クレイジー・キッチン 第六話「焼き肉」(1)

第六話 俺はひとり焼き肉が……してぇんだよ!


 白煙と喧騒が蔓延する肉の楽園。そう、俺は焼肉屋に来ている。

 ひとりで来ているのだが、友達がいないとか恋人がいないとかそういう問題ではない。俺はひとりで焼肉を食うのが好きなのだ。

 ふたり以上で卓を囲めばどうしても、誰が焼いた肉だの、どこからどこまでが陣地だの、肉ばかり食っていて怒られやしないかだの、テメェで野菜を頼んでおきながら全く食わない奴がいるだのと、とてもじゃないが落ち着いて食うことができないからだ。

 注文した肉がなかなか来ない。

 店を閉め、片づけを終えた夜十時。こんな時間なら空いているだろうと考えたのが甘かった。仕事帰りの酔っぱらいで店はパンパンだ。どうも俺は勤め人の行動パターンに対する理解が乏しいようだ。

 こんな時に限ってポケットに入れた小説は読み終わり、携帯電話は電池切れだ。メニューを上から下まで眺めるのは三周目で、当然頭に入ってなどいない。

 店の喧騒がどこか遠い世界のもののように聞こえる。

 手持無沙汰な時間には、自然と昔のことを思い出してしまう─。




 料理学校に通っていた当時、『彼女』が適当に材料を買って来て、俺がそれをもとに料理を作る。それが俺たちの役割となっていた。

 たまに変な材料を買ってきて、『さぁ作って』などと言われる。そんなやりとりがとても楽しかった。

 彼女とて料理学校の生徒なのだから俺だけが作るのもおかしな話だが、

「学校から帰ってまで料理なんかしたくないわ」

 などと言って、俺に料理を任せていた。

 もっとも、それはただの建て前。本当の理由はもっと単純だ。

 俺が貧乏人で、彼女が金持ちだった。それだけだ。

 彼女が金を出して、食材を買う。俺が余計な気遣いをしないようにと、つまらない嘘をついていたのだろう。それぞれ役割があるのだから、それでいいのだと。

『財布の中身』がイコール『男の価値』などとは思わない。むしろそんな考え方こそ俺のもっとも軽蔑するところだ。それでも、彼女との育ちの違いを感じるたびに、どこか引け目のようなものを感じていた。

 俺と彼女が対等でいるためには、俺独自の価値観とプライドが必要だった。

 誰よりも美味い料理を作る料理人であること。それが、俺と彼女を繋ぐ唯一の絆であると、頑なに信じていた─。




「お待たせしましたーッ」

 店員さんの声で、俺は不毛な回想を中断した。ひょっとしたら注文を忘れられていたのかも、と少々不安になっていたところだ。

「生中ジョッキ、大ライス、上カルビに牛タン、その他もろもろでぇーすッ!」

「……どうも」

 さんざっぱら待たされたことについて文句のひとつも言ってやろうかと思ったが、それは思いとどまった。

 俺も飲食店に勤める身だ。料理の提供が遅れる原因なんて二十や三十パターンは軽く思い付くし、楽しい食事にケチをつけたくなかったし、なによりふりふり衣装のお姉さんが可愛い。

 男たるもの、ベッドの上以外では紳士でいたい。

 俺はさっそくビールを呷り、トングで肉を掴んで網の上に並べ始めた。

 焼きたてが味わえて、自分で作るというちょっとした楽しみもある。焼肉って奴は贅沢な食い物だ。温かい食い物を前にすると、なにやら心が躍る。冷たい食い物ではこうはいくまい。

 例えば軍隊でも飯が温かいというだけで士気が大きく上がるらしい。

『隊長、昼飯であります!』

『あいつらぶっ殺したらほかほかの飯を頬張ろうぜぇぇ! ヒャッハーッ!』

 ……と、そんな感じで。

 ところがこいつが冷や飯となると、

『隊長、冷や飯であります!』

『あ、そう……』

 このように、『楽しい食事』が単なる『午後から働く為の栄養補給』に成り下がる。車にガス突っ込んで走るのと一緒だ。やはり人間を人間たらしめるものは食事に他ならない。料理こそが文明だ。

 焼けた肉にタレをつけ、ご飯の上にのせて余分なタレを落として食う。ビールをぐっと飲む。タレの染み込んだご飯を食う。以下、エンドレス。

 栄養バランスという点では最悪だが、酒を飲み、米と肉をひたすらかきこむのが男の食事というものだ。たまにはいいだろう。

「ヘイ、姉さん! ビールとカルビとレバー追加よろしく!」

「はい、まいどーッ」

 ああ、それにしても忙しい。焼いて食って飲んでと、ひとりで来るとどうしてもペースが速くなってしまう。これが焼肉の醍醐味と言えばそうかもしれないが。

 一息つくつもりで、何気なく窓の外を見る。─そこにいる、『何か』と目が合った。

 女だ。焼ける肉を恨めし気にじっと見ている小柄な女。ああ、窓に! 窓に!

 俺はこいつをよく知っているはずだ!

 俺は反射的に顔を逸らした。危ない、ひとりで焼肉を食っているところを見られたらあの妖怪胃袋女に何をされるかわかったものではない。

「お肉、焦げていますよ」

「あ、どうも御親切に……」

 そこに、いた。

「ひぇっ!」

 いつの間にかそこにいた、向かいに座っていた。ついさっきまで店の外、窓の外にいたはずなのに。金本香苗、通称カナさん。ウチの従業員だ!

 今はテーブルに両肘をつき、口元で手を組んで、目を細めながら俺と焼ける肉に交互に視線を送っている。

 まるで、網の上で焼ける肉に俺の姿を映し出しているように!

「店長、おごってください」

 何という清々しいまでの図々しさ。もはや要求を通り越して脅迫だ。

「この前……ええ、つい先日ですが。店で焼き鳥パーティをやっていたそうですよねぇ……。私に黙って」

 いいながら、いつの間に用意したのかタレを入れた小皿に、少し焼きすぎた肉をちょいちょいとつけて食べ始めた。

「後片付け、大変でしたよ……。いえ、それはいいんです、従業員の務めですから、朝の掃除は。でもねぇ……」

 どうして俺はこんな、借りちゃいけないところから金を借りた挙句に返せなくなった、みたいなシチュエーションに晒されねばならないのか。

 だが俺は何も言えなかった。飯がからんだこいつの迫力に圧倒されていた。

「焼き鳥パーティに私を呼ばなかったのはどういう了見だってことですわ、あぁん?」

「そうは言ってもなぁ。焼き鳥を作りたくなったのがたまたまカナさんを帰した後だったわけで……」

「世の中には電話って便利なもんがあるでしょう!? 謝りなさい、アレクサンダー・グラハム・ベルに!」

 カナさんのテンションがおかしなことになっている。先日の俺もこんな感じだったのかと思えば傍から見ているのが気恥ずかしくもある。

「焼き鳥はまたそのうちやるとしてだな、とりあえず今日は帰れ。焼肉というのはだね、独りで、自分勝手に、楽しく食うのが醍醐味なわけだよ」

 すると、カナさんは『わかっていないな』とばかりにかぶりを振っていった。

「店長、食事における『自分勝手』と『楽しい』はちょっと違います。似て非なるものです。少しくらいの煩わしさがあっても、皆で囲む食卓はそれ以上の楽しさがあるはずです」

 ずずい、と身を乗り出すカナさんであった。

 いつもならばそんな戯言、一笑に付すところだが、今日はなぜかそんな気になれなかった。皆で囲む楽しい食卓。俺は、確かにそういうものを知っていたはずだ。忘れていたのではなく、心のどこかで理解することを拒んでいたのかもしれない。

 俺の心はいまだに、あの四畳半の部屋に囚われたままだ。それでも、この十数年が何も得るものの無かった人生だとは思いたくない。

 それとカナさんに奢らなければならないかどうかは別問題のような気もしたが、この時ばかりは『へっ、いいこと言われちまったぜ』といった気分が強かった。

 ぱさり、とメニューをカナさんに投げてやる。それが俺の答えだ。

「負けたよ、好きに食ってくれ」

「イヤッホォォォォウ! 店長愛してる!」

「そりゃどうも」

 昔のことを思い出すと、いつも自己嫌悪に陥る。だが、今日は不思議と気分は悪くない。そんな日もあるだろう。

「ヘイ、姉さん注文よろしく! 赤ワインと上カルビとタンとハラミと……」

「俺も追加いいかな。ビール、それと豚カルビとミックスホルモンと……」

 こうして、肉の凶宴は開催された。されてしまった。

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