第53話 ミドリ(中)

 人は予想通り多かったけれど、花火は幻想的で素晴らしかった。ひとが生きているはかなさや、はかなさ故のきらめきみたいなものが伝わってきた。自転車で観にきている人は多くはないけれど、道路が混雑するのが嫌で、フィナーレが終わるとすぐにドマーネにまたがった。大津から守山のおばあちゃんの家まで、自転車で三十分くらいである。

 湖畔で暴走族風の若者がケンカしているのをを目撃した。普段なら、自分が巻き込まれるのが恐いので、見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎるのだが、このときはなぜだろう、足が止まった。

「じゃあ何か?後ろから煽って、前に割り込んだてめえは、一切悪くないと言い張るんだな?」

 真夏に長袖長ズボンの黒い革スーツを着た、無精髭にサングラス、オールバックにピアスだらけの、大柄で恐そうな男が、細身で長髪の、ちょっとヒネた雰囲気の若者の胸ぐらを掴んで怒鳴っている。何人もの人たちが遠巻きに見ているが、誰も何もしようとしない。こんな場合、大事になる前に一一〇番通報した方がいいんじゃないだろうか。

「煽っちゃいないです。ここ、法定速度六〇キロでしょう。あんたが花火見ながらトロトロ走ってるのが危ないから、ちゃんと車間空けて追い抜いて、信号に従って停車しただけですよ。おれは何も危険なことはしてません」

「おれはウソが一番嫌いでな。自分に都合悪いことでも、事実なら認めるよ。花火見て脇見運転したのは間違いない。だが一瞬だ。一秒あるかないかだ。六〇キロ制限も当然知ってる。おれは人に迷惑かけるのが二番目に嫌いなことなんだ。自分が捕まるのも嫌だから、交通ルールは基本守ってる。

 いいか、問題はここからだ。お前は今さっき、トロトロ走ってるとぬかしやがったな。見たところ、旧車のカタナじゃねえか。適当にチューンもしているようだ。そいつで、おれのブルバードに勝てたら、今のトロトロ発言は聞かなかったことにしてやる。どうだ、勝負しろ」

「いや、どんな勝負だか知りませんが、素人がバイクでおれには勝てないっすよ。恥かく前にやめといた方がいい」

 その時、なぜわたしが物陰から前に歩き出したのか、今でも分からない。わたしひとりで何とかできるとは思っていなかったけれど、居ても立ってもいられなかった。

「おい、そこの女。ああ心配するな、おれが三番目に嫌いなのは暴力だ。ま、ときどき自己嫌悪になるけどな。今は誰も殴ったりしないから安心しろ。これからこいつとバイクで勝負するから、お前、審判してくれ。なに、難しい事じゃない。この場所におれか、こいつか、どっちが三十分と一時間に近いタイミングで戻ってくるか、その証人になってくれ。分かったな」

 気が付くと、周りの野次馬は誰一人いなくなっていた。わたしはまた、大人が信じられなくなった。同時に、警察を呼ぶのも違うかもと思い、成り行きで琵琶湖サーティワンという、北湖一周百五十㎞を、時計は見ず、信号を守ると言う条件で走って、三十分と一時間に近い方が勝ちというゲームの審判をさせられることになった。

 おばあちゃんには、小学校時代の友人に偶然逢って、晩ご飯を一緒に食べるという言い訳を電話で伝えた。多分信じてくれるだろう。実際は、近くの吉野家に行ってから、タリーズで時間をつぶしていた。でも信号守った上で平均時速百キロなんて、今夜はたくさんパトカーも出ているし、絶対途中で捕まって、戻ってこれないよね、半分はそう期待していた。

 午後八時丁度にスタートして、わたしは九時二十分に戻って、ぼんやりと暗い道の先を見ていた。九時三十分きっかり、刀みたいな銀色でぴかぴか鋭く光るオートバイに乗った青年だけが戻ってきた。ぜんぜん嬉しくはなかったけれど、なぜか涙がこぼれそうになった。

「ああ、あのケンカ売ってきた人?平井さんって言ってね、おれと同じ神戸の人なんだ。地元じゃ結構有名人でさ、本当はそれほどこわい人でもないし、悪い人でもないんだけど、警察のウケと世間の通りは悪いよね。どこでいなくなったのか分からないけど、まあ、おれ以外の人が白バイ捲くのは難しいんじゃないの」

 巻き込んじゃって悪かった、何かおごらせてと言うから、近くのサーティワンに行って、わたしはチョコミント、彼はポッピングシャワーを頼んだ。こんなピンクっぽくてきらきらした店、全然落ち着かないと言いながら、結構美味しそうに食べていた。

 祐二くん。当時二十三歳、高卒、無職。ちょっと世の中を斜めに見ている感じはするけれど、雰囲気はとても穏やかだし、同年代のオトコのような浮ついた感じやギラギラする嫌らしさがない。オートバイは好きだけれど、自分のやりたいことがないから、とりあえず東京行って大学に入るつもりだと言ってた。

 わたしは、高校出てもやりたいことがないし、しばらくプーになると言ったら、そうだね、気が乗るまでは何も無理にしなくていいよと言ってくれた。自分ではそう思っていたけれど、ママも含めて、改めて人にそう言ってもらえたことは初めてだったので、何だか安心できた。

 初対面の男の人と、こんなに話をしたのは初めてだ。祐二くん、上の名前はなんて言うの?って聞いたら、大人の都合でいろいろ変わるのが嫌だから、もう忘れたと言っていた。わたしも、多分このままパパとママが離婚したら、ママとおばあちゃんの名字の息長に変わる。でも、そんなこと、どうでもいい。わたしがわたしらしく生きていけばいいんだ。でも、わたしらしさって、何だろう。ねえ、祐二くん、分かる?

「そんなこと、おれに分かるわけないよ。でもさ、せっかく良い自転車買ってもらったんだろ。これは乗らないともったいないと思うよ」

 なんだか祐二くん、わたしが心の底の方で思っていることを、言葉にしてくれる。無理に引っ張るんじゃなくて、寄り添ってくれる、そっと背中を押してくれる感じがある。これって、いいよね。ロードバイクで人生変わるってブログ、よく見るし。

「あのさ、これ、単なる妄想なんだけど、宇都宮の自宅までロードバイクで自走できないかなって、グーグルマップ辿ってたの。そしたら、途中に群馬県の嬬恋村っていうのが目に止まったわけ。何となくロマンチックな響きじゃない。もちろん、行ったことはないんだけど。それでね、ついでにイベントカレンダー検索したら、自転車で千メートル上るヒルクライムって、一応レースなのかな。何でも村を挙げてのイベントがもうすぐあるんだよ。何のごまかしも利かない、文字通り自分で自分を高めるって感じが良くない?

 なんでこんな話してるのかっていうとさ、出ようかって迷ってるの。まだロードバイク乗り始めたばかりで、自信とかまったくないし、むしろお金払ってしんどい思いして、何が残るんだろうと思ったり」

「いや、迷うくらいなら、そりゃ、出るべきだよ。多分、優勝を狙うような人は普段からトレーニングして、いろいろ準備して気合い入れて参加するんだろうし、そこまでいかない人でも、過去の自分を乗り越えるとか、ストイックな人は多いと思う。エントリーのジャンルとか、カテゴリーとかあるんでしょ。そうしたら、一番長くてきつそうなコースにしたらいい。完走できたらそれだけで自信になるし、できなくても今後の自分を支える何かが絶対得られるよ」

 それまでわたしの話に、どちらかというと無批判に共感してくれていた祐二くんが、急に断定的にプッシュするので、面食らった感はあるけれど、それで一気に迷いが吹っ切れた。その場でスマホを使ってエントリーした。後から聞いた話では、実は申込期限は過ぎていたんだけれど、定員割れで追加募集してた最終日だったらしい。

「ねえ、祐二くん。わたしは、自分がこの世界で生きているって実感がほしいから、あえてしんどいチャレンジして頑張って走るよ。もしよかったら、応援に来てくれないかな」

 何もためらわずに自分の口から出た言葉に、自分で驚愕してしまったが、祐二くんは少しうつむいて、はにかむようにつぶやいた。

「チャレンジしようっていう前向きなエネルギーはうらやましいな。ミドリちゃんが無事に完走できること、心から祈っているよ。応援に行くのは・・・約束はできないな、悪いけど」

           *

 中学時代、確か夏至の頃、おばあちゃんのママチャリを借りて、琵琶湖一周を一日がかりでしたことがある。あの頃はソフトテニスの部活で頑張っていて、それなりに体力には自信があった。高校二年からはほとんど不登校で運動は一切何もしていないので、二十㎞で標高千メートル上るという、ヒルクライムレースなど、どれくらいしんどいのかという予想さえつかない。

 もともとは、嬬恋・万座ハイウェーヒルクライムといって、年に一度、自動車専用道路を封鎖して開催されるイベントだった。二、三年ブランクがあり、改めて嬬恋キャベツヒルクライムという、地元名産のキャベツを全面に押し出してのイベントレースとして復活したらしい。

 夏休みは八月で終わったが、うちの学校は前後期の二学期制だから、九月の中旬までは実質的に休みなんだよと適当なウソを言って、おばあちゃんの家に残り、ママが車で迎えに来たので、九月十日においとました。ママはヒルクライム参加については、予想以上に理解を示し、前泊する、万座駅近くの民宿まで送ってくれた。そのままレースを見ていくんだろうと思ったら、当日十一日は午前中に外せない仕事があるから、とんぼ返りすることになった。

 わたしとしては、レースが終わってから、百六十㎞自走して宇都宮まで帰ろうか、明るいうちに帰るのは無理かと思っていたら、途中の前橋まで夕方迎えにきてもらうことで話がついた。嬬恋から前橋までは六十八㎞、ほとんど下り基調なので、二時間、どんなに遅くても三時間で着く。前橋から宇都宮は車で二時間なので、晩ご飯には自宅に帰ることができる。あー、でも誰も応援に来てくれないのか、まあ、わたしの人生、誰も代わりに生きてくれないんだから、それはそれで仕方ないか。

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