第57話 脇本優(後)

 一軒茶屋から西南西方向、ほとんど下り基調で九㎞走ると、チーズ館の併設されている、神戸市立六甲山牧場のレストハウス売店に着く。平日やし、まだ寒いからか、人は少ない。そやけど、なんか腹減った。ここはソフトクリームが名物やけど、さすがに今はええわ。なんか、暖かいもんが食べたいわ。お、牧場オリジナル「遙かなるまきばの咖哩」ってのがあるやん。ハチケンさん、おごりますんで、一緒に食べましょうや。

「おまちどうさまでした。自転車で来られたんですか?」

 ウェイター、でもないか。店員のお兄ちゃんが愛想良く運んできたカレーライスは、牧場のチーズ館で製造したカマンベールチーズや、ヨーグルト、ホエイ(乳清)が溶け込んで、中辛やけど、とってもコクのある美味しさやった。

「そやけどハチケンさん、見てて分かったでしょ。ボク、ほんまはヒルクライム苦手なんですよ。宝殿で五分くらい撮影名目で休憩したけど、それでタイムが五十分でしょ。六甲常連さんなんか、ボクより速い奴ばっかりですよ。こんなんで、記事になるんですか?」

「いやいや、それがいいんですよ。東六甲を四十分で走るアマチュアさんを捉まえて、トレーニング方法とか聞き出しても、多分、うちの読者の参考にはならないと思うんですよね。脇本さんには失礼なんですが、ヒルクライムが苦手な人でも、こういう工夫をすれば、楽しみながら、速くなれるってコツみたいなのを、教えてもらう方が、本も売れるんですよ」

 なんか、オトナやな、ハチケン。おれの練りに練った連覇戦略が、セコく思えてくるわ。まあええわ。ペダリングとか体重移動とか、適当に当たり障りのない話しといたろ。

「お皿、お下げします。これ、もしよろしければ、召し上がってみてください。今度新しく名物にしようって売り出してる、カマンベールの揚春巻き、ゲバッケンっていうんです。運動の直後に乳タンパクで超回復するのがオススメです」

「お、ありがとう。喜んで頂くわ。そやけど、ホエイで超回復とか、よう知ってるね。何かスポーツやってるん?」

「いや、スポーツは全然ダメなんですよ。言い訳なんですけど、虚血性狭心症って持病で、心拍上げられないんで。でも、スピード感が好きだから、オートバイ乗ってるんですけど、エンジンに頼ってるから、自転車乗りの方が全然すごいですよ」

 揚げたてのゲバッケンは、口から喉、胃にしみわたる濃厚な甘さで、ライド後の補給として、めっちゃ旨かった。おにいちゃんは、いったんキッチンの奥に下がってから、なんか手に持って、またやってきた。

「脇本店長でしょ。去年のバイシクルスポーツ十二月号、読みましたよ。ぼくの知り合いで、ロードバイクに乗って人生変わったって子がいて、バイク雑誌の隣に置いてあるのを見つけて、たまたま手に取ったら、その記事だったんです。最後のスプリント、すごかったですよね。良かったら、サイン頂けますか?」

 ハチケンと顔を見合わせて、思わずにやっとしてしもうた。自転車の世界はめっちゃ狭いから、同業者や一部の物好きを除いて、おれなんか顔割れてないやろと思ってたら、まさかこんな、六甲山の売店のお兄ちゃんがサインくれやなんて。あ、サインって、どう書いたらええんや。練習なんかしてへんし。

「ほな、今日の日付と、ボクの名前な。読めるかな。いや、簡単に読めへん方がええんか。ほな、これでええんか。ほんで、君の名前も○○さん江って、書いといたるから、名前教えてくれる?」

「祐二です。示偏に右、横二です。・・・あ、どうも、ありがとうございます。今年も最速店長選手権、頑張ってください。応援してますから」

「分かった。優勝目指して頑張るわ。応援してくれる人がおるいうだけで、ほんまに力になるんや。最低でも表彰台に上がったるわ。約束するで」

「じゃあ、今年のレースで表彰台に上がったら、また来てください。今、牧羊犬のトレーナーもしてるんで、シープドッグショーお見せしますよ」

「よっしゃ。楽しみにしてるわ。約束やで」

           *

「店長、おかげさまでこの間のデュアスロン、自己ベストでした。やっぱりあのハンゾー、走りやすいですよね。感謝してます」

 あの蒸し暑い夏至の日、アワイチとビワイチを駆け抜けるっていう、シークレット・ブルベに参加したのは、もう去年になるんやな。プロ引退して、イタリアから帰国して、自分の店任されて、なんとなく惰性でロードバイクと向き合ってきたけれど、あの日は、ほんまに自分の限界まで頑張った。それでも勝たれへんかったから、心を入れ替えて、自分に誠実に、人には優しくを心掛けてきた。完璧にはできへんけど、岩田には、ええランニングシューズ買ってやったし。人に感謝されることしてたら、回り回って、自分にもええことあるやろ。

「でも、店長、毎年最速選手権で表彰台って、すごくないですか?」

「ああ、でも優勝したのは、初参加の第五回だけやけどな。翌年の第六回は、庭島栄司に最後のスプリントで力負けして、コンマ三五秒差で二位やった。めっちゃ悔しかったから、打倒庭島の秘密トレーニング積んで、その次の年の第七回は、庭島に百分の七秒差で勝ったんやけど、猛井四郎のおっさんと、藤岡店長に負けて、コンマ二二秒差で三位やった。

 あの大会、おれみたいな雇われ店長にきついやろ。マークが半端ない。もう出るのやめとこかとも思ったんやけど、あのシークレット・ブルベに出て、自分のやれることに全力尽くす尊さみたいなん、思い出したんや。去年の第八回は、膝の具合とか、客観的に見て、勝てる状態やなかったんやけど、応援してくれる人が一人でもおるんやったら、ベスト尽くそう思ってな。それで、結果はご存じの通り、庭島の圧勝や。安藤店長にも負けて、三位やいうても、庭島とは三十一秒差や。

 ・・・あ、しゃべってて思い出したわ。なあ、岩田。信じへんかもしれんけど、おれが優勝したインタビュー記事読んでファンになってくれた子が、六甲山牧場の売店におるんや。そうそう、あの子と約束してたんや。すっかり忘れとった。人間、約束は守らなあかんやんか。岩田くん、すまんけど、車出してくれへんか。六甲山まで。シープドッグショー見に行くんや。時間的にも、今から行ったら、ちょうどやってるんと違うか?店は、誰かに留守番させといたらええやろ。今日は特に急いでやらなあかん作業ないし」

           *

 路肩に霜が残っていた、あの東六甲クライムの日から、どれだけ年月が経ったんやろ。そういえば、べっぴんのモデルさんと結婚したハチケンによれば、あのブルベで一着になった女の子は、彼氏か元彼かへの想いだけを抱えて、走りきったらしい。確か、その男の名前は、ユウジって聞いたけど、まさか、六甲山牧場でアルバイトしてた、あの祐二くんとは違うやろな。

「ああ、ごめんなさい。そうそう、祐二くんね。居ましたよ。もう三年前になるかしら。すごいオートバイ乗っててね。ちょっと影のある雰囲気だったけど、いい子だったでしょ。仕事は何でもこなせるし、素直で優しくてね。動物が好きだっていって、牧羊犬のトレーナー見習いまでしてたんですよ。動物って、人間を見るでしょ。うちにいるボーダーコリーの赤星、ええ、そんな名前なんですけど、とっても祐二くんになついててね。

 ボクのシープドッグショーを見せる約束の人が居るからって、すごく頑張ってたんだけど、いつまで待ってても来てくれないって言って、東京の、慶應だったか、大学に入っちゃったんですよ。それからは見ないですね」

 レジのおばちゃんは、懐かしそうに語ってくれた。そうなんか、おれがまた来ること、待っててくれたんやな。済まんかったな。あれから毎年、表彰台には上がってたんやけど、君のこと忘れてたおれの方が悪かったわ。

「店長、どうします?今日は帰りますか」

「そやなあ、わざわざ連れてきてもらって悪かったわ。お詫びにジンギスカンでもおごるわ。ロープウェーの山頂駅近くに、ジンギスカンパレスってのがあるから、そこに行こか」

 約束を守るって、言葉でいう以上に、大変なことやな。でも、祐二くん、おれは今年も最速店長選手権、出るで。君がどこかで応援してくれるんやったら、何度でもまた表彰台に上がったる。庭島も、四郎のおっさんもぶち抜いて、表彰台の一番高いところに立ったら、遠くからでも見えるやろ。そしたら今度は、神戸ビーフ食べに行こか。おごりかワリカンか、それはそん時考えさしてもらうけどな。

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