第3話 メリッサ

 目の前が明るかった。

 どれくらい時間が経ったんだろうか。

 眺めていた目の前の光の正体が天井の蛍光灯だと分かると、俺は起き上がって辺りを見渡そうとした。しかし、体に何かのチューブや機材が取り付けられていて、それが邪魔で腕が挙がらないでいた。というか、全身に力が入らない。

 おまけに口元は酸素マスクで覆われ、うまく喋る事も出来なかった。

「先生、見て下さい、彼、意識が戻りました!」

「ほ、本当だ! 荒木さん、荒木康一さん? 分かりますか? 貴方、お腹刺されて三日間昏睡状態だったんですよ? 貴方は今、集中治療室で治療受けていますからね。ちょっと辛いかもしれませんが、意識が戻ったのなら、もう少しすれば出られますよ」

 近くにいた看護師と医者が、俺の様子に気付き、急に周囲が慌しくなった。

「……」

俺は、一命を取り留めたらしかった。

 生きてることは嬉しかった。

 しかし、同時に悲しかった。

 なぜなら、あの夜にもう、彼女は……。

 悲しみに暮れる俺の気配を看護師が察したのか、今まで何があったのか、一方的に俺へ教えてくれた。あと数分、救急車が遅れていたら手遅れだったこと。猟奇殺人鬼は未だ逃走していること。学校が今も臨時休校していることなど、おかげで自分の置かれている状況を把握するには、非常にありがたかった。

「そうそう、荒木さん! 貴方の恋人の日向さん、奇跡的に生還しましたよ。荒木さんよりも深刻な状況だったのに、驚異的回復力で先にリハビリを始めてますからね。ここを出たら、合い部屋になれるか相談してみますからね。だから、もう少し頑張りましょうね?」

 ……信じられなかった。

 ……耳を疑った。

 楓が、生きてる……?

 なぜ、とか、どうやって生き延びたか、そんなことは思い浮かばなかった。

 俺はただ、素直に嬉しかった。

 楓が生きてる――!

 今はそれだけで、俺は全て救われた気持ちになったのだった。


 その後、俺の様態は順調に回復してゆき、集中治療室から個室へと移された。

 俺が目覚めてから4日……つまり、あの夜の出来事からもう一週間が経過しようとしていた。一般病棟に移るやいなや、クラスの奴らが連日ひっきりなしに押し寄せてきた。普段からつるんでいる友人は勿論、あまり大して話したことのないクラスメイトも心配そうに見舞いに来るので、ありがたいなと思いながらも心のどこかで罪悪感が湧き上がっていた。

 警察も見舞いがてら聴取に来た。

 他でもない、俺は紅猫を目撃した唯一の生存者だからだ。

  だが取り調べめいた問答のやり取りに、俺は心底うんざりしてしまった。

「そういえば君、ご両親は?」

 刑事の質問に、俺はため息混じりに答えた。

「……母子家庭です。俺とお袋の、二人で暮らしています」

「そうか。実は、君のお母さん、あの日から行方不明でね? 目下、行方を探しているんだが、康一君、心当たりはないかな?」

「……は?」

 刑事の話は初耳だった。

 確かに、母親が見舞いに来ないのはずっと疑問に思っていた。

 だが、それを看護師に尋ねると『仕事でなかなか来られない』と誤魔化された。

 母親は仕事人間で、女手一つで俺を育てるためにかなり無理をしているのを、子供ながら理解している。よく職場にも泊まり込むなんてこともある。だが、流石に息子が殺されかかったという時に見舞いに来ないのはおかしいと思っていたら……失踪だと?

「いえ、俺は何も」

「あの事件の日も、お母さんは職場で遅くまで残業をしていたそうだけど、そこからの足取りがつかめていないんだ」

 刑事の物言いに、俺は最悪の考えがよぎった。

「……お袋を、疑っているんですか?」

「あ……いや、そういうわけじゃ、ないんだがね」

 気まずそうに刑事が口ごもる。あからさますぎて俺は腹が立った。

「俺のお袋は、他人を切り刻んで殺すような趣味はねぇよ」

「ああ、きっとそうだろうさ。俺達も、そう思ってる」

 刑事は立ち上がると、頭を垂れて謝罪の言葉を口にする。

「すまない、職務上とはいえ、可能性を潰すために不愉快な思いをさせてしまった。一日も早く君の回復を願っているよ」

 病室から出てゆく刑事を俺は睨み付けた。

 そして、誰もいなくなった病室の天井へ視線を向けた。

 ……お袋、どこへ行ったんだ?


 夕方六時過ぎ。

「あの、俺の彼女の、日向楓の病室なんですが、何階の何号室なんでしょうか?」

「え?」

 俺の食事を運んできた看護師は、呆気にとられた表情で俺を見返した。

 その表情を俺は不審に思い、もう一度尋ねた。

「楓は、リハビリをしていると聞きました。どこの病室なんですか? 俺、彼女に会いたいんです」

「えっと……」

 看護師は急にたどたどしくなり、目線を泳がせ始めた。

 どうしたのだろうか、何かいえない理由があるのだろうか?

「……ちょっと、待っててね、康一君? 確認してくるから」

 慌てて病室を飛び出す看護師に、俺はますます様子が変だと首を傾げた。

 だが、一向に看護師が戻ってくる気配がなかった。

 俺が食事を終えても戻ってこないため、どういうことか問いただそうとしてナースコールのボタンに手を伸ばそうとした。

「待った」

 ナースコールのボタンは、見知らぬ看護師によって取り上げられてしまった。

 俺は唐突に現れたこの看護師の女性に目を見張った。

 どこからやってきた? 此処は個室のはずだ、扉は開いてなかったぞ?

「君の疑問に答えてあげよう、少年」

 黒いワンレンボブの看護師の女性は、やけに毒々しい赤い口元をニヤリと歪めた。

「数時間前に刑事が帰る時、君は一瞬、天井を見上げただろう? その時、私は部屋に忍び込んだのさ。こう、蛇のように這いつくばって、君のベットの下に潜り込んで」

「は?」

 つまり、数時間、この人は俺のベットの下に潜り込んでいたのか。

 怖ッ!?

「そう怖がるな、少年? 私は君の一番知りたがっている事を教えるため、慣れないコスプレまでして病院に忍び込んだのだからね。しかし千客万来だねぇ。まさか登場シーンまで数時間必要だったとは、それが唯一の誤算だったよ」

 看護師の女性……いや、謎の女性は、俺に折りたたまれたメモ帳とカードキーを手渡した。

「もう自力で立って歩けるのだろう? 善き哉善き哉。だったら、真実まで自分の足で辿り着いてごらんよ」

「……つまり、このメモに書かれている場所に行けってことですか?」

「そうだ、君はそこへ行く義務があるし、総てを知る権利がある」

 やけに芝居がかった口調で、女性は俺の手を取ってベッドから立たせた。

「サァ、征け、少年! 大冒険の始まりだ!」

「あの、ところで、どちら様で?」

 勝手に盛り上がる謎の女性の素性を俺が問うと、その人はニッカリと白い歯を見せ、赤みがかった瞳孔を開いて俺に告げた。

「じきに、分かるさ。その時になったら、また君と会えるだろう」

 そういうと、女性は窓を開けて身を乗り出して……って、この病室は3階だぞ!?

「では少年、来たるべき時にまた会おう。その時に、私の自己紹介を改めてさせてもらおう」

「お、おい! 待て!!」

 女性は俺の制止を聞かず、窓から飛び降りた。

 慌てて窓に駆け寄り、俺は下を眺めた。

 ……馬鹿な、いない!?

 死体のひとつもなければ、女性の姿形すら見えない。

 完全に消えてしまった……?

「一体、なんだったんだ……?」

 俺は手元に残ったメモとカードキーを眺める。

 メモにはこう書かれていた。

「この病院の最上階、立入禁止区域に、君の最愛の人がいる」


「なんだよ、ここ。病室というより、これじゃあ……」

 最上階の立入禁止区域内。本来ならば、一般人は入れない。通常は、監視カメラや防犯装置が氾濫するセキュリティゾーンを通過した先の専用エレベーターでしかいけないとのことだが、メモ書きによると、非常階段の業者出入口からなら一般人でも出入りが可能と書かれており、実際、カードキーを使用してエレベーターのロックを解除すると、あっさりと潜入成功したのだった。

 潜入。まさにそんな言葉がしっくり来る。

「ゾンビが出てくるゲームにありそうな、おどろおどろしい施設だな」

  最上階は、特別治療室兼研究フロアになっているらしく、見慣れない機材がある治療室や書庫室、薬品庫の他に、各医者の研究室もあった。なんというかここは、病室なんていう健全とした空気ではない。

 俺は監視カメラに映らないよう、最新の注意を払って目的地……研究棟の最奥を目指してゆく。

「と、ここか」

 ひとまず誰にも会わずに目的地に到着出来たことは幸運だった。目の前には、白い扉に曇りガラスが張っており、中の様子は見えないようになってる。ドアノブを回してみたが、鍵が掛かっていた。

 不審に思った俺は、中にいる楓に開けてもらおうと思い、ドアの前から呼び掛けてみることにした。

「おーい、楓。俺だ、康一だ。見舞いに来たんだけどさ。ドアの鍵、開けてくれないか?」

 ……無反応。

「楓? いたら返事してくれ」

 コンコン、と、扉をノックしてみた。

  ……反応はない。

  どうしたものかと扉の前で悩んでいると、後ろから俺の肩を誰かに掴まれた。

「此処で何をしている?」

「え?」

 後ろから声が聞こえた。

 振り返れば、俺の後ろには、俺の入院中の主治医とお付きの看護師が二名控えていた。

「ダメですよ、荒木さん。ここは関係者以外立入禁止です。……でも、どうやって此処へ?」

 看護師が眉をひそめる。

 まずい、見付かった!

 主治医は俺の手元にあるカードキーを取り上げると、どこか思い当たる節があるのか、深く嘆息を付いた。

「……どうやら、君は導かれたようだ。ここ最近、病院の内情を誰かが嗅ぎ回っているという噂を聞いていたのだが。なるほど、その人物は、メリッサと君を引き合わせたかったのか」

「先生、メリッサって、何のことなんですか? 此処にいるのは、楓なんだろ?」

 ここで気圧されてはいけないと思った。

俺は拳を握り締め、奥歯を食い縛りながら主治医に尋ねた。

主治医は、眼鏡の位置を正し、俺の問いに答え始めた。

「日向さんは、少し特殊な体質のようでして。治療を兼ねて、少し現代医学のために協力してもらっているのです。ご心配なく。日向さんには酷い仕打ちはしてません。ただ、この部屋で観察させていただいているだけです」

 主治医はそういうと、ポケットから扉の鍵と思われる金属の棒を取り出した。

「あと、メリッサというのは、本人が言い出したんです。彼女は記憶の混濁が見られます。事件のことは全て忘れていますし、自分が日向楓であることは自覚すらしていません」

「そんな……」

 記憶障害、だと?

 主治医は言葉を継いだ。

「まだ、精神状態も安定してません。時折、錯乱状態で暴れ出しています。今はとても一般病棟に戻すことは出来ません。それに、まだ報道記者が病院内外で張っているようです。一般病棟に来たら、記者が忍び込んでくる可能性だってゼロとはいえません。過度の取材攻勢は、今の彼女には負担になってしまう」

 鍵穴に金属棒を差し込み、時計回しに回すと、小気味良い音を立てて鍵が開いた。

「ですが、ばれてしまっては仕方がありません。荒木さん、今の日向さんは日向さんではありません。その点は重ねて忠告させて頂きます。それを踏まえて頂けるなら、今日は特別に面会させて差しあげます」

 白い扉が開かれた。

「さぁ、どうぞ中へ」

 俺は、そっと中に入った。

部屋は、四隅の天井に設置された監視カメラと、真っ白なベットと小さなチェストしかない至って簡素なものだった。

「食事は、定期的に持ってきています。ほら、このように」

 看護師二人が、夕食を部屋へ運んできた。

 そうか、丁度夕食だったのか。

 そして、食事が運ばれた先には、包帯で全身を覆われた少女の姿があった。

「楓」

  思わず呟いてしまった。

 見覚えのある後姿に、思わず体の震えを抑えることが出来ずにいた。

 少女は、俺の声に反応して振り返った。

 目の下の隈や、痩せこけた頬。外に出てないせいなのか、幽霊のように真っ白な素肌。俺の知る、あの愛らしい楓の面影は、目の前の包帯少女には見られなかった。

 彼女の口が開いた。

「はじめまして」

 包帯少女は、姿勢を正し、こちらに一礼をした。

「メリッサと言います。お医者さん以外の方が来るのは、貴方が初めてです。どうぞよろしくお願いします」

 俺は、その場に崩れ落ちてしまった。

 俺が知っている楓は、目の前には居なかった。

 目の前にいるのは、別人。

 メリッサという名の、別人。

「本当に、俺のこと覚えてないのか……?」

 無駄だと分かっているのに、俺は尋ねてしまった。

 楓……いや、メリッサは、きょとんとした顔で答えた。

「すいません、あなた、どちら様ですか? わたしのことを知っているのですか?」

 俺は全身が凍りつくような錯覚に陥った。

「覚えていないのではなく、知らないのです。わたしは、貴方とはたった今、出会ったばっかりです」

「荒木さん、こういうことなんです。まだ、貴方には早過ぎたのかもしれません」

 主治医は、伏目がちに俺へと話しかけた。

俺は、脱力感に苛まれつつ、気持ちの矛先を主治医へ向けた。

「状態は把握しました。……で、なんで此処まで厳重に閉じこめる必要があるんですか?」

 俺の問いに、主治医の表情が急に曇り始めた。

 明らかな拒絶の反応だった。

「答えられないというのですか」

 脱力感から憤怒へ身体の中が入れ替わると、俺は自然と主治医の胸倉を掴んでいた。

「どうなんだ? 俺はその答えを聞くまで帰らないからな」

 主治医は、観念しましたよ、と呟くと、首をかしげながらこう言った。

「荒木さん、これから話すことは、SFでも心霊現象でも、ましてやウソなどではありません。これを念頭においてお話します。当然ですが、他言厳禁でお願いします」

 いきなり、とんでもない単語が飛び出してきたので、今度は俺の表情が曇った。

主治医が、メリッサのそばまで寄ると、小声でメリッサに何かを囁いた。メリッサはそれを聞いて少々戸惑いながら頷いた。 何が始まるのかと思い、俺は両腕を組んでただ見守っていた。

 主治医は、食事のトレイにおいてあるフォークを手に取ると、それを逆手に握って、メリッサに振り上げた。

 ……って、まさか!

「きゃあ!」

 フォークが、メリッサの左肩に突き刺さった。

 主治医が相当力を込めて突き刺したのか、刃先の半分以上が肩にめり込んでいる。

「この野郎が!」

 俺は言葉よりも早く、主治医の左頬を殴り抜いた。

 そのまま、病室の壁に叩き付けられる主治医。

「痛っ……、人の話は最後まで聞きなさい、荒木さん」

「聞こうとした結果がコレか? 酷いことはしていないって言ったのは嘘かよ!?」

 刺されたメリッサは、痛みに耐えたまま震えていた。

 俺の脳内が憤怒で満たされ、マグマのように熱いドロドロとした感情が溢れ出してゆく。その流れに身を委ねて、拳を再び俺は振り上げた。

「待って下さい!」

 そう叫んだのは、メリッサだった。

「わたしは大丈夫です。ほら、左肩を見て下さい」

 メリッサの言うように、フォークが刺さった左肩を見てみた。

 するとどうだろう、みるみるうちに、フォークが傷口から押し戻されているではないか! ものの一分ちょっとで、完全にフォークが押し出されて抜け落ち、床に金属音を撒き散らした。傷口も逆再生を見ているかのようにあっという間に塞がってしまった。

「事前に説明をしなかったのはお詫びします、荒木さん」

 主治医は左頬を擦りながら言った。

「百聞は一見に如かずと言いますから。ご覧の通り、メリッサには通常の人間を遥かに上回る超回復力を備えています。メリッサのこの力を研究すれば、医療の分野で大きな進歩となりえます。もしかしたら、不老不死だって夢ではありません」

「不老不死……」

 つまり、今のメリッサは、極端に死ににくい体になっている、ということか。

「おそらく、紅猫に襲われたショックで、何らかの力が目覚めたのでしょう。進化と言ってもいい。それで、彼女は瀕死の状態から見事に生還することが出来たのだと思われます」

 俺は言葉が出なかった。

 事態を飲み込もうとしても、事実が大きすぎて飲み収まらない。

「もう暫くは、この病室に居ていただくことになります。荒木さんには申し訳ないですが、我慢していただきたいのです……」

「何とか、一般病棟へ移せないのか?」

 ようやく出すことが出来た俺の言葉。

「記憶がないにしろ、俺には関係ない。目の前に居る女の子は俺の彼女だ」

 色々あってかなり話が逸れたが、俺はここに『彼氏』としてお見舞いに来たんだ。

そいつが今、モルモットのように飼育されているのが、俺は気に食わなかった。

「この部屋は殺風景過ぎるし静か過ぎる。楓はこういうところは好まないんだ。先生、何とか一般病棟に……」

 俺の懇願を主治医は困り顔で断る。

「楓さんではなく、彼女はメリッサです。先程も言ったとおり、まだ精神状態も安定してませんし、報道陣の目もあります」

「でも! 彼女はモルモットじゃなくて人間です! こんな場所に押し込めておくのはあんまりだ!」

「そう言われましても……」

 と、その時だった。

 俺達の背後から、飛び抜けに陽気な女性の声が聞こえてきたのは。

「よう、少年! 真実に辿り着けたようだね、それは結構毛だらけ猫灰だらけ!」

そこには、先程、ここの場所を教えてくれた看護師の姿があった。

「君だね? ここを教えたのは」

 主治医も訝しく顔をしかめた。

「約束が違う。私は、ここの情報を嗅ぎ付ける輩を追い払ってくれと言った筈だ。君が内部事情を探ってもらっては元も子もないぞ」

 主治医が看護師に声を荒げて詰め寄る。

「あー、確かにこりゃ契約違反だな。悪い、そいつは身内らしいから通しちまったよ、先生」

 知的な雰囲気とは裏腹に、あけすけな口調で話す看護師。

そんな看護師に呆れたのか、ため息混じりで主治医が漏らす。

「身内でも同様だ……」

 どうやら、あの女性は対マスコミ撃退用の人員として雇った、何らかのスペシャリストのようだった。

 ……いや、ただの不審者じゃないか。

 女性は俺の顔を見ると、嬉しそうにつかつかと傍にやってきた。

うわ、改めて会ってみると背がでかいな。

俺が一七○センチちょっとあるけど、それよりあるのか、この人は。

「よう、少年」

 そういうと、女性は右手を大きく上へと振りかぶった。

殴られる、と思って身構えると、がしっと、俺の頭を右手で掴まれ、タオルで頭を乾かすかのように、ごしごしと撫でられ始めた。

「偉いぞ。よくここまで辿り着いた。正直びびっただろ? あたしも初めて聞いたときは、何処の漫画の話かと思ったぞ」

 あまりにも強く撫でるので、俺の頭は首を軸に三六○度自由自在に動かされていた。いや、もう少し優しく扱ってほしいのだが。

「あ、あの、何でここに? あと、そろそろ目が回ってきたんですが」

「ああ、悪い。よく回るから面白くて弄くってたよ、あははは……」

 後半は悪ふざけかよ!

「おいおい、そう抗議の目線で見つめないでおくれよ。折角、おねーさん、心配して見に来てやったんだから」

「心配?」

「そそ、この状況を見て、収拾付かなくなるのは自明の理。あたしも教えた後に気が付いてね。やっべー、これは面と向かって詫び入れなきゃだわ、ってことで、ここまで颯爽と登場したってことよ、ダッシュで!」

 ……なんていうか、この人、凄くフリーダムだな。

「要するに、俺を助けに来た、ってことでOK?」

「まぁ、そう捉えてもらっていいよ。さて、先生」

 急に踵を返し、先生へと顔を向ける謎の女性。

「この状況を円満に解決する方法を、あたし知ってるんだけど。どうする? 聞きたい?」

 は? 一体何を言い出すんだ、この人は。

「そんなものがあれば、とっくにやってますよ」

 主治医も諦め顔だ。

 特異体質の渦中の少女を野放しに出来る環境なんて早々ない。

 それは一般人の俺でもよく分かった。

 それでも、俺は、メリッサ――楓をここから出してやりたいと思っていた。

 だから、俺は。

「聞かせて下さい。その話」

 この人の話にすぐに食い付いた。

 俺の答えに、あの魔女の微笑みを浮かべる女性。

「いいね、その目。好奇心旺盛な少年は、おねーさん大好きさ」

 そして、メリッサの居るベットの隅に腰掛けると、一枚の紙を胸ポケットから取り出した。

「先生、私の本職は、良くご存知で?」

 そう言われた先生は、見る見るうちに顔が青ざめていった。

「これ、この病院の地図ね。ちょっと暇だから、院内を散歩してたらね、面白い部屋見つけちゃってさ。勿論、この地図にも書き記してある」

「ダ、ダメだ! あそこは一般人が使うことは出来ない!」

 急に、主治医が狼狽し始めた。

 あの慌て振りは尋常じゃない。顔中に脂汗が滲んで醜く歪んでいる。

「なぁ、少年。ずるいと思わないか? 要人専用の個室がこの病院にあるんだって。紅猫事件の生存者だって、立派な要人だと思うがな。あそこなら、あたしみたいな子猫ちゃんじゃない限り、勝手に入れないしね」

 茶目っ気たっぷりにウィンクする女性、ことお姉さん。

 って、自分のことを子猫とのたまう貴女は、俺にはどう見ても大虎にしか見えない。

 その横で、主治医の顔色は益々悪くなり、首をぶんぶん横に振るばかりだ。

「駄目だ、駄目だ駄目だ……!」

「えー、いいじゃん。あたし、ここの理事長と飲み友達だからさ、今度飲み行ったときに頼んじゃおっかなー?」

「ぐっ……」

 これには、主治医も観念するしかなかったようだ。主治医は土下座で降参のポーズをとったとこで勝負あり。

 ……で、理事長と友達のお姉さんって、何なのさ?

「これで決まりだね。さて、理事長を飲みに誘わなきゃ。でもあの人のセクハラ、えぐいんだよねー」

 院内なのに、携帯電話で話し始めるお姉さん。もう滅茶苦茶だ、この人。

 ふと、メリッサが俺に対して手招きしていた。

 何だろうと思って近付くと、耳を貸すようにジェスチャーで指示された。

「あ、あの、わたし、あの人。知ってます」

 恐れているのか、体を震えながら俺に伝えてくれた。

「わたし、思い出しました。殺されかけたとき、あの人、私を襲った人と一緒に居ました。だから、怖いです……」

 脳内で何かが割れるような音が聞こえた気がした。

 ――紅猫と一緒に居た?

 本当に、貴女は何者なんだ?

 通話が終わって、お姉さんは満面の笑みでピースをする。理事長とやらに話が通じたようだ。ともかく、これでメリッサは、この部屋ともおさらばだ。

 しかし、やはり一度聞くべきだろうな。

「ありがとうございます。あの、失礼ですが、貴女は一体、誰ですか……?」

 俺は気になって仕方がないことを尋ねた。

 すると、魔女めいた表情で、お姉さんは黒いロングヘヤーを剥ぎ取った!

 ……ウィッグだったのか。

 そして現れたのが、目の覚めるような淡い桜色の髪の毛。その束ねた髪を解くと、さっきのロングヘヤーより長い髪が流れるようにお姉さんの体にまとわり付く。白い歯を存分に見せる形でニヤ付きながら、その人は自己紹介をした。

「そういや、名乗ってなかったな、少年。あたしの名前は、桃山 桜子だ」

 つかつかとまた俺の前までやってくると、すっと左手を差し出した。

「ただのしがない『解決屋』だ。よろしくね、荒木少年」

 そう呼ばれ、思わず俺はお姉さんと握手してしまった。

 このお姉さん――桜子さんとの出会いが、紅猫へ近付く最短ルートになると、このとき俺は直感的に確信したのだった。

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