第3話 地下のパブ
お笑いをやろう、の返答を待たず、沖田はすぐさまに俺を新宿へと連れ出した。
財布は持たず、スマホがポケットに入っただけの状態だ。腕を引かれ電車に乗せられた。
あれよあれよに、明るい夜の街が眼前に広がり、気が付けばそこは、地下のパブ。
おっさん、サラリーマン風の男、きれいな女の人、おばさんのかたまり、学生のような男女もいた。
「あんね、幸一くん。これネタ帳。今から…あ〜…っとね、2時間。と少し、だね。覚えてくれる?ツッコミの方だけ」
「む、無理やって…俺頭わるいし…」
「大丈夫、大丈夫だから!お願い、ね?」
猫なで声を出し、沖田は手を合わせる。
顔は笑っているが、焦っているのかつま先をトントンと鳴らしていた。
所謂、バックヤードというのだろうか。すぐ真横にはシンクがある。ほどほどに整えられた水道に弱いライトが反射し、他のパフォーマーだろうか、ちらほらと人が映り込んでいた。
誰かの溌剌とした声と、ぱらぱらとした拍手が聞こえる。BGMなのか、流行りのアイドルの曲がひずんでかかった。
冗談じゃない。
「い、嫌や!俺もう帰るっ…」
体を出口に向けた瞬間だ。上着の裾を掴まれる。
目線だけで振り返った、沖田は床を見つめているようだ。
「…学校、知ってる」
「が、こう…?」
今までの軽快な声と違う。
低い、そうこれは、
「通う大学、実家、現住所、本名、知ってるからね俺」
駄々をこねられている。
沖田は、どんな手段をもってしてもこのステージで芸をやりたいのだ。
何らかの理由で相方が出られなくなり、ちょうど上京したての騙しやすそうな男がいたから白羽の矢を立てた。
個人情報を盾に、かどわかそうと。
じっとりとこちらを見つめる瞳は鋭い、が、エサをもらえない犬のような様子にも見える。
この人、ただの駄々っ子なんだ。
俺はひとまず沖田に向き直る。
「…あんなぁ、沖田さんやってこんなんうまくいかんってのはわかってんねやろ」
「スマホ」
「は?」
「スマホのパスワード盗み見た。LINEもID控えた。ツイッターのアカも特定した」
「つ、え、なに」
キツネの目が、こちらを舐めた。
「ネタ、覚えろ。うまくいくかどうかは」
舞台から全身赤の、スパンコールスーツを着た太った男が戻ってくる。思わず「硬化したムックやん…」と呟く。
「やってみないとわからないだろ」
ムックは、みるみる浮かない顔になり、シンクで顔を洗った。
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