2-5 近づく距離
一方、真智子は傷心の絵梨と一緒にまっすぐ練馬のマンションに向かっていた—。
いつもとは打って変わって、仙川駅から新宿に出て大江戸線から練馬駅に着くまで絵梨はずっと黙っていた。その日はどんよりとした雲が空を覆い、まるで傷心の絵梨の気持ちを映し出しているように今にも雨が降り出しそうな雲行きだった。
—いつもお喋りな絵梨がずっと黙っている—。
真智子は心配でたまらなかったが、絵梨は失恋したと言っていたし、こんなに落ち込むほど失恋した相手の長谷部先生のことが好きだったんだなと改めて思った—。
絵梨の気が紛れるようなことが何かないかな—と心の中で思いつつ、こんな時は黙って側にいてあげることぐらいしか思いつかない。そういえば、慎一と連絡が取れなくなった頃も修司やまどかに相談に乗ってもらったな—と思いながら、ふっと昔の記憶がよぎった。
——慎一からの連絡があって急遽、奈良へ向かうことになり、その一方で絵梨とアンサンブルを組むことが決まった時、絵梨がわざわざ伝えてくれたアンサンブルの練習の予定を急遽キャンセルしたことがあったことを思い出したのだった。まだあの頃はお互いのことをよく知らなかった真智子と絵梨だったが、今はこんな風に自分を頼ってくれるだけ絵梨とも親しい間柄になったことを真智子は改めて実感していた。
練馬駅を出た真智子と絵梨がどんよりとした沈鬱な空気の中を歩いてマンションに向かう間、まだ雨は降っていなかった。
マンションに着きドアを開けて玄関に入ると、まるで真智子と絵梨を待ちかねていたようにグランドピアノが黒々と輝くような威光を放って視界に飛び込んできた。
「素敵なグランドピアノね……」
それまで黙っていた絵梨がポツリと呟くように言った。
「ええ、素敵でしょ。慎一のお母さまの形見のピアノなの。せっかくだから後でふたりで少し練習してみる?」
「真智子の彼のお母さん、亡くなられていらっしゃったのね…」
「うん…。それで、慎一ったら、初めて会った時に私がお母さんに似てるなんて言うのよ」
「そっか…そういうきっかけで親しくなったのね」
「もちろん、それだけがきっかけじゃないよ。私が音大を目指していたことも大きなきっかけだけどね。あっ、私のことばかり、ごめん。今日は絵梨の話を聞くために家に呼んだんだし、先ずはゆっくり絵梨の話を聞くよ。苦しいままじゃ辛いでしょ。そこに座って。今、紅茶でも入れるね」
「ありがとう……」
絵梨はソファーに座るとそのまま俯いていた。真智子は紅茶を入れるとテーブルにそっと置き、項垂れている絵梨の横に座り、腕を伸ばして絵梨の背中をそっと撫でた。絵梨は真智子に抱き着くとそのまま顔を埋め泣き始めた。真智子は戸惑いつつ、そのまま黙って絵梨の背中を撫でていた。まるでふたりを包む込むように外では俄かに雨が降り出していた—。
「……長谷部先生、結婚することになったの…。それで、披露パーティのお知らせが昨日、私にも届いたんだ……。誰か付き合ってる彼女がいるかな?って思ってたけど、いざ、結婚することになったら、やっぱりショックで。高校時代は先生一色って言っていいぐらい好きだったから……」
「そっか……。それは辛いよね」
「今までもこれからも生徒の一人でしかなかったけど、恋人になれる可能性がなくなったことを突きつけられたみたいで…失恋がこんなに悲しいなんて知らなかった…」
「絵梨は本気だったんだね…」
「本気……というか、ピアノに向かうと先生との思い出が蘇ってきて今は苦しいの。ピアノと先生が一体化していたというか……、先生のこと思いながら真剣に練習してきたのに、先生は私がこんなに思っていたのに他の人と結婚しちゃうんだなって思うととても悲しいし、今まで頑張ってきたこともなんだか無意味に思えてきて辛いし、苦しい…。真智子、私、どうしたらいいと思う?」
「そうだね……。しばらくは悲しいと思うし、無理はしない方がいいと思うけど、そうこうするうちにも演奏会は近づいてくるからね。絵梨にとって辛いことかもしれないけどこれからのために先生との思い出はピアノから切り離していけるようになった方がいいと思う」
「…そうなれるといいけどね…四年越しの恋だったし…先生への思いと一緒にピアノも上手くなったというか…シューマンの『飛翔』も先生への思いがこもっていたの」
「きっとそうだろうなって思ってた…」
真智子がそう言った時、携帯のメッセージの着信音が鳴った—。
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