第4話 桃山桜子(前編)
第二幕 桃山桜子
「おい! いつまでも寝てるな、小僧!」
右側頭部に強い衝撃を確認する。
目を開けると、俺はフローリングの床に寝そべり、右側頭部は本棚に埋もれているという、なんとも素晴らしい態勢になっていた。
「あんなぁ、毎度毎度言ってるけどよぉー……」
不自然に爆発した寝癖のままの頭で、険しい表情をしている男が、俺を見下している。
このパターン、非常によろしくない展開である。
「仕事中に寝るんじゃねーよ、このボケッ! 学校と彼女の介護で忙しいのは、百億歩譲っても構わねぇ。でもな、今、小僧がいる場所は何処だ? 答えてみろ!」
両手を腰に当て、凄みを利かせて顔を上から怒鳴り散らす男。
「はぁ……、『えのき探偵事務所』です」
俺が苦笑いしながら答えると、男はますます大きな声で怒鳴り付ける。
「だよなぁー!? だったら、所長である俺に許可得ずして、仕事中に居眠りこくたぁ、どうゆうことだ、小僧?」
「す、すいません、資料の作成なら、あと印字するだけですから……」
「そういうことじゃねーんだよ! 仕事できれば良いって訳じゃーねぇって事さぁ! 仕事できても居眠りするような奴は信用置けないんだよ、この世界(仕事)はさぁ! お前、本当やる気あるんかよ?」
しくじった。
この人は、こういう『人としてのあり方』にはとてもうるさい。
――あの事件から、もう1年が経とうとしていた。
俺は受験勉強とバイト……探偵社で紅猫の行方を追う情報収集の両立をこなしていた。ほんの些細な事があれば、新聞を切り抜いてスクラップ帖に貼り付け、噂話でもその内容をパソコンに全て記録させている。俺自身、両立を上手くこなしていたと思っていた、のだが……。分かっていたはずなのに、気を緩めて寝てしまった俺が情けない。
「本当、すいませんでした。以後、ちゃんと精進しますから、榎木所長」
榎木 竹一(えのき・たけいち)所長。三十六歳。バツイチの子持ち。
俺のバイト先、『えのき探偵事務所』の所長だ。
三ヶ月前から、あの奇妙な桃髪の女性こと桜子さんの紹介でこの事務所に住み込みで働かせてもらっている。
何故、住み込みかというと、実は……俺は天涯孤独の身になってしまったからだ。
紅猫は俺が殺人現場へ急行している間に、俺の家に侵入し――、俺の家族全員を虐殺した。
犯行予測時間は、深夜二十三時から三十分前後の間だと、警察からの情報をニュ手した榎木所長が教えてくれた。
あの晩、失ったのは、恋人だけではなかった。
そのせいか、桜子さんが俺を紹介したとき、榎木所長の表情は何かを思い詰める様だった。
「はぁ……、また口だけだろうけどな。頼むぜ? お前みたいな奴でも、ここの事務所では必要なんだからよぉー」
そういうと、踵を返し、自分のデスクへ戻る榎木所長。メタボな腹をパンパン叩きながら戻る様は、冬眠に備えて食い溜めする熊のようだ。
ここには、現在所長と俺しか勤務していない。
榎木所長は、警察とのコネクションもあり、時々、捜査協力もされるくらいの実力の持ち主だったりする。
だからといって、この事務所が流行っている訳ではない。
原因は、九割方、この所長にある。
人のあり方、というものにうるさいこの人は、筋が通らない事を見たり聞いたりすると、極端に沸点が低くなるのだ。この間も、会話の途中でくしゃみをした、という理由で、客を追い返したのだ。そのとき俺は、花粉症に悩まされるの依頼人と所長は会話が成り立たない事と確信した。
また、所長の髪型も原因の一つだ。名前も然ることながら、その不自然に盛り上がった髪の毛の形状は、どうしても、あるものを連想させてしまう。所長はその連想される物が大嫌いであり、地雷を踏んだ無知なる愚者は、恐ろしい末路が待っている。
と、急に事務所の扉が開いた。
扉を開けた主は、俺のよく知る顔だった。
その人は、俺を見つけるなり、推定Dカップはあろう肉厚な胸の谷間へ、俺の頭を押し付けた。
「おーっす! 康一、久々だな! 私がいなくて寂しかった? ん? ん? おっぱい恋しくなかったかぁ?」
「ぶはっ! あ、会って数秒でセクハラは止してください、桜子さん!」
「もー、かーわいいなぁ、康一は~♪」
桃山桜子。二十三歳。
元・えのき探偵事務所のエース。
現在は独立し、万事解決屋(つまり何でも屋)『モモタロー・サポート』代表。
髪の毛が、あたかも満開の桜の花びらをかき集めたような薄ピンクの桜色で根元から毛先まできれいに色付いている不思議な女性。これが地毛なのだから驚きだ。ピンクブロンドともまた違うその髪は、初対面以降、俺は見るたびに目を見張っていた。肌は陶磁器のように透き通った白い滑らかな肌で、嫌が応にも目に飛び込んでくる両乳房は、並みの男なら胸の谷間に挟まれ三分も経てば、腰が砕けてしまうであろう。
しかし、性格は、まぁ、ご覧のとおり。
豪快で気風のいいエロアネゴ系キャラだ。
特に、俺に対してはセクハラが酷いのは、周りの男性から見たら羨ましいかもしれないが、当の本人は、窒息寸前になるので、マジで止めてほしいと願う。
ああ、三ヶ月前の若干よそよそしい感じが今では恋しく感じる。
いつの間にか、下の名前呼び捨てだしな……。
「桜子、今日は何の用だ?」
訝しげに桜子さんを睨む。
「おっす、そんな目で睨むなよ、キノコ」
そして、この人は、所長の地雷原をわざと駆け抜ける度胸の持ち主だった。
所長は、そのぼさぼさの頭と、名前から、『キノコ』と呼ばれるのを毛嫌いしている!
「その呼び方だけは止めろって、何度言ったら、分かるんだああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアッ!!」
瞬間、事務所の空気が一斉に痺れた。
榎木所長の咆哮が、机の花瓶を床に倒して割ってしまうほどの衝撃波が!
だが、明らかに突っ込み待ちとしか見受けられない髪型と、示し合わせたかのような名刺にある氏名を見たら、殆どの人は、この地雷を踏んでしまう。この事務所の流行らない最大の理由はこれだ。地雷を踏んだ者は、口を揃えてこう言う。
『あの事務所の所長は、頭がおかしい』と……。
名前は仕方がないとして、せめて、寝癖ぐらい直せよ……。
てか、毛髪がジャイロ回転してる寝癖って、どんな寝相してるんだ、この人は。
舞茸か、舞茸なのか?
怒り狂う榎木所長を、桜子さんはゲラゲラ笑っていた。しかも、指差して。
「ひゃははははは! ほーんと、いつからかっても所長は愉快だよ! あ、用件は、旅行のお土産と新しい情報をお届けに上がった次第だよ~」
何事もなかったかのように、平然と用件を伝えると、ボストンバックから温泉饅頭と原稿を入れるような大きな紙の封筒一つを取り出し、俺の机の前に差し出した。温泉饅頭は、伊香保温泉と書いてあるパッケージに包まれた、真っ黒な饅頭だった。そして、問題の紙袋の中身は、全て、これまでの紅猫関連の事件の洗い直し調査の結果であった。三ヶ月前、俺は桜子さんに調査をお願いしていたのだ。内容は、被害者のプロフィールから、殺害現場の住所、当日の天候や周囲の住人の聞き込みなど、あらゆる角度から再考査された内容が詰まっていた。
「桜子さん、ありがとうございます」
「支払は、出世払いでいいよ。若しくは、一晩、私と付き合え。今のメリッサちゃんが忘れられるほど濃厚な夜を……」
「出世払いでお願いします」
食い気味かつコンマ一秒の切り返しだった。
「もー、康一はつれないなぁー。私の行きつけの店で飲みに行くだけじゃなーい? 君くらいの青年は、時には余裕も必要よ?」
「結構です。俺には世話の掛かる彼女が居ますから。それに、本当に飲みいくだけならその言い回しだと勘違いされます、辞めた方がいいです。あと未成年なので酒は飲めませんよ」
そう、俺は、彼女だけのものだ。彼女――メリッサのために動いている。
だから、他の女性に見向きするなんて、許されないのだ。
「……青いなぁ」
桜子さんはつまらなそうに、そう呟いた。
「別に浮気しろ、って言ってる訳じゃない。私だって、康一に彼女がいて、その彼女が普通の生活が送れないことも、康一がその彼女の事を本当に心から愛していることもよく知ってる」
「じゃあ、尚更、セクハラ止めてください……」
すかさず、俺が反論すると、桜子さんは鬱陶しそうに続けた。
「あのさー、康一? 愛が重いんだよ。重くて青いんだ。ついでに青臭い。彼女は、紅猫の被害者で、今も何故か生きていて、社会復帰が絶望的でさ、康一が守ってあげようとしてるというのを傍からさらっと見てる分はいいさ。お前、彼女の身の回りの事を、殆ど一人でやってるそうじゃないか。病院の介護師も居るっていうのに、全てそれを拒絶してるって正気の沙汰か? 何そんなにむきになってるんだ? お前自身も、聞いた話によれば、介護関連の学部のある大学を狙っているらしいじゃないか。いくら目指してるとはいえ、プロの介護師に任せておけば良いじゃないか? 彼女だけに目が向かないというと聞こえが良いけどさ、それって、お前の人生、棒に振ってるのと同じじゃないか? 一点だけ見ずに、友人や私みたいなおねーさんと遊んだほうが、人生の上で有益だと思うんだけどな?」
「部外者は黙ってて下さい!」
桜子さんの言い分を、俺は切り捨てた。
「俺は、あの事件以来、自分の身は自分で守らないといけないと気が付いたんです。でも、彼女はそれをする事が出来ない。彼女は、自ら危険を振り払う事が出来ない状態なんです。そんな状態で、もし、紅猫が彼女の事を生きてると知ったら? いいや、報道などで恐らく知っているでしょう。そして、自分の正体を知る者は真っ先に殺しに戻るはずです。いつ記憶が戻って警察に証言されるか分かりませんからね。そうなる前に俺は、奴の魔の手から守らなくてはならないんです」
そうだ、紅猫は、きっと病室に来る。
あれから1年、紅猫は目立った行動を起こしていない。
しかし、必ず生存者……メリッサを狙ってくるはずだ。
だから、いつ何時だって警戒心を解いてはいけない。
だがもし、病院内に紅猫が紛れていたら?
介護士や医者の中に紅猫がいたら?
身動きがろくに取れない今の彼女はひとたまりもない。
恐ろしくて、俺は介護を他人になんて任せらない。
「それに、勘違いしないで下さい。人生を棒に振っているのではなく、有効活用しているんです。俺の人生を、彼女の全てに注ぎ込めるんだから、これ以上、幸せな事なんて何もないし、これ以上、何も必要ない」
俺は、胸を張って、桜子さんに言い返した。
桜子さんは、お手上げだ、と言わんばかりに、首を横に降った。
「わかった、わかった。康一が彼女――メリッサちゃんのことを、身も心も捧げている訳だ。いや~、なかなか出来ないよ、そんなこと?」
腕を組んで、うんうん、と首を縦に振る桜子さん。
しかし、桜子さんの顔は、納得するかに見えて、まだ何か言い足りなさそうだった。
「まだ何か、あるんですか? 言いたい事があるなら、言ってもらって構いません」
ここは、俺から切り出そうと思い、逆に問い詰めてみた。
すると案の定、桜子さんはこう続けた。
「……時には冷静になれよ、康一。お前の姿勢は、世間からしたら褒められるべき事だ。でも、メリッサちゃんの立場になって考える必要も出てくるんじゃないのか? 恋人ってさ、自分の事、全部が全部知られたくないものなんだよ。康一が、あけすけにメリッサちゃんの心を土足で歩き回るような真似を知らずうちにやってしまいかねないと思うんだ、今のお前を見ていると」
「んなわけないじゃないですか」
馬鹿げてる、と、俺は思った。
メリッサは、彼女は、俺を必要としているに決まってる。
彼女の俺に対する態度は、三ヶ月前から比べたら見違えるように激変した。
俺を頼ってくれるようになったし、会えなくて寂しいと涙ぐんでくれるようにもなった。
それが却って、再び出会って再び恋に落ちたかのような気持ちにさせてくれている。
彼女には今、俺が必要なはずだ。
目の前のメリッサが、彼女のありのままの姿だ。
彼女が、知られたくない部分なんて、俺に対してないに等しいんだ!
「……ご忠告どうも。そろそろ、桜子さんの持ってきた調査資料を見聞したいので、色々お話聞かせて下さいませんか?」
俺は、話の流れを強制的に断ち切るために、ノートとペンを取り出す。
その態度を見てか、諦めた桜子さんは、嫌がらせなのか、机に自慢の胸をこれでもかと乗せながら、資料の説明をしてくれたのだった。
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