第40話 還らざる日々(後)

 鎌倉駅から歩いて数分、ドーム型の屋根が、鎌倉支社の目印である。京都の本社に採用された亜弓だったが、母が亡くなり、心の支えである陽子も、当時は東京での仕事が中心で、関西に留まる意味が感じられず、異動を希望した。東京の恵比寿にも支社があるが、人の多すぎる都心よりも、海の近い鎌倉支社に来られて嬉しかった。

 会社は、デザイナーやエンジニア、カメラマンらとチームを組み、企業のホームページなどの企画制作をしており、亜弓はディレクターという肩書きの営業職だった。オフィスは白っぽいインテリアで、広々として開放感がある。社員の年齢層は亜弓と近い三十代が中心で、サービス残業や休日出勤はあるものの、命をすり減らすほどではない。鎌倉に来て三年目となる仕事には、何の不満もなかった。

 京都が本社ということもあるのか、鎌倉支社にも毎年のように関西出身者が配属される。社内の服装は極めてカジュアルなので、身長一七一センチの丸瀬紗弥が、真っ黒のリクルートスーツに身を包み、ぎこちなく赴任のあいさつ回りをした時には、異分子が紛れ込んだような空気が流れたものだ。

 紗弥は人一倍頑張り屋さんで、何事も一生懸命取り組むのだが、なぜか要領が悪く、小さなミスが多かった。人見知りの亜弓は、気の強そうな、それでいてどこか危なっかしい紗弥に対して、接し方をはかりかねていた。同じ関西人とはいえ、欲を出さず自己主張もせず、その場の八方美人的な振る舞いで、要領よく無難に仕事をしてきた亜弓とは、別の人種のような気がして、何となく近寄りがたかったのである。

 それが、大口案件で紗弥がアシスタントディレクターとして一緒に仕事をすることになった時に、指示がなくても下準備を怠らない真摯な態度や、ミスをしてはトイレで一時間も泣いたりしながら、オフィスでは背を伸ばして凛とした姿勢を崩さず、打ち上げでは一転して人懐こくなり、自虐ネタを連発して周囲の笑いを取るなど、彼女の人間性に魅了されてしまい、いつしか互いのアパートを行き来し始め、きょうだいのように仲良くなった。

 紗弥がニンジャという大型の単車に乗っていることは、他の社員らは知らない。クローゼットに掛けてある黒のレザージャケット、それも背中に赤い稲妻模様が走っているのを見たときには驚いた。

「単車で出社してもいいんだけど、帰りに飲めないでしょ。いえ、暴走族じゃないです。それにチームは三月に解散しました。初代の平井さんが、あ、総長とかじゃないですよ、連絡係の平井さんが結成したから、緋雷っていうんですけど、稲妻のステッカーは解散したときに、剥がしちゃいました。あれ貼ってたら、すぐ警察に止められちゃうんですよ。当時のメンバーでまだ単車に乗ってるのは、平井さんのほかには、神戸に一人、あと東京に一人だけいます」

 紗弥は、東京にいる元メンバーのことを彼氏とは言わなかった。ただ、一緒にツーリングに出かけた話を、とても楽しそうにする。紗弥がこんなに魅力的な子なんだから、彼もきっと素敵な人に違いない、一度会ってみたいなと言ったのである。それが、まさかまさかあの祐二くんだったとは、八年ぶりに再会した彼から言われるまで、一瞬分からなかった。そういえば、あの時、紗弥がどんな表情をしていたのか、まったく見ていなかった。

「あれ、武智さん?・・・ですよね、おれです。高校の時、ともだち活動でお世話になりました。いや、びっくりしたな。ちょっと大きくなりましたか?あ、ヒールね、失礼しました」

 祐二くんは、バイクに乗る以外は引きこもりの不登校だった高校時代の、野良犬のような暗く鋭い視線が柔らかくなり、一見好青年を装ってはいる。それでも、背伸びして強がっている感じは隠せない。はかなげで、どこか人恋しそうな、放っておけない危うさと共に、体中に棘を隠して、他人を懐に入れようとしない、一種の矛盾した雰囲気を身にまとっている。そう、この子は紗弥に似ている、祐二くん、あれからきっと、色んな苦労して、大きくなったんだ。

 慶應大学の通信課程は、早稲田などと比較すると、学費は安いものの、レポート提出に求められる質が高い上に膨大な量で、在学平均年数八年を費やしても、卒業にこぎつけられる者はわずか数パーセントである。スクーリングは大阪キャンパスでも受けられるが、祐二は埼京線と山手線で田町まで行き、三田キャンパスに通っていた。オートバイで都心を走っても全然楽しくないらしい。

 お役所が用意した、形だけのともだちではなくて、祐二ともっと話がしたい。亜弓は、紗弥の了解を取った上で、祐二とLINEを交換した。アルバイト先のコンビニで、消費期限の近い弁当をもらって食べているという祐二がふびんになり、夏のボーナスが出たときに食事に誘ったら、板橋にある老舗の鰻屋に行きたいと言うので、一緒に鰻重の上を頼んだ。二人ともぺろっと平らげて、まだ外は日も暮れていなかったから、十条まで歩いて駅前の居酒屋で飲んだ。

「ええっ?家賃滞納してたら、アパート追い出されちゃうよ」

「うん、そうなんすけど、おれ金銭管理、ほんとダメで。もうカタナ売っ払うかと思ったり。実はもう話付けちゃってて」

「ダメだよ、ともだち活動の最後の日に、わたしがバイクはほどほどにねって言ったら、君がムキになって言い返したじゃない。バイクは自由への翼だって。今ここに満足できない自分を、ここじゃない何処かに連れて行ってくれる、折れない鋼鉄の翼なんだって。おれがこれを失ったら、もうおれじゃなくなるって、そう言ってたじゃない」

「・・・そんなこと、言ってたすかね。わざわざ神戸から持ってきたけど、東京に住んでたら絶対旅に出たくなると思って持ってきたけど、なんか、ここの生活になじんできたら、だんだん遠くに行きたいって気持ちがなくなってきちゃって。バイクは結局、本当の自力じゃないし、なんか、どこか、自分をごまかしてるんじゃないかって、自信がなくなってきて」

「ダメだって、そんなの。迷ったら前向いて走りなよ。そうだ、わたし、バイクに乗せてもらったことないから、今度どこか連れて行ってくれない?うん、自然とか大地の力がみなぎっているようなところ。よく知らないけど、ほら、箱根の上の方とか」

 紗弥が交通事故で入院して、会社を休んだのは、それから数日後だった。亜弓が見舞いに行った時、集団病室に入ろうとすると、結構大きな声で言い合ってる声が聞こえて、立ちすくんでしまった。

「勘違いすんなよ、ここに来たのは、仲間なんだから当たり前だろう」

 不機嫌そうな顔で病室を飛び出してきた祐二と廊下で出くわしてしまい、一瞬気まずい空気が流れたが、亜弓は小声で耳打ちした。

「今度の土曜日ね。お天気、悪そうだけど」

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