨が濡らした車窓に映る夜の街は街灯や通り過ぎる車のスポットライトに照らされて光り輝いている—。

「えっと…家は吉祥寺駅から近いのかな?」

「はい」

「じゃあ、とにかく吉祥寺駅の方に向かうね」

絵梨は真智子から真部幸人が弁護士だと聞いていたし、食事の時にも弁護士バッチが襟に付いているのを確認していたので、警戒心はそれほど抱かなかったものの、さっき初対面で会ったばかりということが、内心、気になっていた。そんなふたりの沈黙を補うようにカーオーディオからはラジオのミュージック番組が流れていた—。


「今日はわざわざ送ってくださってありがとうございます」

「真智子さんの友人だし、慎一の手前もあるから、きちんと送ろうと思ってますが、どこまで送りましょうか?」

「えっと、とにかく吉祥寺駅まで行っちゃってください」

「はい、吉祥寺駅に向かっているので安心してください」

「…あの、ところで慎一さんと幸人さんって仲がいいんですね」

「ああ、私が高校卒業して大学に通うために上京するまで奈良で一緒に暮らしていたし、高三になった慎一君が奈良から東京に出て来てハンガリーに留学するまでの間も一緒に暮らしていたからね。私にとって慎一君は甥っ子というより弟みたいな存在ですね。まあ、慎一君にとっては小さい頃からずっと叔父さんなんだろうけど」


「慎一さんが弟みたいな存在なら、真智子は妹みたいな存在ですか?」

「いや、まだそこまでは……、今年の四月に慎一君から紹介されて知り合ったばかりだからね。体調を崩してハンガリーから急遽帰国して、奈良の病院に入院して退院したかと思ったら、高三の頃から付き合っていた彼女と同棲するって聞いてびっくりしたんだけど、真智子さんに会ってみたら、親切そうで親身になって慎一君のことを考えてくれるお嬢さんのようだったから、合点はいったけど、まさか、兄が許すとはね。…だけど、真智子さんって慎一君の亡くなったお母さんの由紀子さんの面影があるし、加えてピアノが弾ければ、慎一君がぞっこんになるのもなんとなくわかるような気はするけどね」


「四月っていうと、私がアンサンブルの練習を真智子とはじめたばかりの頃です…じゃあ、幸人さんも真智子とも知り合ってまだ二ヶ月ぐらいってことですよね」

「そうですね…」

「私は真智子さんのことは学内演奏会の時から素敵な人だなって思ってたんです。それで、アンサンブルを組めることになって、やっと話せるようになって…」

「…じゃあ、真智子さんと絵梨さんがアンサンブルを組むことにならなかったら、私と知り合うこともなかったってことですよね」

「その前に真智子と慎一さんが付き合ってなかったら…ということがありますよね。それに、真智子は今日は私のためにわざわざ時間を作ってくれたんです」


「そうだったんですね…ところで、そろそろ吉祥寺駅だけど」

「あっ、じゃあ、今日のところはここで降ろしてください」

「もう、九時近いし、まだ雨が降ってるけど、いいですか?」

「ええ、歩いて10分ぐらいのところですし、いつも帰りは吉祥寺駅から歩いて帰るので。今日は楽しかったです。ありがとうございました」


幸人は絵梨の言葉に従い吉祥寺駅の前の丁度空いてるところに車を停めると、絵梨の方を見て言った。

「気をつけて帰ってくださいね。何か私に相談したいことがある時は先程渡した名刺にある連絡先に連絡ください。仕事かプライベートかは状況次第ですが、相談に乗りますよ」

「はい、弁護士さんの知り合いができて嬉しいです。夜のドライブも楽しかったわ」

そう言うと絵梨はドアを開けて車から降りた。

「じゃあ、またそのうち。演奏会、楽しみにしてます」


車のドアを閉めると手を振った絵梨に軽く会釈し、幸人は車を徐に走らせた。






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