第39話 還らざる日々(前)

 米プラザ駐車場で、北の空を見上げながら気象情報を確認していたハチケンこと鉢元健一だが、いつの間にかいなくなった音塚閃太郎が、ばつが悪そうな顔をして、警察の用事はとりあえず終わりましたなどと言いながら、両手にアイスクリームを持って戻ってきたので、リアクションに困りつつ、反射的にポッピングシャワーに手を伸ばしてしまった。彼が下戸でスイーツ好きというのは、閃太郎にとって幸運だった。

 閃太郎としては、陽子は明るくて何事も前向きなのに、どこか抜けていて、一緒にいて疲れない、今日あいさつしたら、明日もまた顔を見たくなるような、心がふわふわする存在ではあるが、いくら若く見えてもやはり歳が違いすぎる、結局は近所のきれいなお姉さんに過ぎない。むしろハチケンの優柔不断さの方が歯がゆい。おれに向かって陽子さんを褒めてどうなる。さっさと告ればいいのに、収入の安定とか自分の方が身長が低いとか、両家の釣り合いとか、まったくオトナはどうでも良いことを気にし過ぎだ。

 といっても、おれも四捨五入したらもう三十、おっさんの歳になってしまったけれど。祐二だったら、好きな女ができたら、どうするだろうな。あいつも結構屈折してたからな・・・

 閃太郎は、去年の三月、祐二と紗弥との三人で出かけた、チーム解散のラストツーリングを思い出していた。

 もともとは祐二がカニを食べたいと言うので、日本海側の民宿に泊まった。紗弥が関東の会社に就職が決まり、フリーターの祐二が、二十三歳で慶應の通信に合格したので、その二つのお祝い、送別会ということにした。

 基本的にオートバイにスタッドレスタイヤのようなものはない。高速が降雪や凍結で通行制限がかかれば、バイクは走行できない。あの時は運良く暖冬で、中国道や舞鶴道も普通に走れた。

 学歴で人をランク付けする奴なんてクズだと自分で言っておきながら、やりたいことが見つからないから大学でも行くわと言って、毎日図書館にこもって勉強していた。生活費のための仕事はしたくないとか、強がりの当てつけみたいなことを言ってたが、世間や同級生に対するコンプレックスというより、やればできることを、自分自身に証明したかったんじゃないか。誰も見てないところで努力するなんて、おれには無理だ。

 通信制なんて、どこに住もうが関係ないはずなのに、あいつは東京にこだわって、なぜか北区の十条に下宿を決めた。外国人が多いけど意外と治安が良くて、物価が安いし、十条銀座のアーケード通りが、神戸にある実家の下町っぽさと雰囲気が似ているから落ち着くと言っていた。東京弁もすぐ慣れるし、人との距離感がべたべたしなくていいのだと。

 旅館は十畳の和室を一つ取った。紗弥の方から、三人きょうだいということにして、浮いた部屋代でふぐも食べようと言い出した。その紗弥が一番先に寝てしまい、おれはドキドキしたが、祐二は部屋の隅っこに自分の布団を敷いて、「変なことするなよ、あいつ、あれでも傷つきやすいんだから」とおれに忠告した。紗弥が本当は寝たふりをしていたことは、祐二に振られた後で紗弥から聞いた。

「なあ祐二。人間ぎらいのお前が、初めて惚れたって言ったタケチさんが、あの亜弓さんなんだよな。おれにはただの頼りないねえちゃんにしか見えないけど、お前の恩人だって言うんなら、お前がまだその恩を返せてないんなら、おれが代わりに返してもいいよな」

           *

 西近江道と呼ばれる国道一六一号線、白髭神社から北に八百メートルの浜辺に、白ひげ浜水泳キャンプ場がある。利用客らは既に避難しており、コテージが無施錠のまま開いていた。美津根の「こういう場合は緊急避難ってことでいいんだよ」という一言で、紗弥たち一行五人は、当座の雨宿りに駆け込んだのである。

 紗弥は、限界を超えて疲れ切った体に氷の礫やら、滝のような大雨を浴びて、奥底にたまっていた何かどろどろしたものが、溶けて洗い流されていくような、不思議な感覚に浸っていた。

 高校時代の陸上部の合宿はきつかった。寝起きに百メートルを十本とか、高層団地の最上階までダッシュで十往復とか、胃から吐くものがなくなるまで自分を追い込んだ。あれを乗り越えられたのだから、もう、どんな苦労も苦しくないと思っていたが、このブルベはただ辛いとか、しんどいとかいうよりも、過去の自分を徹底的に壊した上で、それでも立ち上がろうとする者に再生のチャンスを与えるような、そんな通過儀礼に思えてくる。大丈夫、これくらいで折れたりブレたりはしない。でも、やっぱり真実は認めなくちゃいけないよね。分かった、認める。

 一般市民と警察からは、暴走族と呼ばれてしまうツーリングチーム、緋雷。総長とかは、本当にいないし、役割なんかもない。父親から逃れたくて、高校卒業と同時に家を出て、収入が良かったから夜の仕事やりながら、ここじゃないどこかに行きたくて、それも誰よりも速く行きたくて、大型二輪の免許を取った。そして閃太郎と知り合い、祐二と出会った。

 オトコなんてみんなバカだから、ちょっと気を持たせて利用するだけ利用して、使い捨てにしたらいいと思っていたけれど、祐二だけは、あたしになびかなかった。そのくせ、時々淋しそうな目をするから、ツーリングに誘ってあげたら、「他に誰かいないのか?」って、嫌みを言いながら付いてきた。

 祐二の思いつきで、全国に三つあるオートバイ神社のダンガンやろうってことになって、島根県浜田の神社に行って、道の駅でカレイの干物を買った。それから北広島に行って、敷地内にある足湯に浸かった。最後に香川県に渡って、隣の古民家カフェで讃岐うどんを食べたんだ。あたしはとっても楽しかったけど、祐二はほとんど無表情だった。笑い方を忘れたとか言ってたけど、本当は楽しかったよね、祐二。でも、相手があたしじゃ・・・

 こんなの、ただの醜い嫉妬。自分の願望が真実だと思い込んでただけ。祐二が、自分だけの彼氏だと思いたかった。あたしが関西を離れて神奈川県の会社に移ったのは、ただ祐二のそばにいたかったから。亜弓さんに会わせたのは、あっちでできた、初めての友だちだったから、こんな素敵なねえさんができたんだよって、自慢したかった。

 そう、チキンレースで崖から落ちたのも、元はと言えば、あたしが亜弓さんに嫉妬したから。LINEに即レスないのを理不尽に怒って、亜弓さんと会ってたことを祐二が正直に話して、お前の彼氏になった覚えはないって、突き放したように言われたから。なんて不器用な人なんだろう。

「祐二、ちゃんと見てくれてるかな。いつか、きっと会えるよね」

           *

 荻原真理子は、自分のスマホが濡れて不調になってしまった。神戸の友人は、LINEのIDもメールアドレスも分からないが、電話番号は自分の番号とたまたま一桁違いだったので、覚えていた。シホが気を利かしてスマホを貸してくれる。豪雨の被害は多分滋賀県のこの辺りだけだと聞いて、笑顔を見せていた真理子だが、急に表情がひきつり、床にくずおれてしまった。

「そんな・・・あの事故の被害者が、今さっき、息を引き取ったって・・・」

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