第55話 シホ

 台北からMRTに乗って、松江南京駅の近くに、こじんまりとたたずむ三福茶行。茶園三代目張國書さんの妹さんである張小慧さんが店主をしている。日本語がとてもお上手ですねと言ったら、日本人はたくさんお茶を買ってくれるから、商売の役に立つからねと笑う。それは半ば照れ隠しの言い訳だろう。日本や日本人が好きという気持ちが、接客からも十分伝わってくる。

 いろいろ試飲させてもらったが、やっぱり阿里山金萓茶が一番おいしい。烏龍茶のような苦みがなくて、ふんわりとミルクの香りがする。柔らかくて優しい、台湾の温かくて親切な人たちを象徴するような、最高の癒し系のお茶だ。

 明日はいったん日本に帰る。西宮市に引っ越して、実業団チームに入ったミドリが関西国際空港まで迎えに来てくれる。ミドリには青のMサイズと、メグには白のSサイズ、スペインで荻原真理子選手にサインしてもらったTシャツがお土産だ。台湾茶は自分と家族へのお土産。

 四月にポルトガルのリスボンに降り立ってから、もう五ヶ月になる。日本で少し休んで、またアルバイトしてお金をためて、次はオーストラリアだ。

「二年前の九月ごろに、ホンダのスーパーカブに乗って来た、日本人の青年を知りませんか?」

 ちょっと迷ったが、やっぱり気になって尋ねてみた。やはり分からないという。けど、わたしもしつこい。

「花蓮で旅館をしている黄さんのところで、震災復興のボランティアをしていた人なんです。祐二っていう、二十五歳で、背が高くて細身で、ちょっとクールな雰囲気の人なんですけど・・・」

「・・・ああ、思い出した。いたよ、いたいた、そんな人。黄さんの紹介で安くしてもらえるって聞いたんで寄りましたって。一緒に写真も撮ったから見てみる?ちょっと待ってね」

 まさかと思ったけど、急にドキドキしてきた。メグにバラをプレゼントして励ましてくれた人。日本を発つときミドリから「メグにはまだ内緒にしててね」と口止めされて話してくれた、ミドリの初恋の人。わたしの中で勝手にルックスもイメージしちゃってるけど、もし期待はずれだったらどうしよう。いや、違う。逆に想像通りだったら・・・

 張さんが店の奥からタブレットを持って出てきた。そうだよね、今時、フィルム写真はないよね。「あ、これこれ、この人です」

 店の玄関で張さんとご主人にはさまれて写っていたのは、黒い長袖のシャツを着て、少し頬が痩せて、やや上目遣いの切れ長の瞳が印象的な、黒髪の青年だった。無表情にも見えるが、口角がわずかに上がっている。感情を出すのが苦手な人だって言ってた、ミドリの話に納得する。

「あ、お客さん、なんで泣いてるの?あ、聞いちゃダメか、ごめんなさいね」

 せっかくの厚意なのに、こちらこそ申し訳ない。自分でも知らない間に涙があふれていた。メグが会った時より、ミドリが会った時より、わたしの方が、その後の祐二さんに会えた。この世界から居なくなる、ほんの少し前の祐二さんに。

「ほんとにごめんなさい。急に変なことお願いしちゃって。わたし、祐二さんの知り合いの知り合いなんです。ずっと気になってて、今日やっとお目にかかれました。嬉しいです。ありがとうございます」

 張さんには、祐二さんがいなくなったことは伝えなかった。なので、写真をメールに貼り付けて送ってもらうようなこともしなかった。だけど、わたしの心のフィルムには、しっかり焼き付けておいた。明日、ミドリに会ったら伝えよう。メグにはどうしようかな。でも、彼がボランティアで台湾の人たちをたくさん笑顔にした事実は、伝えていきたいな。祐二さん、一度お話してみたかった。できたら、短くてもいいから、一緒に旅がしたかったな。

           *

 大都会の台北に比べたら、人口十万人余りの花蓮なんて、片田舎なのだろう。でも、とっても気持ちが落ち着き、穏やかになるのは、わたしが生まれる前の昭和の古里っていうような、古き良き日本の風景が、高尾から反時計回りで東部に来た時からずっと感じていた。第二次世界大戦なんて、高校の世界史でさらっと流したくらいで、ほとんど知識もないけれど、もともと日本からの移民が多く、終戦までは日本の領地として町が整備され、神社が造られ、日本語教育が強制された。

 今でも日本人村っていうのは各地に残っているけれど、それはほとんど遺跡レベルの話で、実際に日本人が暮らしているわけじゃない。でも、高齢者や、若い人でも興味のある人は、日本語をかなり話せる。わたしは台湾語は簡単なあいさつと料理のメニュー位しか話せないけれど、片言の英語と、片言の台湾語と、日本語をチャンポンにしたら、たいていのことは通じる。

 その日は、太魯閣峡谷を百五㎞ヒルクライムするつもりで乗り込んだのだけれど、都心部と違ってコンビニも少なく、水や糖分が十分でなかったことや、もうすぐ日本に戻れるという気の緩みが疲れを生んで、熱中症とハンガーノックが合わさったようで、フラフラの状態だった。

 とりあえず今日は無理と判断して、壽豊郷あたりを、荷物満載のパニアバッグをぶら下げたグラベルロードを引きずるように、フラフラと走っていた。炎天下の畦道で、ちょっと休憩と思ってへたりこんだら、そのまま立ち上がれなくなって、やばい、これはほんとにまずいと思いながら、ぼんやりしていると、「大丈夫ですか?」と日本語で、通りすがりに声を掛けてくれたのが、たまたま近くで旅館をしている黄方正さんだった。

 外国を自転車で旅をする話題になると、よく聞かれるのが、言葉や治安、衛生面の話の次に、宿の取り方や、お金の支払い方である。言葉や治安は何の心配もない。生水は基本的に飲めないが、今日まで困った事はなかった。宿はスマホアプリで簡単に検索できて、予約と決済までできる。素泊まりで二千円くらいが相場なので、少なくとも日本を旅するよりはずっと安い。

 何より食べ物がおいしい。台湾は肉と野菜炒めをご飯にかけたり、あっさり味のスープや、ひき肉入りのもちもちとした団子っぽい粉ものなどが中心なのだが、見た目は地味でも、地元の人が集まる屋台ははずれがなく、どこに行っても安くて美味しい。最初だけ、八角の独特な風味が気になったが、すぐ慣れてしまった。ヨーロッパでも西アジアでも、ずっと日本食が恋しかったが、台湾にいる間は、ずっとここで暮らしても良いとまで思える。

 黄さんは、数年前に亡くなったおじいさんが、日本の開拓団に世話になったのだという。母国語を禁止され、日の丸を強要される生活は、本音の部分では許し難い、耐え難いものがあったはずだと思うけれど、少なくともわたしたち日本人に対しては、一切恨み言のような話はしない。

 台湾人はみんな親日だろうという甘えや思いこみを捨て、節度を持って接するように気をつけていたが、やっぱりみなさん優しく親切にしてくれる。本当にありがたい。こちらも日本人代表のつもりで、礼を失しないよう振る舞わなければという気持ちになる。

 案内された部屋はさすがに畳敷きではなく、フローリングの洋室だった。自転車も部屋に持ち込んで良いと言われたので、ついでに古いタオルをもらって、自転車の掃除をする。チェーンを拭いたり、細長くちぎって、スプロケットの油や泥汚れを落としたり、まめに手入れをするのが故障や事故の予防になる。

 各部屋に風呂はなくて、宿泊者が順に浴場に入りに行く。建物はそんなに古くないのに、天井からのひびをモルタルで埋めた後がある。黄さんに聞けば、この辺りは地震国台湾の中でも一番ひんぱんに地震が起きるところで、浴室のひび割れは、百十七人が亡くなった、マグニチュード6.6の台湾南地震の時の損壊で、日本人の青年に塗ってもらったということだった。

 浴室の使用に特に支障はなかったので、とりあえず放っておいたのだが、ホンダのスーパーカブをレンタルして環島(台湾一周)していた、日本人の青年が、花蓮の町はいろいろ壊れて大変ですね、ボランティアとして復興のお手伝いをしたいので、しばらくの間、ここに安く泊めてもらえないかと言って来た。

 黄さんとしては、最初は何となく全面的に信用はしていなかったが、パスポートと財布を預けられて、今日はここの掃除をさせてくださいと言ってトイレ掃除から始めるものだから、少し様子を見ることにした。

 そうしたら、期待以上に一生懸命、土木作業やら廃品回収やら、深夜の交通警備員など、人の嫌がることも見返りを求めず働くので、二週間ほど兼用倉庫の一室と三食出して泊めてやったのだそうだ。最後の方は、日本のおにいちゃんと慕われて、跡継ぎの居ない農家の畑仕事や、共働きの家庭の小さい子の遊び相手までしていた。

 自分のことはあまり話さない青年だったが、いつも穏やかで作業は手を抜かずていねい、身の回りをきちんと片づけていて、清潔感のある好青年だった。彼が去った後で、黄さんが近所の人から聞いた話では、彼は赤ん坊の頃、大地震で家族を失ったので、災害の被災者に対しては、何とか力になってやりたいという気持ちが、とても強かったのだという。

 黄さんは、彼にずっと居てもらってもいいかなと思い始めていたのだが、祐二と名乗るその青年は、約束があるから明日日本に帰りますと言って、急に暇を告げてきた。一泊三食につき六百台湾ドル(約二千円)で精算してほしいと言うものだから、こちらは皿洗いや買い出しまでしてもらっているし、花蓮の復興のために働いてもらったのだから、給料を渡すのが当然で、お金は絶対受け取れないと言って、少し押し問答になった。結局、黄さんが近いうちに日本に遊びに行った時には祐二さんが全面的に世話をするという約束と引き替えに、お金のやりとりは無しになった。

 黄さんが、懐かしそうに、その話をしている間、わたしは涙をこらえきれなくて、ハンカチで目頭を押さえながら、一生懸命笑顔を作っていた。祐二さんって、歳はいくつですか?二十五って言ってました。日本のどこの人ですか?神戸って言ってました。バイクが好きなんですか?はい、日本には一番速いバイクが置いてあるけれど、台湾に持ってこれないので、台北でホンダのスーパーカブをレンタルしました・・・やっぱり間違いない。あの祐二さんだ。

 黄さんも、話の途中から、わたしの様子を見ていて、祐二さんが、もう居ないということに勘づいたようだ。わたし自身は、直接は一言もそんなことは言わなかったけれど、台湾の人の空気を読む力って、すごい。

「それで、次の日に祐二さんは、日本に帰っていったんですね」

「はい、電車に乗れば台北まで三時間で行けます。原付バイクでも半日ですね。台湾土産には何が良いですかって聞かれたので、わたしの知り合い、おじいさん同士が友だちで、お茶屋さんをしているお店に寄って、おいしい台湾茶を買ったらいいよって、言いました。張さんっていう人で、三代目、わたしの友人の張國書が、南投県鹿谷で茶の栽培と、熟成や焙煎の工場を経営しています。彼の妹が、台北のお店をやっているのです」

 ほかに何か、祐二さんの思い出になるようなものはないですかと聞いたら、食器棚の奥から、陶器のぐい飲みを出してきた。三十年ほど前に、張さんが伊賀の柳生の里を訪れた際、お土産に買った緋色の柳生焼、後から調べたら、焼いている窯元が一つの家しかなくて、幻の焼き物と言われ、今ではとんでもない値が付いている。それが、地震で割れてしまって、捨てるに捨てられなかったのを、祐二さんが、「二千台湾ドル負担してもらえれば、『金継ぎ』ができますよ」と言う。彼を信じて任せたら、通販で金継ぎセットを注文し、半日かけて、漆と金箔で美しくつなぎ合わせてくれたのだという。話す黄さんの目にも涙が浮かんでいる。

「もう、うちの宝物ですよ。壊れたものも、ちょっとした智恵とか、優しさで直すことができる。完全に元通りにはならないけれど、また違った価値が生まれてくるんですね」

 台湾の人が酒を飲んでいるのを、夜市でもあまり見たことがないが、黄さんは冷蔵庫から福寿という日本酒を出してきた。ノーベル賞晩餐会で飲まれているのをテレビで見て、取り寄せてみたが、もったいなくてずっとしまっていたらしい。

「シホさん、ありがとう。あなたのおかげで、祐二さんの優しさをまた、思い出すことができました。この盃で、一緒に飲みませんか」

 いや、お礼を言うのはこちらの方だ。福寿はきりっと辛口で、端麗でも芳醇でもない、すっきりした旨みがある、祐二さんのふるさとである灘の酒の代表格で、脂っこくない台湾料理には、ことのほか合った。

「シホさん、台北に行ったら、ぜひ三福茶行に寄って、お茶を買ってください。わたしの名前を言ってもらえれば、安くしてもらえますから」

 黄さんは、まだ五十代だが、来年には旅館を息子さん夫婦に任せて、隠居生活をするつもりだという。来年わたしが日本にいるかどうかは分からないけれど、日本に遊びに来てくれたら、わたしが全面的にお世話させていただきますと約束した。

 翌朝、すっかり元気になったわたしが自転車で宿を出る際、黄さんはずっと手を振りながら見送ってくれた。振り向くと危ないので顔は前を向いていたけれど、黄さんの温かいまなざしはいつまでも背中に残った。

 ここから台北まで、山を越えて百六十㎞。日本人サイクリストが亡くなる事故もあったし、断崖や落石には気をつけなければいけないけれど、途中の宜蘭で一泊するとして、明日の午後には三福茶行に着ける。右手は太平洋。はるか先には、宮古島も見える、ことはなかった。宮古島は山が全然ないので見つけられないらしい。水もたっぷりもらったし、補給食におにぎりも作ってもらった。黄さん、ありがとう。絶対またお会いしましょうね。じゃ、行ってきます!

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