第2話 ルパンのお父さん
職場の同僚に、「天使」がいた。私が言ったのではない。誰もが口々に彼女を天使だと言った。転勤して赴任の挨拶に行った時、彼女は社内を案内してくれた。とても丁寧に、効率よく、スムーズな導線で。仕事のできる若手だった。いつのまにかノルマをこなしていた。自分の作業をしていても、誰かが印刷物を抱えて部屋に入って来ると、さっと席を立って丁合を手伝った。何も言わず、ニコニコしながら…。
彼女の名は「艷木 綿(ADEKI WATA)」。私は彼女のことをいつも「わたちゃん」と呼んだ。名前通り、温かくてソフトでしなやかでふんわりした人だった。出会った時、わたちゃんは30歳を目前にしていた。私とは20近くも年齢差があり、娘と言っても過言ではないほどだったが、娘と言うより妹のような存在だった。わたちゃんの謙虚さや奥ゆかしさは、職場でとても眩しかった。よこしまな私には彼女の反応や態度がキラキラして見えた。そして、とても可愛かった。
彼女は、艷木家の中で、長男・長女・二男・二女・三男という5人兄弟姉妹の4番目だった。男の兄弟に挟まれている素振りや様子はなかった。父と姉は医師、母はその昔エレベーターガールだったというから、勝手に品のいい家庭を想像してしまう。期待通り、彼女は清楚で素直で育ちのよいお嬢さんの雰囲気を纏っていた。
わたちゃんは、とても謙虚で、腰が低かったので若く見えた。それは、彼女の言動に、大学を卒業したばかりのお姉さんのような初々しさと新鮮さが見え隠れしていたからかもしれない。キャンパスのパンフレットから出てきたような清廉さがあった。華美でなく楚々としていた。それでいて、媚び諂うことはなく凛とした仕事ぶりだった。難しい案件を振られて困っても、「やってみます」と言って果敢に挑戦した。 と同時に、いつも来客があるとすぐに対応し、仲間がたくさんの仕事を抱えていると「手伝いましょうか」と言って即体が動いていた。なので、わたちゃんよりもさらに若い社員は、わたちゃんを頼りにし慕った。
そんなわたちゃんだが、時折、超天然な言動でみんなを和ませた。
ある年、仕事の中締めに有志で飲もうとなって、気の利くわたちゃんが直ぐにお店を手配してくれることになった。安価で評判が良くてなかなか予約の取れないお店をあたることにした。携帯でアポを取るため離席して外へ出て行った。しばらくして、
「取れました」
と言って帰って来た。
「すごいね、こんなに急で、しかも金曜日なのに取れたんだ。ラッキーだね。さすがわたちゃん」
「はい、よかったです」
「最近評判でなかなか予約取れないお店になってたから奇跡だね」
「これでまたお仕事頑張れますね」
「そうだね、これを励みにがんばろー」
1週間仕事をてきぱきとさばいて、さあ、今夜は一息つくぞと開始時刻10分前にお店に到着すると、わたちゃんが入口で待っていた。ちょっと表情がおかしい。
「場所が分かりにくいからここで待ってるの?」
と尋ねると、
「実はですね、来てみたら私の名前の予約は入ってませんよと言われて、私、となりの市の姉妹店に予約を入れてたみたいで、今問い合わせてもらってるんです」
「な、な、なんと!となりの市?」
「はい。すみません、ホントすみません」
「よしっ、今からそこに行くか!(笑)」
「予約入れたお店にお詫びしてキャンセルしなきゃね」
「はい、ここのお店の方が連絡してくださってます」
「で、今日の参加人数が入れるお店探そう!」
「まだ来てない人がいるから、ここで待って揃ってから動こう」
「ホント、すみません」
「大丈夫、何とかなるさ」
かくして、間違えて予約を入れてしまったお店には、こちらのお店から事情を話してキャンセルの手続きを行い、大人数でも当日入店可能なお店を探した。繁華街の大衆居酒屋が空いていた。鍋のコース料理も出せるということでそこに落ち着いた。
わたちゃんは、終始謝りモードだったが、その可愛さがさらにみんなを笑顔にし、笑い話に変え、なぜかみんなでピンチを乗り越えた感を抱かせてくれた。わたちゃんには、失敗しても周囲を悪い気持ちにさせない魅力が詰まっている。それは、きっと、わたちゃんの普段の行いが、人々に温かさをもたらしているからだろう。
ある朝、出勤して来て、ふとこう呟いた。「今朝、食卓で、インターポールの話題から銭形警部の話になって、ルパンはどうしてお父さんから追われてるのかと聞いたら、何を言ってるんだと、姉からバカにされたんですよ」
「???」
「私、銭形警部はルパンのお父さんだと思ってたんです」
「ん?名前違うし、警察と泥棒じゃん」
「だから、おかしいなぁとは思ってたんです」
「何でそう思ってたの?」
「ルパンが、『とっつぁーん』って言うから」
ガクッ。同時になるほどぉー。そこかぁ。
「どうして、『とっつぁん』って言うんですか?」
「それは、○○のおやじさんとか、兄貴ィーって呼ぶのと同じニュアンスなんだよ」
「そうなんですね!」
「ルパンって昔からあってるじゃん、ずっと親子で逃走劇やってると思ってたのね」
「はい。どうして息子を捕まえられないんだ、一緒に住んでるだろうにと思ってました」
話を耳にした社員はみな苦笑し、わたちゃんらしいと納得したのであった。
会社の人事異動で、わたちゃんとは違う職場になってしまった。同僚として働く空気の中には居られないが、時々食事をしたり遠出に誘ったりしたいと思っている。こんな年齢差があって、声をかけられると、面倒でも断れないかもしれないが、面倒がられても煙たがられても、ジェネレーションギャップがあっても、私は「天使」に会いたいと思うに違いない。それは、彼女に会うことで、自分の心の疾しさに気付き、「ちゃんと生きよう!」と魂胆をリセットさせられるから。そして、彼女の幸せを心の底から願う温かい境地に至れるから。私にとってミネラルのようなわたちゃんの、健康と幸せを遠くから願っている。
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