第43話 大橋の虹(前)

 時刻は十八時十五分。琵琶湖大橋交差点を左折した順は、八代、亜弓、陽子。三十メートル遅れて真理子、紗弥、美津根。さらにシホ、ミドリ、メグが続いているが、庭島、四郎、脇本の三人組が追いついてきた。米プラザまで九百メートル、あと一分半で決着が付く。

 米プラザの駐車場入り口が見えた。八代が亜弓の前から脇に退く。ありがとう、八代さん。あなたが来てくれたから、引っ張ってくれたから、最後まで頑張れたよ。

 亜弓は下ハンドルを力一杯引きながら、サドルから腰を浮かし、深い前傾姿勢のまま、体重を乗せ、ペダルを思い切り踏み込む。陽子が背後から、アンカーのサドルを押し込んでくれる。ありがとう、陽子。最初からわたしのためだったんだね。

 着いた。ゴールだ。そう思った瞬間、右側から黒い影が並んだ。

           *

 目の前に立ちふさがる真理子の背を必死で追う紗弥。視界が遮られて、亜弓達の位置は分からない。でも、この人を抜かない限り、一着はない。インターハイ予選も、大事な試合はいつも二位止まりだった。ツーリングチームでも、結局祐二だけには勝てなかった。あたしは二位になるために走ってるんじゃない。この勝負、足がちぎれようが、絶対に抜いてみせる。

 その瞬間、目の前の真理子が左側に下がった。時刻は十八時十六分。逃げと見せかけて、実は紗弥の前を曳いていた真理子が、ゴール寸前でラインを譲ったのだ。でもなぜ?目の前には、亜弓の背中があった。そうか、最後にこれを抜けってことね。下がり際の真理子の口元が笑っているのが見えた。耳ではよく聞こえなかったけれど、ちゃんと聞こえた。

「わたしはプロレーサー。アマチュアのイベントごときで、本気を出すわけがないでしょ」

           *

 閃太郎はアフリカ育ちかと言われるほど、視力は良い。ハチケンは近眼でメガネを常用しているが、スポーツカメラマンを生業とするくらいであり、動体視力には自信がある。米プラザの駐車場になだれ込んできたローディー達。誰が一着になったのか、ほとんど同着ではあったが、しっかり見届けた。

 ハチケンは亜弓と陽子が倒れ込みそうになっているのに気づき、八代が一瞬早く自転車から飛び降りて、二人を支えている場に駆けつけた。

 亜弓は体力の限界を超え、ペダルからシューズを外すこともできない。ハチケンがシューズをひねって外してくれる。足を上げて自転車から降りることもできない。陽子が背中から両脇を抱えて引っ張ってくれた。君世が赤ちゃんを抱えたまま、駆け寄ってきた。手がしびれてヘルメットを外すのにも難儀したが、キーンという、おりんのような、小さいけれど澄んだ高い音が聞こえた。陽子がCの字型のリングを三つ、手にしている。

「亜弓、よく頑張ったね。あなたが一着よ。ハチケン、そうでしょ?これ、持っていって。わたしの御朱印と、君世さんが作ってくれた、ベル型のオーブ。旋盤屋さんに頼んで切削加工したんだって。わたしのシルバーに陽の気、ハチケンが付けるはずだったブラックに陰の気。これはわたしがポケットに入れておいたの。そして、あなたのブラスに練られた気が融合して、西宮神社に着くまでに、太極となって充填される。御朱印の力と合わせて、この鍵で、初めて蝦夷の封印が解けるの」

           *

 閃太郎は、亜弓たちの様子を見やってから、紗弥の方に近寄った。こちらも力を出し尽くし、動けない様子である。

「答えろ、紗弥。お前、なんのために走ってたんだ」

 いきなり目の前に旧知の閃太郎が現れたと思ったら、直球過ぎる質問と、ひどい疲れのために、言い訳など考えている余裕がない。

「え、なんで閃太郎がここにいるの?あたしは、亜弓さんへの償いっていうか、会社をあたしのせいで辞めさせちゃったから・・・」

「祐二のことじゃないんだな」

「だって、祐二は、そのうち帰ってくるでしょ」

「お前、祐二が行方不明とか、世界一周でも行ったと思ってるのか。はっきり言わなかったけどさ、実は祐二はもう帰ってこないんだ。女と二人でいっちまったって噂、あれはガセだったけど」

「やめて!そんなの、うそ、信じない。なんでこんな時に、そんなひどいこと言うの。祐二はこの世界のどこかに居るに決まってる。絶対会えるんだから」

 美津根が割って入ってきた。

「お取り込み中すまんが、こっちも急いでてね。続きは西宮に行ってから頼むよ。ほら、丸瀬、早く車に乗れ」

 美津根のチームの若手ホープである安井が運転するハイエース。一見鈍重そうなワンボックスだが、こんな時のためにスーパーチャージャーを搭載してある。しかし、真理子は乗らないと言う。

「はい、これわたしの御朱印。じゃ、わたしは明日の朝練で赤城に上らないといけないんで。電車がなくなるから、ここで失礼するわ」

 閃太郎は、紗弥に対しては、どうしても突っ張ったものの言い方になってしまう。それは反省というか、今後の課題だが、紗弥がブルベを走っていた目的は、絶対確認しておかなくてはいけなかった。祐二が帰ってこないと知ったら、紗弥の願いも変わるはず。そしてそれは、おれの願いと同じはずだから。ごめんな、紗弥。お前を利用するってわけじゃないんだ。おれ達の祐二への思い、それだけなんだ。でも、おれにはまだ仕事が残ってる。

「亜弓さん、言ってなかったけど、おれ、祐二と一緒のチームだったんです。あいつの言い残した言葉、知りたくないですか?」

 セレナのエンジンを掛けていたハチケンが、怒ったようにたしなめる。

「何わけの分からんこと言い出すんだ。出発するぞ。おまえも付いてこい」

「ハチケンさん、悪いけど、この車じゃ、日没には間に合わない。おれが届けます。亜弓さん、早くこっちに乗って」

           *

 十八時十七分、シホ・ミドリ・メグは並んでゴールした。肩を抱き合って、三人とも涙が止まらない。一着にはなれなかったけれど、本当によく頑張った。今日のことは一生忘れない。ここまで来たら、西宮神社まで行きたい。でも、車がない。タクシー代もない。電車じゃ、もう間に合わない。美津根さんたちは、さっさと出発しちゃった。どうしようと途方にくれていると、オールバックで見るからに暴走族風の、怖そうなお兄さんが近づいてくる。

「困ってんなら、助けるぜ。おれは便利屋だからな。一人だけ、単車で送って行ってやる。西宮だろ、さっき聞いた。報酬は税込みで、お前らのもうけの三十パーセント。安心しろ、絶対日没に間に合わせる。ただし、単車の都合があってな、体重五十キロまでだ。それ以下じゃないと、命の保証はしない」

 シホは一瞬、ミドリと顔を見合わせた。命の保証なんていらないから、わたしでお願いしますと言おうとするのを、メグが制した。

「わたし、余裕です。わたしが乗ります」

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