第35話 ビワイチ・雷雲(前)

 琵琶湖の東岸は、完全にフラットな路面で、路側帯には小石や砂粒が多いものの、淡路島に比べてもアスファルトの小さな亀裂は少なく、向かい風さえなければスピードは乗る。青いペンキで示されたビワイチルートは、曲がるべき交差点になかったり、道路標識と一致しないなど、過信は禁物である。

 ミドリの後を付いていくのもラクで良かったが、荻原真理子の先導のすごさに、しんがりのシホは感動を覚えていた。先頭を曳く者は風圧を最も受け、路面状態やルート確認、交通状況などを同時に考慮しながら走らねばならず、同じだけ走ったメンバーよりも、はるかに消耗する。それでも真理子は、ちょくちょく後方を確認しつつ、小石を除けるライン取りや、先頭の加減速に、どれだけ接近して追従できるかなど、後に続く者たちの力量や疲れ具合まで見極めた上で、限界一歩手前の速度で引っ張ってくれるのである。おかげで、エンジェルの三人で走るよりも、安心して、しかも疲労感さえあまり感じないままに、信じられないペースで走れた。

 米プラザから、湖北みずどりステーションまで六十六キロ。地図をぱっと見た感じでは、もう半分走ったくらいの気がするが、二時間も経っていない。みずどりステーションの二階が、ちょっと寂れた感じの展望休憩所になっており、ここでトイレ休憩と補給をすることにした。

「良いペースだね。この後、ちょっと狭いトンネルと、一つだけ上りがあるけど、大丈夫。十八時までには絶対着けるよ」

 日本のトップレーサーに笑顔で太鼓判を押されて、嬉しくないわけがない。

「自己紹介・・・あ、わたしのこと知っててくれてるんだっけ」

「はい、ペンがあったら、ジャージにサイン頂きたいくらいです。わたし、長濱志帆といいます。宇都宮ヴェント、ご存じですよね。あのチームの広報なんです。っていうか、今は無職なんですけど」

「そうなの。シホさん、頼りがいのあるお姉さんって感じ。よろしくね」

 真理子の人なつこい笑顔に、見ているこちらまで元気がわいてくる。

「あ、あの、わたし和邇萌美です。ワニって言われるのが嫌なんで、名字はあんまり言いたくなくて、メグって呼んでください」

 メグが、この自己紹介をしたのは、去年の夏、あの青年に出会った日のイベント以来だった。メイド喫茶でバイトしながら、地下アイドルは嫌で、タレント事務所のオーディションを受けまくったものの、高いレッスン料を払いタレントスクールに通った訳ではないメグには、一つも合格通知は来なかった。

 なかば諦めて、興味本位で応募したヴェントエンジェルに補欠採用され、ちょうどメンバーが一人卒業したので、繰り上げで運良くシホたちの仲間になったのである。最初の仕事は、サイクルマナーダンスというPVの公開収録だった。ラジオ体操レベルの振り付けだったが、一人だけ半テンポ遅れたりするので、ディレクターに呆れられながらテイクを重ね、舞台袖でべそをかいていた。

 何とか収録が終わり、着替えて外に出た時、シホやミドリには既に固定ファンがいて、花束なんかを手渡している。メグは黙って周囲に頭を下げ、一人で帰ろうとしていたが、仮面ライダーみたいな、とんがってきらきら光る大きなオートバイから、黒に赤い稲妻模様の入った革ジャンの青年が近づいてきて、メグに赤いバラを一本手渡した。一瞬怖くて、身体がすくんだが、メットを取った顔は穏やかに笑っていた。

「今日は見てて楽しかった。君が一番頑張ってたね。おれも元気もらえたし、もう少しだけ頑張ってみるよ。じゃ、また、どこかで」

 わたしにもファンがいたんだ!あのバラは数日でしおれてしまったけれど、誰かが見守ってくれる、応援してくれるってことが、こんなに勇気とか元気が出るなんて、初めて知った。あれからいろいろ辛いこともあったけれど、あの時の気持ちを忘れずに、ここまで来れた。だから、あの青年にもう一度会って、今度はちゃんと名前を聞いてから、ありがとうって言いたい。でも、あの人、どこか虚ろで淋しげな目をしていた。きっと辛いことがあるんだろう。ポンコツのわたしだけど、何かしてあげられることがないかな。とにかく今日は、真理子さんに付いて完走しなくちゃ。

 真理子はスマホを取り出し、ライブトラック機能で共有した美津根の現在位置を確認する。

「あれ?もっと先に行ってると思ったのに。まだ賤ヶ岳トンネルの手前だ。どうしたんだろう、トラブルでなけりゃいいけど、すぐに追いつけるわ」

           *

 紗弥は地面に足を着いたまま、とまどっていた。目の前を行く亜弓が、ふらふら走っているので、調子が悪そうだというのは分かっていた。抜こうと思えばいつでも抜ける。でも美津根は、ぎりぎりまで足を使わせて、二度と抜き返せないくらいまで消耗させてから、一気に抜き去れと指示した。

 レースの戦術としては、それが正しいのだろう。でも、わたしは亜弓さんに勝つことが目的じゃない。むしろ逆に、取り返しのつかない過ちを、神頼みでも何でもいいから償いたくて走っている。ここで彼女が力尽きてしまったら、そのまま見捨てて行くことが、わたしの願いと矛盾しないのか。スポーツとか、勝負事とか、それ以前に人として、許されることなんだろうか。

 美津根は何も言わず、紗弥から少し離れて見守っている。ここは自分で考えろということなのだろう。こんな時、彼だったらどうするのだろう。

 去年の夏、革ジャンなんて、いかれたロックミュージシャンかライダー以外、着ている物好きはいない蒸し暑い日だった。思い出そうとしても思い出せないくらい、些細でどうでも良いことで、彼と口げんかになった。

「じゃあ、あたしと勝負する?普通の走りなら、多分あんたの方が速いから、チキンやろうよ。度胸とブレーキングだったら、絶対負けない」

 心の底では、敵わないことは分かっていた。でも、オトコの言いなりになるなんて、絶対嫌。意地を張って良いことなんかないと、身体で分かる授業料としては、高すぎたけれど。あの時の彼の言葉は忘れない。

「お前、助けてほしいんだろ。人間だから、間違うこともあるよねって、許してもらいたいんだろ。甘いんだよ。父親から虐待だか何だか知らないが、いつまで強がってひねくれてんだよ。崖から落ちても、お互いに助けに行かない。その条件呑めるんなら、チキン受けてやるぜ」

 もう引き返せない。その結果、一人崖に転落した紗弥を、やっぱりあいつは助けに来た。おれが負けたから、約束なんて、どうでもいいんだよと、ぶっきらぼうに言って。あの時、涙が止まらなかったのは、骨折した痛みでも、先にブレーキを掛けてしまった悔しさでもない。彼の優しさという名の甘さと、自分の愚かさという名の弱さが、つないだ掌から、初めて伝わったから。

「美津根さん、わたし、あの人がもう一度ロードバイクに乗るまで、ここで待ってます」

           *

 空が急に暗くなり、雷鳴が轟いて、バラバラと大粒の雹が降ってきた。予報ではまったくそんなことは伝えていなかったのに。北東の空を見上げ、君世は西宮神社を後にして、琵琶湖へと急ぐ。幸い娘は、よく寝てくれている。

「圧縮された陽の気に反応して、陰の気が龍のようにうねっている。即席のオーブは、機能してるんだろうか。うまく練らないと、物質と反物質が出会ったときのように、一瞬で両方が消滅しちゃう」

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