第34話 ビワイチ・深淵(後)

 なぎさ公園に設置されている、サイクリスト聖地の碑は、ダンサーでもあるモデルが、ロードバイクの横で、右足を天に伸ばしたポーズを元に、守山市長の提案で造られた。写真を撮っていくローディーもいるが、それほど人気スポットというわけでもない。ミドリは、穏やかな湖岸の景色を楽しむ余裕もなく、脇本を連れ、はるか先行しているはずのライバル達を追い続ける。

「ええ走りしとるやないか。ぼくの目に狂いはなかったな。そのジャージ、実業団のヴェントと関係あるんか。スポンサー名付いてないけどな。自分、名前なんて言うん?」

「ミドリです。息長(おきなが)碧鳥。宇都宮ヴェントの女子チームです」

「そうなんや。ヴェントは強い割に金がないからな、日本でなんぼレースやっても儲からんしな。ぼくは『脇役ちゃうで、本まの優勝候補やで』の、脇本優や。よろしゅうに。それと、なに、オキナガ?それって、古代近江の豪族やんか。こっちの人なん?」

 この男としゃべっていても、何も得はしない。わたしを利用して前に追いつくつもりだろうが、最後はこっちが利用してやる。それまでは辛抱だ。気温は三十二度、路面温度は五十度近くになっている。それよりこの湿気、時々頭からボトルの水を掛けないと、気化熱で体が冷却されない。

「十分間曳きましたから、交代してください。休憩はいらないんで、このまま二百八十ワットキープでお願いします」

           *

 琵琶湖の東岸、大橋を渡って彦根までは、ほぼ平坦で四十キロ余りである。最速店長の猛井四郎と庭島栄司は、わずか一時間で彦根城まで到着した。ここまで予定以上の順調なペースであるが、一般サイクリストらしきグループは結構追い抜いたものの、先行したブルベの連中の背中は一向に見えない。やはりビワイチで三十分近くのハンデは大きすぎたか。しかしこれ以上ペースを上げると、最後に足がなくなる。湖北までに追いつければと思っていたが、今津か高島あたりで抜けばいいか。

「なあ庭島。お前、何のために自転車乗ってるんだ?」

 四郎の質問は、多分、脇本みたいに何か陰湿な意図があってのものではなさそうだ。しかし、今さら何を聞きたいのだろう。

「上海のインターナショナルスクールに居たんですよ。当時から格闘系のスポーツがやりたくて、ラグビーとかフィールドホッケーとかかじったんです。球技は、まあ、そこそこできるようにはなるんですけど、チームプレイとか、あんまり集団競技に向いてないなと遅まきながら気付いて。もっと一人で結果出せて、体力限界まで使って、アドレナリン最高潮になれるのは何だろうと思って、それでロードバイクに乗り出したんですよ。

 ボクシングとか、そっち系もあったかもしれないですけど、ぼく、もともと工学部出身で機械いじり好きなんですよね。電気仕掛けとかは苦手なんで、自転車がちょうど良かったんです。目標立てて、計画的に努力して、頑張ったら結果に結びつく分かりやすさって、あるじゃないですか」

 四郎は庭島に質問したことを、既に後悔していた。退屈だ、こいつ。仕事も趣味も、真面目にこつこつ頑張って、幸せな人生を踏み外さないタイプだ。家族もきっと幸せにしてやれるんだろうな。イケメンでモテそうだし。誠実で客や友だちにも信頼されてるだろう。頭もいいし、金もありそうだ。欠点らしいものが何もない。実につまらん。こいつの願い事なんて、どうせ取るに足らないものなんだろう。だったら、こいつに勝たせたらいかんな。

「それで、四郎さんは、何でそば屋継がずに、自転車乗ってるんですか?」

「ああ、人に聞いたら、自分も言わなきゃダメだよな。すまんすまん。おれはさ、子どもの頃、デブでいじめられてたんだよ。心すさんでたね。絶対仕返ししてやろうと思った。兄貴がさ、自転車乗ったらやせるぞって言ったから、ちょっと頑張って毎日乗ったら、ほんとにやせたんだよ。その延長だな。

 そば屋の仕事はさ、好きなんだけど、ほら、おれ達にとったら、全然カロリー足りないじゃん。まかないで天ぷらばかり食うわけにもいかんしさ、どうせなら自転車の仕事で食っていけたらいいなと思ったわけ。

 でもおれ、客商売って向いてないからさ。ありがとうございますって、心で思ってなくても口癖みたいに言わなきゃだめだろ。無理なんだよ、そういうの。だからさ、おれの言うこと聞く客だけ集めるために、ローラー教室開いて、時々実走練習して、怒鳴りながらストレス発散して金儲けしてるんだ。いいだろ。辞められんよ、まったく」

 話が長い割に中身はないなと庭島は思ったが、無駄話が一段落したので良かった。多分、生き辛さっていうのは、誰でも大なり小なり抱えているのだろうけれど、ロードバイクの魅力は、社会生活でマイナスに作用しがちな個性を、そのまま活かして、前向きな力に変えてくれることなんじゃないかな。そんな見解を四郎に向けたら、この優等生の若造が生意気だとか、また無意味に怒るんだろう。

 ひこにゃんで有名になった彦根城を過ぎれば、鳥人間コンテストの舞台となる松原水泳場がある。遊泳期間は確か七月になってからのはずだが、誰か泳いでいる。近くにはロードバイクが停まっている。学生がふざけているのか?危ないから注意してやろう。そう思って近づこうとした庭島であったが、アワイチで見かけた女子たちだと気付いた。

「あ、四郎さん。目の毒だから、このまま行きましょう」

           *

 亜弓は目の前がもうろうとしてきた。陽子から、こまめに水分を摂れと言われて、高カロリーのCCDドリンクは結構飲んでいた。しかし、いくら吸収の良いスポーツドリンクとはいえ、一時間にボトル一本分なんて飲めるわけがない。お腹がたぷたぷになって、逆に固形物が喉を通らなくなり、ハンガーノックの原因になる。トイレが近くなるのも嫌だ。頭からボトルの水をかぶれっていっても、なんだか恥ずかしいし、化粧崩れはあんまり気にしないっていっても、やっぱり女子だし。

 前を曳く陽子は、残りの距離と時刻を気にするあまり、そんな亜弓の様子を細かくチェックできていなかった。ヒートストローク。熱中症は気温の高さも一因ではあるが、むしろこの時期は、湿度が高すぎるために、汗が蒸発しにくく、気化熱で体が十分冷やされないことが最大の原因となる。ただでさえ、五千カロリーも消費するブルベの最中である。これだけのカロリーを燃焼させて、体外へ出せないとなると、一気に具合が悪くなるのは当然である。

「おねえちゃん、ちょっと待って。ごめん。気分悪い。体熱い。ちょっと休ませて」

 陽子は、しまったと気付いたが、いったんヒートストロークを起こしてしまうと、すぐに回復は難しい。今から水分を摂ったり体を濡れタオルで拭く程度では間に合わない。とにかく体を冷やすしかない。仕方ない、ちょうど目の前が水泳場だ。

「亜弓、わたしも一緒に入るから、このまま湖に浸かろう」

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