第41話 それでも走る意味(前)

 夏の終わり、箱根の温泉街は、噴火警戒レベル2ということもあり、人影はまばらだった。強羅公園の花壇には、薄黄色のキレンゲショウマや、淡い紫のマルバフジバカマが雨にけぶっている。地面に跳ねた水しぶきが足元を濡らす。最初は並んで傘をさしていたが、これじゃ話しづらいねと言って、亜弓は自分の傘をたたんだ。

 さらに山手に上ると二ノ平、彫刻の森美術館が広がっている。ムーアの彫刻みたいに、雨に打たれながら、このまま二人溶け合ってしまいたくなる。本降りから土砂降りになり、緑陰ギャラリーに駆け込んだ。祐二は、針金で作られた風や炎のアート作品が気に入ったようで、じっと立ち止まって見ている。

「祐二くん、何か悩みとかあるんなら、聞くよ」

「いや、いいです。どうでも良いことだったら相談するかもしれないけど、本当の悩みだったら、おれ、多分誰にも言わないです」

「それって、何か淋しいよ」

「武智さんは、おれみたいな不良にも、何の偏見もなく接してくれた。それで十分ですよ」

「不良じゃないよ。ここで慶大生ってレッテル持ち出したら、きっと怒るんでしょ、知ってるよ。祐二くん、別にわたしに対して何か悪いことしてるわけじゃないでしょ。それに、わたし、合わない人とか大勢いるけど、今まで不良の人と接したことなんて一度もないし。偏見なんか、持ちようがないよ」

「おれが不良やめたのも、武智さんのおかげなんです。特別に何かしてくれるっていうんじゃなくて、お情けとか演技とかマニュアルとかじゃなくて、本当に普通に接してくれて、友だちみたいに遊んでくれて、笑ってくれて、身内みたいに心配してくれた。単車の仲間以外で、信じてもいいかなと思える、ただ一人の大人だったんです。大学行こうかと思ったのは、武智さんに近づきたかったから。憧れてたっていうか、恩人っていうか」

「ありがとう。そんな風に言われたら、嬉しいな。で、紗弥ちゃんのことは、どう思ってるの」

「あいつとはきょうだいですよ。恋愛関係とか、なりようがない。おれに似すぎてるから、嫌なところがよく見える。でも、おれよりぎりぎりの所で強い。しぶとい奴です」

 それから、カッパの下までずぶ濡れになりながら、カタナに乗って大涌谷まで上り、動かないケーブル乗り場前から、噴煙が立ち上る峡谷を、日が暮れるまでずっと見ていた。わたしがそばに居ても、彼はどこか淋しそうだった。どうしたら空っぽな心を埋められるんだろう。敬語はもういいよ。濡れちゃった洋服、どうしようか。その夜、互いの呼び名が、武智さんが亜弓になり、祐二くんが祐二になり、朝が来た。

「また会えるよね」

「分からない。記録は破るものだけど、約束は守るもの。おれだって、会えたら嬉しいと思うけれど、次の約束はできないよ」

 亜弓は、祐二の少し意外な答えにとまどったが、猫型の祐二は、きっと何からも縛られたくないんだろう、わたしと会うことが本当に嫌だったら、はっきりそう言ってくれるはずだ、と考え直し、望みをつないだ。

「じゃ、またLINE送るね」

 あれから毎日、当たり障りのないLINEを送っては、既読が付かない繰り返しにため息をついていた。それから・・・

 やっぱり、ゴールを目指さなきゃ、でももう体が動かない。せめて陽子だけでも。すると、南から走ってくるマジョーラアンドロメダのアンカーが視界に入った。雨粒と夕日の加減で、赤紫色から宇宙の深淵のような濃紺へと色が連続的に変化する。あれに乗っている人って、まさか。八代さん、湘南の八代さんだ。なんで、こんな所に?

「やあ、ご無沙汰。鉢元くんから、オリンピックよりすごいイベントがあるって聞いてさ、ちょっと見にきたんだけど。いや、電車だよ。新幹線で米原まで行って、在来線で野洲で降りたわけ。

 米プラザから時計回りに走ったら、絶対すれ違うからさ。大雨、大変だったね。竜巻も出たって、大丈夫だった?この先のキャンプ場にも何台かロードバイク停まってたけど、あれも知り合い?武智さん、なんだか前に会った時より、目に光がともったね。雨も止んできたし、折角だから、あとちょっと、一緒に走ろうか。この一帯、停電らしくてさ、堅田まで、信号が全部消えてるから、危ないんだけど、急ぐんなら、ある意味ラッキーな状況だよ」

            * 

 荻原真理子は、しばらく水浸しのコテージの床にうずくまっていたが、静かに立ち上がり、美津根の方を振り向いた。

「教えて。このブルベの勝者が手に入れる奇跡って、何?」

 美津根崇広が少し困った様子で、何か言いかけたとき、横から丸瀬紗弥が俯きながらつぶやいた。

「終わりが、始まりになる。なくしたものが、戻ってくるって」

 真理子は紗弥に顔をくっつけるほど近づけて、穏やかな、それでいてすごみのある口調で追求する。

「あなた、そんなこと、本気で信じてるの?だとしたら、それは、なくしたものに対する冒涜だよ。一度なくなったいのちとか、過ぎ去った時間は絶対に還ってこない。過去や、起きてしまった事実は変えようがない。変えちゃダメなんだよ。

 わたしは、プロのレーサーでね、今まで辛いことや悔しいことはいっぱいあった。でも、そんなのは他人にとってはどうでもいいこと。プロだったら、よく頑張りましたじゃあ、済まない。結果を出さないと認めてもらえない。そのためには、まず現実から目をそむけちゃだめなんだよ」

 少しの沈黙が流れ、紗弥は再び口を開いた。

「普段はみんな忘れてるけど、なくしてしまってから、もう取り戻せないっていう現実を、どうしようもない辛さと引き替えにして、初めて後から気が付くんですよね。それが、どれだけ大事だったかということを。こんなことしてて、何かの償いになるか、ならないかもしれないけど、だからといって、今何もしないのは自分が許せない。何かを信じて行動したいんです。それで、結果が出なくても、誰のせいにもしちゃいけない・・・すみません、わたし、お先に行かせていただきます」

 真理子は何も言わずに紗弥を見送った後、美津根と、シホと、メグに対して、わずかに笑みを浮かべながらまなざしを送った。

「あの子、昔のわたしにちょっと似てるかも。わたしも、やっぱり行くわ。ここに居ても仕方ないし。あなたたちも、ほらどうせなら、急ぎましょ」

         *

「四郎さん、御朱印、雨でぐちゃぐちゃになっちゃいましたよね」

「なんかさあ、やる気無くなってくるよな」

「あ、シホさん、メグちゃん、みんな行くんだ。ごめん、待ってー」

「ほな、ぼくもちょっと急ぎますよって」

「え、脇本、お前まだやるの。粘るね、自然薯並だな。まあ、どっちみち米プラザまで戻らないといかんしな。しゃあねえ、付き合うか」

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