第56話 脇本優(前)
いつもの朝練は、いつも通り済んだ。今日は来年のチームでエースに上がる岩田の奴が、ストラヴァの区間スプリントでコースレコードの走りを見せたから、さすがのおれも付いていくのが必死やった。なんぼ平地やいうても、十㎞を十三分はないやろ。琵琶湖畔はサーキットちゃうで。
店の掃除は毎日帰りがけにちゃんとしてるから、開店前にやるこというたら、整備作業の進捗状況とか、仕入れの予定の確認と、メールのチェックくらいやな。特製ブレンド豆をきっちり計って手動ミルでカリカリ挽く。この香ばしさ、ほんま落ち着くわ。
おっ、バイシクルスポーツ誌から取材の依頼がきとる。去年、おれが初出場で優勝した、最速店長選手権の優勝インタビュー以来やな。なになに、このたび小誌では、春からのサイクリングシーズン到来に向けて、読者のライド意欲をかき立てる特集のひとつとして、「頭を使えば速くなる!」を鋭意企画中です。折り入って、脇本様には、忙しい仕事の合間を縫っての効率的なトレーニング方法などをご教授いただきたく・・・
ほおー、ええやんか。ここの雑誌、ケチやから大したギャラにはならんけど、今年の最速店長選手権を連覇するためには、他の連中の目を欺いておくことが大事やからな。みんな、おれの脚質、平坦型パンチャーやと思ってるやろ。ヒルクライムなんか苦手で嫌いで練習してへんと思ってるやろ。ま、実際そうやけど。
そこでや、平坦を速くするには、ヒルクライムトレーニングが有効です!って、まことしやかに主張するわけや。普段の練習では使えないいろんな筋肉をバランス良く活用することで、いざというときのスプリントでもロングライドでも底上げができますよって、適当なことを大まじめに言う。
全国誌におれがヒルクライムトレーニングに頑張ってますって記事を、どーんと載せてもらったら、真面目でアホなやつは誤解して真似しよるし、そうでなくても、おれのことを「筋違いの間抜けな練習しとるから、今年は優勝圏外や」って、油断するに違いないわ。名付けて「脇に目を逸らせて本命のおれが優勝や」作戦。うーん、天才やな、おれ。
よっしゃ、さっそく担当に返事しといたろ。誰やろ。鉢元健一。鉢元・・・って、あの乗鞍で年代別優勝したカメラマンのハチケンか?ひょっとして、富士ヒルで総合優勝した、あのハチケンか?八ヶ岳でも東京ヒルクライムでも勝っとる、あいつか?うそやろ、ありえへんやろ。今さっきの作戦は撤回や。おれが上りに弱いことバレて、恥かくだけやんけ。
・・・いや、待てよ。これは逆にチャンスかもしれへん。確かにハチケンには、おれの弱点ばれるやろ。でも、あいつかってプロのライターや。原稿料もらってる以上、取材先を悪くは書けへんはずや。仮にあいつが酒の席でおれのネタを肴に嗤ったところで、おれのアホさ加減が風評で伝わるから、仮に今年負けても言い訳になるし、おれの作戦の目的としては、むしろ好都合やん。
よっしゃ、これでいこ。滋賀県の山いうたら、比叡山。そやけど、比叡山や奥比叡ドライブウェイは普段自転車は走られへんし、しょせん五百メートルの大したことない山や。岐阜県にまたがる伊吹山は上りごたえがあるけれど、ここも普段は自動車道や。やっぱし、関西でヒルクライムの聖地いうたら、六甲山やな。あれ?今の時期、上の方とか、凍結してへんやろか。まあええわ。どんだけアホな練習してるねん、このお兄ちゃん、と思わせるのが一番のポイントやからな。
*
「良い天気になりましたね。ちょっと寒いですけど、上ってるうちに暖まりますよね。いやー、久々の六甲東ルートだな」
阪急逆瀬川のアピア駐車場にセレナを停めて、ハチケンが引っ張り出したのは、五㎏まで軽量化されたエモンダや。おれのマドンとかぶらんのは良かったけど、その軽さ、反則やろ。交換してほしいわ。ほんで、何でまた、そんな嬉しそうな顔して、右肩にでっかい一眼レフ担いでるねん?まさか片手乗車で東六甲登るつもりやないやろな。普通、スポーツカメラマンの撮影取材って、ワンボックスに同乗して、助手席の窓越しに撮すもんと違うんかい。本音言うたら、これくらいで丁度ええハンデなんかもしれんけど。
「あ、ご心配なく。これ、見た目よりは軽いんで。エタップドツールの取材の時も、百三十五㎞で標高二千三百あるんですけど、この格好で走りましたんで」
ばけもんや、こいつ。勝負にならへん。まあ、ここは割り切っていこ。おれの情けない姿は内心失笑してもらうとして、途中の写真はちょっとええ格好しとかな、話に信憑性が生まれんしな。
逆瀬川駅前の踏切がスタート地点。最初に撮影してもらう間に、何人かローディが抜いていった。この寒い時期に何を考えとるんや。あいつら多分、六甲ひぃひぃサークルの連中やろ。雨でも雪でも一年中六甲上ってるって、関西名物というか、となりの人間国宝やな。
逆瀬川は、ほとんど水が流れてない。川の両側に道があるけど、交通量の少ない左側を走る。正面には丸っこい甲山がきれいに見える。川沿いの住宅街やゴルフ場脇を抜けて、県道一六号線は、最初のうちは緩い。信号が邪魔やけど、しゃあない。ハチケンはぴたっと後ろに付いて、時々シャッター音が聞こえる。おれのケツ、そんなにセクシーなんやろか。背中に漂う哀愁がたまらんのやろか。
そんなアホなこと考えて走ってるうちに甲寿橋の交差点を抜けて、勾配が十%くらいに上がる。左側ののどかな側道に入って、そのまま盤滝トンネル東交差点に着く。ここまでのアプローチコースが、東六甲の約半分、距離は六㎞弱。ここまでは余裕、どうってことない、平均勾配五%強、三百メートルアップ程度や。アウターでも走れんことはない。
問題はこっからや。インナー四十二Tに落とす。スプロケは、まあ軽めに二十三Tでいこか。トルク勝負の脚やないしな。路肩にカーブナンバーの標があるけど、それは見んことにする。芦屋と有馬を結ぶ芦有道路の宝殿ICまでの三㎞がきつい。平均で十%超える。
見返橋のヘアピン抜けた辺りが最大で十六%や。さすがにローギヤ二十五Tに落とす。汗もぼたぼた落とす。ハチケンはカメラ落とす、ことはないわ、さすがに。撮影されてるの気にする余裕があらへん。まあ、頑張ってます感が出たら、それでええやろ。
九十九折橋から宝殿まで、十三%から十五%が続く。古傷の左膝が痛くなってきた。あんまり無理したら、ほんまヤバいわ。なんやらラグビー選手みたいなガタイのええおっさんに抜かれた。あれがひょっとして、ひぃひぃサークルの西やんか。年間二百本以上も六甲上ってるって、異常やろ。ハチケンもあいつに取材したらええやん。
やっと宝殿に着いた。自販機ないんか。休憩したい。そやけど、自分からは言われへんし。
「脇本さん、ここ、眺望いいんで、ちょっと撮影します。いったん停まっていただけますか」
ハチケン、君は仏様や。どんだけ空気読めるねん。ええ婿さんになれるわ。こっから鉢伏山トンネルを抜けて一軒茶屋までは、割とラクや。山岳TTやる奴は、ラストスパートや。実際、四人くらいに抜かれた。
やっと着いた。あーしんどかった。距離は十一㎞余り、平均七%強、八百二十四メートルアップ。一軒茶屋前では、さっきのローディたちが談笑してる。おしっこ行きたくなったけど、道沿いのトイレは汚いのでパスや。ハチケンが、どこかでインタビュー場面を撮りたいって言うから、このまま西に進んで、六甲山牧場まで行くことにした。それにしても、ハチケン、ほとんど汗もかいてへんし、しんどそうな顔も見せへん。すごい奴やな。
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