第12話 皆違うから、皆が違う
何度も書くが、皆違うのだ。考え方、モノの見方。同じ炭素生物で、同じ細胞でできているのに、全くと言っていいほど違うのだ。
視野角、色の認識具合、味の感じ方、肌の造り、脳の構造。全てが同じようなのに違う。それは、一卵性の双子を見ても、よくわかるだろう。同じ細胞から出来上がっているのに、考え方や反応は全く違うのだから。
双子でさえも違うのだから、赤の他人となれば、基本の構造以外は違うというのも納得できようか。
あ「99点じゃあダメなんだ」
い「90点ならいいや」
う「60点は最高点だ」
お「50点で十分取った」
こういう人たちがいたとしよう。『あ』からみたら『う』と『お』は変人に見えるかもしれない。何せ、低い点数で喜んでいるのだから。
逆に、『う』や『お』から『あ』を見たら、やはり変人に見えるかもしれない。なぜなら、99点で悔しんでいるから。
このような光景は、学校で一度くらい見たことがあるかもしれない。どの立場だったかは、わからないが。
とまれ、こういう風に、認識、基準、判断項目、全く違うのが当たり前である。良いか悪いかではなく、ただ違うのだ。違うということを知っているのが大事なのである。
ところが、人は自分と違う人を『おかしい人間』という。違うだけでそう言うのだ。そして、「あいつは頭が狂ってる」「あいつは病気だ」と。
誤解を恐れず、ハッキリ言う。
『人間、誰も彼もが”異常”である』
甘いものが好きな人から見たら、辛い物が好きな人は異常だ。
タバコを吸う人から見たら、タバコが嫌いな人は変かもしれない。
そういうことだ。みんなが違うから、みんなの判断基準も違う。だから、みんなが違っていて当然なのだ。
『自分は普通だ』と思うのが、人間としての人情かもしれない。が、あなたが普通だと、どのようにして周りに認識させられようか。
「私は普通です。変ではありません」そんな風に言う人は、やはり変な目で見られるだろう。
皆が違う。だから一人一人違う。それでいいのであって、何が悪いわけではないし、良いわけでもない。自分がおかしいというならば、周りもおかしいのだ。
ただし、逸脱した人というのがいるのは、これも事実。
考えすぎないのが、普通であるだろう。
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