第42話 それでも走る意味(後)

 湘南にある輪芸寺サイクリング代表の八代隆康は、ぼくは部外者だから、そもそもサポートなんてできないし、してないよ、勝手に走ってるだけだよと言いながら、亜弓達の前を絶妙なペースと、障害物や道路の小さな亀裂をスムーズに除けるライン取りで先導する。

 亜弓も陽子も、体力は全然残っていないのだが、不思議なくらい、どんどんスピードが上がっていく。亜弓の表情が一気に華やぎ、脚の調子も戻ったのは、ハチケンに頼まれたにしても、八代がわざわざ亜弓に会いに来てくれた、その気持ちが伝わったからに違いない。

 わたしを最初にロードバイクの世界に導いてくれた人。この出会いがなかったら、奇跡を信じることも、奇跡を目指すこともなかった。出会いそのものが奇跡なのかもしれない。祐二との出会いもその一つに違いない。出会いがあれば別れもあるけれど、出会いのない人生なんて、意味がない。でも、十八時にはもう間に合わない。いくらハチケンが車の運転が上手くても、さすがに無理じゃないだろうか。

 去年の秋、陽子は調布駅前から送迎バスに乗り、憔悴しきって入院した亜弓を見舞った。医師は診断名やその可能性など、肝心なことは何一つ教えてくれなかったが、たまにパニック状態になり、部分的に記憶が飛んでいるらしい。薬を飲んで浅い眠りのままうなされている亜弓が、しきりにうわごとを口走るので、どうやら男女関係が原因だろうと察した。預かった亜弓のアイフォン、パスコードは簡単に分かったので、悪いと思いつつ、LINEの履歴を確認した。

 そう、祐二って、あの時オートバイでやってきた男の子だね。閃太郎くんが言ってた、おれの友だちで化け物みたいに速い奴がいるって、きっとその人だね。でも、閃太郎くんの話が本当なら、もう、亜弓がどれだけLINEを送っても、既読にはならないんだよ。

 後ろに付いていた亜弓が陽子の前に出た。八代に、もっと飛ばしてと叫んでいる。悲壮感ではない。亜弓が幼い頃、公園でいつまでも鬼ごっこして、陽子を追いかけ回した、あの時と同じ、まっすぐで、きらきらした目だ。もう亜弓は、抜け殻なんかじゃない。

「亜弓、あなた、全部思い出したの?」

「祐二が呼んでる気がするの。遅いぞって。もう大丈夫。おねえちゃんには悪いけど、どんなことがあっても、最後は絶対わたしが一着になる」

           *

 雨が上がった、米プラザの駐車場。ハチケンは腕組みしたまま、信号の消えた琵琶湖大橋西詰交差点方面を、じっと見やっている。もう十八時を回った。あの大雨で道路も寸断されているだろうし、やっぱり間に合わないか。

 名神高速の最新情報を確認する。吹田から豊中間がやはり混んでいる。西宮神社まで一時間は、さすがに厳しい。だが、行くしかない。八代さんとは無事に合流できただろうか。全日本選手権で何度も優勝した、オリンピアンの彼が一緒なら、きっと一着に導いてくれるはず。

「陽子さん、これが終わったら、おれ、あなたに告白します」

           *

 駐車場から少し離れ、遠くを見ていた音塚閃太郎に向かって、ドドドドという野太い排気音が近づいてくる。ヘルメットで顔は分からないが、どうみても特攻服にしか見えない黒いツナギの作業服、上に羽織った黒い革ジャンの背には赤い稲妻、左胸には平井工業と、Scarlet Thunderのネームが赤く入れられている。総・・、じゃなくて、平井先輩。なんでこんな所に?向こうも気付いたようだ。

「被災地ってのはさ、仕事の宝庫なんだよ。緊急で困ってる人が絶対にいるわけだろ。警察とか役所に行くより、道の駅に来た方が話が早いと思ってな。お前こそ、誰か待ってるのか?」

 閃太郎が手短にブルベの話をすると、面倒見は良いが瞬間湯沸かし器並に気の短い平井は、やにわに閃太郎の胸ぐらを掴むと、あごを閃太郎の鼻先にくっつけんばかりにすごんだ。周りの人たちは心配そうに遠巻きに見守っているが、このポーズの時は殴られたりしないと、閃太郎は分かっている。

「てめえ、ホラ吹いてんじゃねえぞ。じゃあ、何でも願いが叶うってんなら、例えば祐二が帰ってくるとか、そういうこともあんのかよ」

「おれは、正直、分かんないです。でも、紗弥が今、走ってるんですよ。もうすぐここに着くはずです」

「紗弥が?じゃあ、お前がここから西宮まで送るのか」

「いえ、おれがここにいること、紗弥は知らないんで。あ、来ました。何人か並んでます」

           *

 丸瀬紗弥は、さすがに残り数キロを全力で走り切るだけの余力がなかった。分かってる。こんな時に美津根さんはあたしを甘やかしたりはしない。前に小さく、亜弓さんが見える。一緒に走ってるのは、お姉さんがいるって言ってたから、その人かな。前にいる男の人は誰だろう。今まで見なかったけど。小野駅前を過ぎた。信号一つ分、離されてる。あと信号、五つくらいか。琵琶湖大橋交差点を左折したら、もうゴールだ。だめ、届かない。

「丸瀬さん、なにのんびり流してるの?そんなことじゃ、何も掴めないよ」

 後ろから荻原真理子が悠々と追い抜いていく。諦めない。ここで諦めたら、祐二に一生追いつけない。この荻原選手にだけは、ぜったい食らいついてやる。お願い、回って。あたしの脚。もう少しだけ。

           *

「お帰り、ミドリ。迷子になっちゃったかと思ったよ」

「ごめん、シホさん、わたしの力が足りなくて」

「ミドリちゃん、あの男の人と変な関係になったのかと思って心配したんだよ」

「ごめんね、メグちゃん。でも一つだけ、いいものゲットしたから、後であげるね」

「わーい、今ならレアチーズ、ホールで食べられるよ」

「こうなったら、最後まで三人で行こう。前に誰か見えるでしょ、いける、このまま追いつくよ」

           *

 庭島栄司は、結構ボロボロになっている二人を見て、武士の情けという言葉が浮かんだ。膝を痛めている脇本優に、鎖骨骨折が完治していない猛井四郎。この人たち相手に今日勝ったところで、息子は喜ばないだろうし、何より奥さんが早く帰ってこいとメールしてきた。大雨に遭ったこちらの心配をしているのか、家事手伝いをさぼり気味だったのを怒っているのかは分からないが、今日は西宮まで行かずに、京都で何かお土産買って、そのまま帰るか。どうせ今年の店長選手権は、間違いなく勝てる。

「素人相手に、ちょっとハンデ、やりすぎましたね。最速店長のプライド賭けて、最後に一勝負しませんか。この超合金Zのラストスパートに、お二人が付いてこれたらの話ですけど」

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