第38話 ビワイチ・天変(後)

 ビワイチで湖北のルートは若干分かりにくいが、木之本から塩津、永原へと、民家の多い急坂を含んでアップダウンが続く。その先、琵琶湖の西側は、国道一六一号線を近江高島から北小松まで走ることになるが、車の交通量が多く、湖岸からも離れるので、どちらかというと単調な道のりである。

 比叡山のふもと、冬場はスキー場が点在する琵琶湖の北西部であるが、マキノを経て近江今津にさしかかり、ミドリはようやくゴールが近づいてきた実感が出てきた。米プラザまで三十七キロ、あと一時間で終わりだ。体力は何とか持たせる。でも、米プラザから西宮神社に行くのに、車がない。

 最寄りの阪神西宮駅に十九時までに着こうと思ったら、堅田駅発が、確か十七時三十八分だった。それ以上調べている暇がなかったが、電車に乗るには、多分もう間に合わない。どうしよう、脇本を頼りたくはないが、米プラザのゴールを譲る条件なら、車に便乗させてもらえるだろうか。そんな話を持ちかけるのも嫌だけれど、どうしよう。脇本の様子をちらっと見やると、しきりに後ろと空模様を気にしている。

「やばいで。おっさんどもが追いついて来よった。このまま、あと一時間逃げ切るのは、さすがにきついな。いったん吸収されて様子見るか。それに、この空。雹が止んだと思ったら、もうじき雨になるで。やばすぎるわ」

 脇本の履くタイヤ、ドイツ製で軽量なグランプリTT。クリンチャータイヤの中で随一ともいえる転がり抵抗の低さを誇るが、ウェットグリップについては実戦で未確認だ。このままいけば路面が濡れた状態で最後にスプリント勝負。千ワットでスパート掛ければ、滑ってしまうリスクがある。じゃあ、そろそろこの子を使い捨てにする時やな。

「ミドリちゃん、このまま逃げるで。分かってる、車のことやろ。北小松まで全力で曳いてくれたら、うちのチームの車に乗せたるわ」

           *

 落ちてきそうな分厚い雲の彼方から、雷鳴が響き、湖面に竜巻が発生している。こちらに向かってくる気がする。いや、気のせいじゃなくて、本当に来た。速すぎる。逃げ場がない。地震かと思うほどの地鳴りを伴う轟音と共に、庭島と四郎の目の前に、トタン屋根やら折れた街路樹、ママチャリなどが飛んできた。せっかく脇本を視界に捉えたのに。

 意外に思えるが、琵琶湖ではたまに竜巻が発生し、直撃した民家や店舗は大打撃を受ける。時期は夏から秋にかけてが多く、時間帯は午後が多い。日本でも数年前に、藤田スケールF三レベル、五秒間の平均風速が七十以上九十二メートル以下の突風が吹き荒れたことがある。F三ともなると、風圧で民家が倒壊し、自動車が吹き飛ばされる。今回の竜巻はF〇レベルと発表されたが、十五秒間の平均風速が十七メートルだった。

 竜巻が去ったと思ったら、今度は雨が降り出した。あっという間に土砂降りになる。夕立なのだろうか。どんどん激しくなる一方だ。ビワイチルートの湖西側には、新旭駅の先にある、藤樹の里あどがわ以外には、道の駅のような避難場所はない。今さっき通り過ぎたが、戻るか?視界が悪いなんてもんじゃない。滝に打たれているのとまったく変わらない。この時の局地的大雨は、気象庁の発表によると、近江高島での一時間降水量が百五十四ミリになり、観測史上最大を記録したという。

「なあ、庭島くんよ。夏場の雨のライドはさ、汗も流れ落ちるし、結構好きなんだけど、これはちょっとシャレにならんな。目も開けられないし、道路がどんどん川になりよる。おれ、道路で水泳って、あんまり得意じゃないんだよね。この先の、どっかで雨宿りしないと、バイクごと流される」

           *

 米プラザまで残り二十二キロ地点、国道一六一号線の西側にある白髭神社は、湖中の大鳥居が有名で、パワースポットとしても人気を博しており、ビワイチで立ち寄るローディーも非常に多い。もともとは極めて由緒ある社であり、全国にある白髭神社の総本社である。社紋は左三ツ巴。祭神は猿田彦。天孫降臨の際、三種の神器を携えた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を先導した。天武天皇の勅旨により、比良明神の号を賜り、困難な道を開く、導きの神として祀られている。

 ミドリを犠牲にして、最後の逃げを決めようとした脇本であったが、観測史上空前の豪雨に遭い、ほかに雨宿りできそうな建物も見当たらず、白髭神社に駆け込んだ。道路も参道も区別がつかない沼状態になっているが、大きな庇のある建物もなく、参拝客らは階段を上って、摂末社の屋根の下あたりに固まっている。救急車のサイレンが聞こえるが、移動している様子がない。

 雨で濡れること自体は、ブルベにはつきものだし、大きな支障はない。ただ、道路が川と化してしまった現状では、まず路面の状態が確認できないし、タイヤがグリップせずに、走行中の車と衝突するリスクが大きい。水が引くのを待っているうちに時間切れか、と焦っていると、なんと庭島と四郎まで境内にやってきた。今までの苦労は何やったんや。

「ミドリちゃん、この天気やったら、多分みんなゴールは無理やわ。ここまで付き合わせて悪かった。お土産に何か買ったるわ。稚鮎の佃煮と、モロコの佃煮とどっちがええ?」

           *

 気象庁では局地的大雨と呼んでいるゲリラ豪雨は、上空の冷たい空気と、地表の温かい空気が混ざる過程で、大気の状態が不安定になって発生する。 

 米プラザに着いた君世は、ビワイチの途中で、陰陽の気が練られて渦を成し、太極に安定するまでのプロセスとして、積乱雲や落雷が発生するくらいは予想していたが、まさか竜巻が襲ったり、ここまでの集中豪雨になるとは想定外だった。全員が無事に戻ってくることが、得難い奇跡のような気がしてきて、思わず北の空に向かって掌を合わせる。

「時間的には、白髭神社のあたりかしら。猿田彦さま、どうぞみんなをお導きください」

           *

 白髭神社から北に二キロ。風情のある木造の太鼓橋が、この雨で水没してしまった乙女ヶ池のほとり、高島警察署勝野交番に、這々の体で駆け込んだ陽子と亜弓だった。交番内は誰もいない。きっと今、避難指示とか救助作業とかで大変なのだろう。

 交番の中に自転車を運び込み、スマホが作動するのを確認してから、ドアを閉めても床上に浸出してくる泥水に足首まで浸かりながら、亜弓は窓越しに水面を眺めていた。地上に叩きつけられた雨は、跳ねる暇もなく、さらに上からの雨粒に叩きつけられ続ける。まるで今日のわたしみたい。こんなに次から次に苦難に襲われるなんて。もう何もかも終わりかもしれない。

 いつだったっけ、こんなふうに、土砂降りの往来を眺めてため息をついていた。あの時は、そう、箱根だ。わたしが大涌谷が見たいって言って、当時噴火警戒でロープウェイが止まってて、でも、このカタナだったら行けない所はないぜって彼が言うから、そのままオートバイで突破しようとしたら、すごい雨が降ってきて・・・

「おねえちゃん、わたしのスマホどこにある?これじゃなくて、アイフォンの方。LINEの既読が付いたか、今すぐ確認したいの」

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