1-10リストの超絶技巧練習曲1.前奏曲〜3.風景

  マンションに着いて部屋のドアを開けると慎一が弾くリストの超絶技巧練習曲が真智子の耳に飛び込んできた。真智子はさっとドアを閉めると忍び足で部屋の中に入り、ソファーにそっと座った。慎一が真剣にピアノに向かっている表情を見ているだけで、どこか緊張してしまう—。そして、自分がこうしてこの部屋にいることが未だに不思議に思う—。そんな思いに包まれながら、慎一が奏でるピアノの音色に耳を傾けていた真智子だった。


 抒情的で静かな曲想の超絶技巧練習曲3番『風景』を弾き終えると慎一は真智子に話しかけてきた。

「お帰り、真智子。今日は楽しかった?」

「うん。楽しかったよ。絵梨さんからいろいろな話を聞いたわ。私も慎一のことを話す羽目になったけど。そのうち演奏会の時にでも紹介するね」

「僕のことって何を話したの?」

「えっと、芸大生で高三の頃、一緒にピアノを練習したり、今も付き合ってるってそれだけだよ。一緒に暮らしていることまではまだ話してないよ。あっ、それからね。帰りの電車を待っている時に偶然、修司と会ったよ」

「えっ、ほんとう!?修司、元気そうだった?」

「うん。元気そうだったよ。大学のサッカー部の練習の帰りだって言ってた。慎一と修司、時々連絡も取り合ってるんだってね。修司も慎一の体調のこと心配してたよ。一緒に暮らしてることも少し茶化された」

「まあ、修司は特別だからね。そういえば、帰りに合流して一緒に帰ったことあったよな。修司は僕たちの演奏も聴いてくれたり、相談に乗ってくれたこともあったよ」

「慎一と修司、いつの間にか仲良くなってたね」

「一緒のクラスだったからね。でも真智子と一緒に音楽室でピアノの練習をしていたことが大きく影響していたことは確かだよ。あの頃、修司は真智子のことを気にかけていたから僕とも親しくしてくれたんだと思う」

「サッカー部のマネージャーしていたし、昔馴染みだったからね」

「修司は僕だけでなくて真智子のことも応援していたんだよね。僕が真智子と修司の前に現れなかったら…」

「そんなこと考えられないよ!今、こうしていられるのは慎一のお陰なんだからそんなこと言わないで。修司はいい奴だけど、私は慎一に出会って、慎一にどんどん惹かれて今、こうして一緒に暮らしているのよ」

「そうだよね。ごめん。変なこと言って」

「私こそ。慎一の練習の邪魔しちゃったね」

「そんなことないよ。真智子とこうして話していると、ほっとするよ」

「夕御飯はちゃんと食べた?」

「うん。今日は温野菜リゾット、自分で作って食べたよ。ピアノの練習もたくさんしたし」

「…リストの超絶技巧練習曲はとても難しそうだけど、豪華絢爛で素早く巧みな指さばきが得意な慎一にふさわしい曲だよね」

「そうかな。そうだといいな。とにかく、リストのピアニズムを裏付ける多様な曲想が素晴らしいよ。12曲すべて、弾けるようになると、大きな前進になると思う。自分自身のレパートリーの一つとして完成させようと思ってるよ。あ、だけど夏の学外の演奏会で招かれたのはラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』だから、先ずはそっちを成功させないといけないんだけどね」

「ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番もロマンチストで素敵な曲で慎一が弾くのにふさわしい曲ね」

「リスト音楽院での成果のお陰で今の所、曲に恵まれてるよ」

「慎一が実力があるから成果を出せたんでしょ」

「リスト、ラフマニノフ、ブラームスと取り組みたいなと思ってるんだ。結婚式では真智子とも何か連弾が実現できるといいね」

「えー、それは嬉しいけど大丈夫かな。結婚式に皆んなの前で慎一と連弾が実現したら素晴らしいとは思うけど…」

「大丈夫だよ。僕たちふたりにピッタリな曲を僕がよく探しておくよ。何かアレンジしてみてもいいし。結婚式のことも少しずつでいいから決めていかないとね」

「ありがとう、慎一。だけどその前に演奏会とか、卒業演奏会とかあるからね」

「真智子は卒業後は音大に編入する予定はないの?もし、編入を考えてるなら応援するよ」

「今のところ、考えてないかな。桐朋短大で充実してるし、卒業後はピアノ教室の先生とか、音楽療法の関連の仕事とか今の実力でできる仕事があればいいけど、先ずは慎一とふたりの生活を先ずは優先したいから。私には慎一という優秀な先生が側にいるから桐朋短大を卒業できれば充分満足してるし」

「とにかく、これからも話し合いを大事にしていこうね。せっかくこうして一緒に暮らせるようになったんだから、一人で勝手に決めるのはダメだからね。


慎一の力んだ口調に真智子は少し驚きながら呟くように言った。

「そうね……できるだけそうするね」

「ところで、真智子は今日の練習はもう大丈夫?」

「うん。大丈夫。明日、学校でも練習できるし」

「じゃあ、僕はもう少し練習するね」


 慎一はピアノに向かうとリストの超絶技巧練習曲1番『前奏曲』を弾き始めた。慎一が奏でるピアノの音に耳を傾けながら、真智子は一頻り考え事をしていた。絵梨や慎一から卒業後のことを伝えられ、これから慎一を支えていくためにもそろそろ就活のことも考えなければいけないかな?という思いが脳裏をよぎる一方で、慎一のという一言を心の中でじっくりと噛み締め、慎一にあまり心配かけないようによく考えて自分の考えがはっきり決まってから伝えることにしようと思った。


 —慎一がリストの超絶技巧練習曲3番『風景』を弾き終えたところで、真智子はそっと慎一に話しかけた。

「私、そろそろ、明日の準備をしないと。お風呂、入れておくね」

「うん。僕もそろそろやめるよ。この曲、真に迫ってるからあまり夜遅くなると真智子の睡眠妨害になるよね」

「そうだね。ずっと聞き入ってるとちょっと深刻な気分になるかも」

「真剣に練習するには抜群の曲なんだけどね」


慎一がそう言って立ち上がった時には真智子は浴室に向かいながら、慌ただしかった今日一日のことを振り返っていた。




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