第54話 ミドリ(後)

 民宿の朝食は午前七時ということだが、それではちょっと遅いので、おにぎりだけ作ってもらって、七時にチェックアウトした。霧雨で、少し寒い。集合場所の駐車場には、ぱらぱらと自転車を連れた参加者が集まってくる。後で聞いたら、この年の参加者は六百七人だった。あれから毎年増えて、今は千人を越えているが、村長のあいさつなどもあって、村興し的なアットホームな雰囲気である。

 オープニングセレモニーが始まる。朝礼台みたいな舞台に、高畑大スタントの高畑団長がステージに上がり、イタリアのプロチームから山田選手らも加わって、参加者全員でストレッチを行う。段々緊張してきた。

 午前九時。嬬恋村国民健康保険診療所前から順次スタート。先頭はエリートカテゴリーの数十名で、わたしのいる三十五歳以下女子のクラスは、レディファーストなのか、その次にスタートさせてもらえる。みんなわたしより速そうに見えるが、実際そうだった。スタート自体は、流れにまかせてスムーズに行けたが、初っ端から、万座ハイウェーの料金所までの一般道の上りがきつかった。後ろから来た人にどんどん抜かされるが、それは最初から想定していたので、気にしない。ビリになっても、タイムオーバーで足切り回収されなければいい。

 ファンライドコースのゴール地点、足切り第一チェックポイントの嬬恋高原ゴルフ場が、スタートから五.七㎞地点。ここまでで四十分くらいかかった。しんどい。もう帰りたいと思ったら、緩い下りになって、気持ちも少し回復する。そこから、料金所を抜けて万座ハイウェーへ入る。路面が良くて走りやすいけど、濃霧で眺望はさっぱり見えない。同じようなペースの人を見つけて、後ろにくっつく。路肩に残り十㎞の表示が見える。六十分くらい経過、あと半分、まだ半分、もうやめたい。何をしてるんだろう、わたし。自己実現とかじゃ、モチベーションがもたない。祐二くんに良いところを見せたい。祐二くんにほめてもらいたい。でも祐二くんは来ない。涙があふれてきた。

 足切り第二チェックポイントの嬬恋高原、スタートから十二.五㎞地点を通過した。八十分くらい経過。何も考えられない。もう惰性しかない。でも、これって、今のわたしそのままだよね。既にライドを終えた下りの集団とすれ違う。「頑張って」、「もう少しだよ」・・・励ましの言葉は素直に嬉しい。でも、あと七㎞くらいあるよね。もう少しってのは、大嘘だよね。サイクリストは嘘つきばかりって聞いたことあるけれど、やっぱりそうだね。

 残り五㎞、お、意外とこのまま行けるかも。残り二㎞、お、やるじゃん、わたし。平坦になる。嬉しい、ラクに進むよ。下り、おー、これだね、生きている喜びっていうのは。あれ、まだ最後の上り?嫌だ~、最後はラクになりたいよ。ここで頑張ったら、祐二くんにまた逢えるはずと自己暗示をかけて踏ん張る。・・・やっとゴール。手元の時計で一時間五十三分。よくやった、わたし。

 寒い。霧で何も見えない。流れにくっついて行くと、おもてなしブースに着いた。温かいコーンスープが五臓六腑にしみ渡る。チームで参加した人たちはみんな、ハイテンションになってハグしまくってる。わたしは一人でちょっと淋しいけれど、単独参加の人も多いので、気にしないことにする。

 スピーカーから放送が流れてるので、足首に付けたタイム計測用のチップを返却するのを思い出した。下の受付で預けた荷物が上がってきているので、それを受け取って(シートに並べられているのを勝手に持っていって)、更衣室で着替える。女子の更衣室があるのは嬉しい。集団と一緒にメイン会場まで下ろうとしたら、祐二くんが駆け寄ってきたのでびっくりした。ウソでしょ。こんなことって、この世界にあるんだ。こういうときにハグできる人はうらやましいけど、わたしは無理。でも、めっちゃ嬉しい。ハグしたい。

「来てくれたんだ!いつから待っててくれたの?」

「ごめんごめん。結構前からゴール前にいたんだけど、時間が読めなくてさ、ちょっと外した時にゴールしたみたいだね。さっき更衣室から出てくる時に気が付いたんだ。あ、覗いてたわけじゃないから、そこは信じてね」

 メイン会場では十二時半から、表彰式が行われていた。優勝した人は五〇分だって。速すぎる。女子の優勝者は一時間五分。まあ、別の世界の人たちだ。わたし的には、タイムオーバーしなくて、ケガもなくて大成功だった。

 休憩ブースでは名物の笹まんじゅうや、茹でたジャガイモ、パンケーキ、カボチャのかりんとうなどが食べ放題だ。温かい炭水化物が本当においしい。記念品のキャベツ形のサコッシュと、キャベツ一玉をもらう。サコッシュはかわいいが、生キャベツ、どうやって持って帰ればいいんだろう。とりあえず祐二くんに預ける。参加者特典で、休暇村嬬恋鹿沢の入浴が半額になるので、温泉に入って汗を流す。とっても気持ちいい。祐二くんも、ただ待ってるのはつまらんと言って、温泉に入る。

 前橋までの長い下り、わたしが自転車で飛ばして、祐二くんがほとんど慣性で随行する。たった二時間の、これってランデブーっていうのかな。古いのかな。信号待ちのたびに横に並んで、黙って目を合わせた。これが、今までで一番思い出に残る、楽しいサイクリングだった。メット越しの祐二くんの表情はよく分からなかったけれど、この世界で、わたししか知らない、祐二くんの素顔、確かに目元が微笑んでいたよ。

 午後六時にママがJR前橋駅前まで車で迎えに来る。あと二時間で祐二くんとは、お別れだ。駅近くのけやきウォークに行く。サーティワンも入っているけれど、さすがにもういいか。お昼ご飯がイベントコーナーの野菜だったので、お腹が空いた。鎌倉パスタに入って、鎌倉ベーコンと瀬戸内レモンのチーズソースってやつを頼む。辛いもの好きの祐二くんは、セミドライトマトの辛口ペペロンチーノにした。

 今まで、ろくにデートなんかしたことのないわたしは、こういう時の所作とか話題にとても苦労する。でも、祐二くんなら、いきなり重い話でもなんでも受け止めてくれそうな気がする。

「今思いついたんだけどさ、わたし、高校出たら、何か自転車に関わる仕事がしたいな。落ち込んだり、元気がない時って、あるでしょ。絶対、これからも。でも、自転車に乗ってたら、しんどいのはしんどいんだけれど、それでも一踏みずつ、現実のわたしも前に進んでる、上に上ってるって、実感できて、風景が少しだけ明るく見えるのよ」

「そいつはいいや。オートバイでは、エンジンに頼ってる分、そこまで自分の居る世界を輝かせるほどの力はないからね。できたら、自分だけじゃなくて、ミドリちゃんが自転車に乗ることで、周りのみんなが一緒に前を向けるような、楽しんでできる仕事とか、楽しいだけじゃなくて、しんどさも共有できる仲間がいる環境がいいよね」

「うん、ありがとう。わたし、調べるのは得意だから」

「そうだね、きっと見つかるよ」

 祐二くんのペペロンチーノ、一口味見させてもらった。辛かったけど、辛みの中に酸味とか甘みもあって、おいしかった。

「ねえ、祐二くん。こんなこと言うの、わたし、初めてっていうか、とっても恥ずかしいんだけど・・・」

「いや、大丈夫」

「また、いつか、どこかで逢えるかな?」

「あ、ごめん。約束はできないんだ。おれって、約束に縛られちゃうから。相手が誰でも、縛られるのは嫌なんだ。でも、また逢えたらおれも嬉しいよ」

「じゃ、また連絡はしてもいい?」

「ああ、待ってる」

「・・・でも、一つだけ、約束してくれる?こんなこと言ったら、怒られるっていうか、気を悪くすると思うんだけど」

「何?何言われても怒らないのは約束するよ」

「なんか、わたし、わたしのただの思いこみだったら、その方がいいんだけど。わたし、祐二くんが心配なの。祐二くんって、どこか自分を突き放しているように見えて。もっとわがままっていうか、自分をほんとの意味で大切にしてほしい」

「ああ、言いたいことは何となく分かる。すごい鋭い感性だね。びっくりした。おれはこの世界に居ない方がいいんじゃないかって、ずっと思ってるから、ミドリちゃんも部分的におれと似たところがあるから、分かっちゃったんだろうね。自分を大切にだね。分かった。よく考えて行動するよ」

 それが、祐二くんとの最後の会話だった。祐二くんが約束を守ってくれたのかどうか、わたしには判断できないまま、淡すぎる初恋は終わった。わたしが祐二くんを、この世界につなぎ止める錨になることはできなかった。でもそんなこと、思うだけ傲慢なんだよね。わたしは、祐二くんとのわずかな思い出を大切に抱えて、毎日をきちんと生きていく。それしかできないし、それでいいんだよね、祐二くん。

           *

「はい、お疲れ様。みんな、きつかったか?特にミドリ。素質はいいもの持ってるんだから、あとは鍛えて、開花させて、うちの機関車が抜けた穴をしっかり埋めてくれよ。頼んだぞ」

 浜監督は厳しいことを言うけど、指示は明快で、素直に聞く気になる。練習の後にカフェや焼肉屋に連れて行ってくれるのも楽しみだ。わたしがお金にならない実業団ロードレーサーとして、全力を傾けられるのはせいぜい二、三年だろう。その後にどんな人生が開けるのか、ユーチューバーで食べていく見通しも自信もないけれど、今はこのチームで頑張っていこう。

 年末にはメグたちの大阪公演があり、久しぶりに会える。インスタ見てたら、結構大人ぽくきれいになった。シホさんは、台湾一周中で、来週には日本にいったん戻ってくる。またすぐオーストラリアに渡るって言ってたから、この次に三人で会うのは難しくなる。シホさんのお土産話、早く聞きたいな。

 そうだ。せっかく関西にいるんだし、今度のお彼岸には、西宮から自走して、守山のおばあちゃんのお墓参りに行こう。あの日、おばあちゃんがロードバイクを買ってくれなかったら、今のわたしも、祐二くんとの出会いもなかったのだから。

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