第37話 ビワイチ・天変(前)

 専門誌が主催する最速店長選手権は、毎年九月に千葉県の下総フレンドリーパークで行われ、全国から脚に覚えのあるスポーツサイクルショップの店長が数十名エントリーする。多くの参加者は、日本実業団カテゴリーの上級者止まりで、ヨーロッパでプロとして活躍した店長は、脇本優以外には、ほとんどいない。

 コースは毎年同じで、高低差のほぼない一キロ半を、五十周回するのだが、当然ながら巡航速度は高い。平均で時速四十キロ強をキープしつつ、集団の前方で繰り返されるアタック合戦に乗り遅れないためには、時速五十五キロで追うようなダッシュを数十回も繰り返さねばならない。

 しかし、本場ヨーロッパの、トッププロ養成カテゴリーで揉まれてきた脇本にとっては、しょせんアマチュアの、お祭り騒ぎに過ぎない。確かに庭島栄司も、猛井四郎も速いが、それはこちらが手加減し過ぎただけである。

 店長とひとくくりに言っても、元プロ選手としての知名度や経験を買われて、大型ショップの社員として、毎月決まった給料をもらえる雇われ店長と、ショップのメカニック出身の庭島のように、独立して店を構える、自営の一人親方型に大別される。四郎などは、ロードバイクを販売もしないくせに、雇われ店長を目の敵にする。脇本は去年のレースで自営店長たちから厳しいマークに遭い、先頭集団にほとんど絡ませてもらえず、ゴールスプリントで必死に追ったが、届かなかった。こっちはヘトヘトになっても明日は仕事だ。サラリーマンは辛いぜ。

 ヨーロッパのレースは、噂には聞いていたが、チームドクターが率先して脱法ドーピングに熱心であり、脇本も痛み止めとか、持久力やスプリント力アップなどの処方を強く勧められた。勧められたというより、ほとんどチームとしての指示、命令である。レースで結果が出ないと、いろんな誘惑に弱くなってしまうが、倫理観というよりは、そんなものに頼るのは生理的に気持ち悪くて、断り続けた。ただ、カフェインは除いて。

 選手を引退したのは、左膝の慢性的な不調のためということにしているが、賞金額が安すぎてモチベーションが保てないのと、自動車のフォーミュラレースもそうだが、ロードレースはそもそも、狩猟を趣味とするヨーロッパの貴族文化が情緒的根底にある。よそ者の東洋人がいくら速くても、スポンサーからの持参金を期待されているだけで、所詮はエースになどなれず、チームに心から溶け込むことなどできない。それが身にしみて分かったから、プロレーサーとしては引退して、日本に帰ってきたのである。

 彦根あたりから、脇本は古傷の左膝がいよいよ痛んできた。最速店長選手権の七十五キロ程度なら、全力を出しても支障ない。普段のビワイチならば、チームの若手に、トレーニングと称して前を曳かせればいい。ただ、今回のブルベは正直、きつすぎる。やっぱりミドリに先頭交代してもらおう。何をエサにして釣ったら張り切りよるかな。

「なんだ?あいつら確かアワイチでも見かけた。やっぱりシークレット・ブルベ走ってるのか。あれ、美津根氏までいる。みんな仲良く水浴びタイムか?ミドリちゃん、チャンスや。ここで一気に抜けるで。前出て、思っ切り曳いてくれ。近江牛のすき焼き、おごったるから」

           *

 湖で体を冷やすことができた亜弓は、再び陽子と共にロードバイクにまたがった。どれくらい時間をロスしただろう。何人かには、もう抜かれたかもしれないが、仕方ない。

 出発しようとした時、少し離れたところで丸瀬紗弥がこちらを見守っているのに気付いた。事情は分からないけれど、わたしを待っててくれたに違いない。何を言うべきか分からないけれど、でもひとこと何か言わなくちゃ。

「紗弥ちゃん、ごめんね。ありがとう。もう大丈夫だから。一緒には行けないけれど、最後まで頑張ってみるよ」

 紗弥は、謝らないでください、と言って、ミラーシールドを装着したエアロヘルメットをかぶり直すと、軽く頭を下げ、大柄な男性と共に、先に行ってしまった。

 ビワイチに上りらしい上りがあるのは、湖北の峠だけである。その手前、国道八号線の賤ヶ岳トンネルは狭くて暗く、車の通行量も多いため、賤ヶ岳橋の大音交差点を北側の旧道に入り、賤ヶ岳隧道を抜けることになる。

 湖北みずどりステーションを過ぎた時、突然空が暗くなり、大粒の雹(ひょう)がバラバラと降ってきた。霰(あられ)みたいな生やさしいものじゃない。凍ったパチンコ玉のような雹に全身を打たれ続け、直撃した腕は血がにじむ。

 アンカーのフレーム、プロフォーマットは、二百キロ走っても疲れにくい設計になっているというが、それはそもそも二百キロ走れる体力の持ち主のセリフだろう。とっくに二百キロを超え、湖から出た時は、まだ走れるかな、いや、走らなくちゃと思っていたが、体中が痛くて足に力が入らない。そこへ、雹の集中爆撃である。たまらず、賤ヶ岳隧道の中で足を止めていると、後方から女性三人組が追い抜いて行った。この荒天を裂き、疾風をまとった荒い息づかいに、みなぎる気迫が感じられた。間違いない、あの人たちもブルベの参加者だ。心が折れてる場合じゃない。

「行こう、陽子。まだ終わらせない」

           *

 荻原真理子が、メグとシホをひき連れて、道の駅塩津海道あぢかまの里に差し掛かった時、ちょうど美津根が女の子を連れて道路に出るところだった。

「きゃー、美津根さん、ここで追いつけた!お久しぶり。お元気でした?ええ、わたしは大丈夫、今のところはね。医者には、過度な運動は禁止って言われてますけど、これくらい、過度じゃないですよね。確かこの辺で折り返し点でしょ。あと二時間ちょっとだけど、楽しみましょうね」

 美津根も嬉しそうである。

「いつの間に舎弟作ったんだ?あんまり遅いから、カルガモの親子が来たのかと思ったぞ。雹がひどすぎて、ちょうど道の駅があったからさ、ここの名物の丸子焼きと猪コロッケ食ってたんだけど、こいつが早く行こうって、ゆっくり補給もさせてくれないんだよ」

 傍らの紗弥は真理子を見て、現役のプロはオーラが違う、この人が最後の敵かもと思った。今さら自己紹介するのもきまりが悪いが、何とか営業スマイルを作る。

「丸瀬といいます。よろしくお願いします。じゃ、美津根さん、雹も小降りになったし、行きましょう」

「うん。あ、いや、ちょっと待って。この子たちは勝手に付いてくるってことでいいんだよな」

 カルガモでも金魚のフンでも構わない。とにかくここは後に付かせてもらえるだけで有り難い。シホはメグの首根っこを押さえながら、九十度に腰を折った。時刻は十五時三十分。現在の順位は、ミドリ・脇本~庭島・四郎~真理子・紗弥・美津根・メグ・シホ~陽子・亜弓。

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